離反
それから桂ら三人は、すぐに城下へと戻ることはしなかった。やはり残してきた杉吉之助のことが少し気がかりであったからである。彼がもし城に戻ってこの事を喋れば、桂と与六の二人はすぐに、仲間をしかも自分たちの侍頭を斬ったということでお尋ね者となるわけである。
彼らはいったん山を南へ下ると、今度は関屋川の河原に沿って山裾より三国岳へと分け入った。その尾根を渡り、養老山へと向かったのである。
ここまでずっと黙って与六の背中で揺られていた娘も、途中おぶり疲れ、歩が進まなくなった彼を見かねたのだろう。彼女は与六の広い背中を拳で叩くと、黙って後ろに飛び降りた。
「娘、お前の名は何というのじゃ?」
「・・・・・」
滝のように流れる汗を拭いながら与六が尋ねたが、彼女は頑なにその口を開こうとはしない。それでも娘は、彼らからは逃げるわけでもなく、また彼らの少し後を離れて追いかけてくるのである。
ちょうど彼らが菅坂峠に差し掛かったときのことである。峠の反対側の尾根を一人の男が真っ直ぐにこちらに向かってくるのが見えてきた。
男の格好は旅支度のようにも見えるが、左手には巻き菰を握り、梅鉢の家紋をつけた陣笠を被っている。
男が歩いて来た方角からすると、それは当主一色義道の居城、建部山城下の方からであり、向かう先は京へと続く道でもある。
与六はすぐに菰に巻いた太刀を草むらへと隠すと、その朱槍を小脇に抱えた。その横では桂がすでに弓を握っている。傍らでは、あの娘も頭を低くして身を小さくしている。
「わしらのことを追ってきた者であろうか?」
与六は音を立てずに、槍の柄をひとつしごいた。
「それにしては、一人というのもおかしい」
桂は、男の左手にも菰に蒔かれた太刀があることに気付いていた。
男はなお足早に、三人の目の前を通り過ぎようとしている。とその時、今男が歩いてきた方から、騎馬に乗った侍とその後に続いて五人の徒兵が息を切らせながら走って来るのが見えた。
今度こそ、自分達を探索しに来た一色家の者に違いない。桂と与六は覚悟を決めた。
桂はいよいよもって矢筒を自分の傍らに置くと、その中から五本の矢を取り出し足下へと突き刺す。そして、素早くそのうちの一本を弓へと番えた。
ところがその意に反して、騎馬侍は桂達ではなく、今眼の前を過ぎゆく一人の男の行く手を阻んだのである。すかさず残りの徒兵がその男の周りを囲む。
「殿の命によりこの場にてお命を頂戴いたす」
馬上の武者は言うなり、その太刀を男の頭上に振りかざした。同時に彼を囲む五人の槍が男との間合いを詰めて行く。
男は騎馬武者の最初の一撃をかわすと、転がるようにしながら一人の槍兵の横腹を薙いだ。
その剣さばきは見事なものであったが、そこは流石に多勢に無勢、しだいに男とそれを囲む兵達との間合いは詰まっていく。
「殿の命とは笑止千万。おおかた家老の三方盛房殿の差し金であろう」
男はそう言うと、馬上の武者を睨み付けてさらに叫ぶ。
「おぬしこそ、丹後の百姓共が汗水垂らして育てた米を、盛房殿が横領せしことを黙って見逃せと申すのか」
「問答無用じゃ」
騎馬武者は掃いて捨てるように答える。
春先の乾いた風が、峠を北から南へと吹き抜けて行く。それはまだ生え揃わぬ草むらの中に、ところどころ水気を失った茅の穂にあたり擦れ合う音を奏でるようにと渡っていく。
「どうやら、追って来たのはわしらでは無かったようじゃのう」
いつの間にか、与六も桂の傍らでこの戦況を分析し始めている。
「このままではあの男、討ち取られてしまうな」
桂は番えた弓の弦を僅かに引いた。
「またお前の悪い虫が疼き始めたようじゃのう」
「それは、どのような虫じゃ?」
桂は眼だけは彼らを追いながらも、なお与六に尋ねる。
「お節介という名の虫じゃ」
与六はにこりと笑うと、今度はその朱槍を大きくひとつしごいてみせた。
「どうやら正義はあの男の方にあるようじゃ。行くぞ」
言うが早いか、桂はその弓で槍兵一人をすでに射抜いている。
与六も草むらより這い出るや、自慢の朱槍を振り回す。
「助太刀いたーすっ!」
与六は眼の前に立ちはだかった徒兵の槍をくるりと巻くように絡め取ると、その兵のみぞおちを石突きで一突きにした。次いで、横から繰り出された槍の柄をつかみ取るなり、その槍の柄で、これまたその兵の喉を一突きにしてみせたのである。
これに驚いた騎馬武者は、旗色が悪くなったと思ったのであろう。すぐに踵を返すと、たった今来た道を土煙と供に戻って行った。
桂は馬の蹄の音が無くなるのを待ってから、草むらより顔を出した。傍らには娘の姿もある。
与六は未だ興奮が冷め止まぬのか、その槍をひと振りさせると勢いよく地面に突き立てた。
男は彼らに深々と一礼すると、その頭に掛けた陣笠を紐解いた。
「危ういところ、まことに忝ない。拙者、元は一色家が重臣三方盛房殿の家臣、日下部冬馬と申す者。けっして怪しい者ではござらん」
一見すると、その男の歳格好は桂や与六と同じ程にも感じられたが、ただその男は月代も綺麗に整えており、何にも増してどことなく品のある顔立ちをしている。
桂は自分たちの名乗りも忘れるほどに尋ねた。
「その怪しい者ではないはずの日下部様が、何故城からの追っ手に狙われたのでございますか?」
日下部冬馬が語りだしたことによると、彼は一色義道の重臣三方盛房のもとで、藩の財政面を取り仕切る仕事に就いていたという。いわゆる勘定方というものである。
その中には年貢の取り立てや領内で産出される特産物の売買に関する税の徴収なども、もちろん含まれている。
ある時、彼が取り仕切る年貢米の台帳簿と実際に城へと納められた米の量に幾らかの違いがあったことに気付いたのである。
普通の者ならば気にも止めないところであろうが、まじめ一徹な彼はどうしてもその理由が知りたくなった。早速彼は村々へと馬を走らせると、その米を徴収した役人に話を聞いて廻ったのである。
役人の話によると、どうやら勘定奉行の三方盛房の指示により、年貢米の一部が横流しされているということが判明したのだ。
つまりは年貢米の横領である。
城に戻るや否や、冬馬はこれを当主でもある一色義道へと報告した。
義道は家臣の前で、冬馬の仕事ぶりをたいそう褒め称えると、義道には珍しく扇子を一面彼に与えた。
ところがその日の夕刻、城での勤めを終えた冬馬が家路についたところを、彼は三人の賊に襲われることとなったのである。
「うっ、何奴。拙者は人に恨まれるようなことに身に覚えはござらん」
冬馬は声を荒げた。が、三人の賊は一言も語らずに、なおも剣先を彼に向けてくる。冬馬は帰路の道筋にある先尾神社の境内まで走った。
先尾神社には鳥居を抜けると左右に二本の大銀杏がある。少なく見ても樹齢二百年はゆうに越えているようだ。
冬馬は左の銀杏の木を盾に使うと、反転し賊の一人に斬りかかった。
袈裟に振り下ろした彼の剣先を、賊の男は後ろに飛びはね辛うじて避けた。しかし、その拍子に男は片足を木の浮き出た根に掛け、大きく仰向けに転んでしまったのである。
頭巾が取れたその男の顔を見て、冬馬は大きく唸った。
「おぬしは安達ではないか」
男は左手で再び頭巾を覆うと、なおも冬馬に斬りかかって来た。咄嗟に彼はその男の胴を右に払う。
男は二三歩立ち進むと、よろけるようにその場へと倒れた。
それから冬馬はなおも境内を走り、手水舎の前で賊の一人に手傷を負わせると、二人はその場から逃げるように立ち去って行った。
冬馬は急いで、再び銀杏の木の元へと戻った。そこにはあの安達がいたからである。
別に二人は旧知の仲というわけではなかったが、それでも城では何度となく言葉を交わしたことがあったからだ。
安達はその名を一成という。冬馬とは同じく三方盛房の家臣で、彼は勘定方の冬馬とは異なり、むしろ武辺一辺倒で一色家に仕えている。
冬馬は一成を抱きかかえると、袖を千切りそれを彼の腹へと押し充てた。傷口からは真っ赤な血が泡を吹くように流れている。到底助かる見込みは無かった。
「一刻も早く御城下を出られよ・・・」
それが、安達一成の最後の言葉であった。
冬馬は一成を銀杏の木に寄りかからせるようにと置いた。
彼は家までの道を走りながら考えに考えた。
何故自分が命を狙われたのか。何故自分の命を狙った男が、三方盛房の家来だったのか。
そして、年貢米の横領のことを殿に報告した事実を知らないはずの盛房が、何故こうも早く刺客を自分に差し向けることができたのか。
答は簡単である。
日下部冬馬が報告した年貢米横領の真の黒幕は、三方盛房ではなく当主の一色義道本人であったとすると全て辻褄が合うのだ。
つまり義道は冬馬から報告を聞くや否や、家臣の前では褒め称え褒美まで取らせていたが、一方で秘密を知った彼を亡き者にしようと盛房に冬馬の処分を任せたのである。
当然三方盛房はすぐさま、この日下部冬馬の口を封じるために三人の刺客を送り込んで来たのだ。
安達一成もそのひとりであった。
しかし、武辺者の彼は盛房の命のもと仕方なく冬馬の暗殺には加わったが、ついに彼を切る気など無かったのであろう。それが証拠に、彼ほどの太刀の使い手が勘定方の冬馬ごときにそう易々と斬られるはずがなかった。
そしてそれは一成が残した、最後の言葉からも容易に伺い知ることができたのである。
彼はきっと、冬馬にこの言葉を伝えたくて、真っ先に冬馬の剣先へと突っ込んできたのであろう。それはいかにも武辺者らしい安達一成という男の生き方でもあったのかも知れない。
いずれにしても、冬馬は家に着くなり身支度もそこそこに、すぐさま城下を後にした。
母ひとり子一人の彼にとって、母を残してくることはきっと断腸の思いであったに違いない。
しかし、そこは武士の家系である。冬馬の様子からただならぬことと悟った母親は、何も言わずに黙って冬馬を出立させたのである。
「母上、申し訳ございませぬ」
冬馬は大雲寺の脇を歩きながら、その涙を陣笠で隠した。
一方、三方盛房側も黙って彼を行かせるはずもない。彼は次なる刺客を使わしたわけである。
しかし、ここから先は桂や与六も身をもって知っているように、この暗殺者達も結城桂と亀井与六というとんだ邪魔者が入ったおかげで失敗に終わることになったのであった。
話し終えると、日下部冬馬は峠の方を振り返った。そこには家に残してきた母への思いが込み上げてきたからであろう。
「日下部様も追われている身でござりまするか?」
桂はひとつ深いため息をついた。
「そなた達も追われていると申すのか?」
言いながら、冬馬は二人の格好を足のつま先から頭の天辺まで眺め回す。
それぞれの甲冑には幾らかの返り血が着いているものの、それは戦国時代の中では、どう見てもただの雑兵にしか見えなかったからである。
二人は冬馬の問いかけに何も答えず、代わりに名前と所属を口にした。それは、あの杉吉之助が城に戻り、自分達のことを喋ったかどうかを確かめる為でもあった。
つまりは、冬馬が城で内藤弘重の死について何か聞いていないか知りたかったからである。
結果、城では若狭に攻め込み、力ずくで源力木山城を落とした一色義定の勇猛さは話題になっているものの、侍頭である内藤弘重の死についてなど噂にもなっていないということが分かった。
やはり、二人の見立て通り、杉吉之助はあえて彼らのことを、自ら他の者に語りはしなかったのである。桂も与六も内心では少しだけ安堵した。
そんな二人の様子を察知してか、冬馬は桂の背中の後ろに隠れるように立っている、その娘を見ながら語りかけた。
「それにしても、貴殿らも、また随分と可愛らしいご家来を連れておりますなあ」
「可愛い家来?・・・」
二人は改めて、その娘の顔をまじまじと見つめた。
そう言えば昨夜以来、夜通し山の中を歩いてきたので、お互いの顔すらまともに見ることを忘れてきたようである。
娘の顔は涙と煤の跡で黒く汚れ、髪の毛も乱れてはいたが、なるほど改めて見るその顔は目鼻立ちも良く口元には品さへうかがえる。
このような世でもなければ、きっと庄屋の娘として何不自由無い暮らしをおくれていたに違いない。
桂は思い出すと、また熱いものが腹の底から込み上げてくるのを感じた。
「ところで娘、名は何と言う?」
冬馬は彼女に近付きながら尋ねた。
「日下部様、この娘は何を聞いてもしゃべり・・・」
「里と申します」
桂と与六はお互いの顔を見合わせた。娘が喋ったのである。
「里と申すか、良き名じゃ。しかし、何処かでその身なりだけは整えんと、折角の美人が台無しじゃな」
冬馬の言葉に、里はこくりと頭を下げると、また桂の後ろへと隠れてしまった。
「なるほど、お里は余程結城殿のことがお気に入りのようじゃのう」
「ここまでおぶって来てやったはわしじゃぞい」
与六は少しだけふてくされてみせたが、里が喋ったおかげで、彼の顔にもまた笑顔が戻っていた。桂は複雑な心情を持ちつつも、やはり顔の表情は幾分崩れた。
「ところで、日下部様は・・・」
「その日下部様というのは、無しにしよう」
桂の問いかけを遮るように、冬馬が言葉を挟む。
「拙者はもはや藩を抜けた身、貴殿らとも身分の差などは無いものと思っている。ましてや、今なお拙者の危ういところを、貴殿らに助けられたではないか」
日下部冬馬は、心の底からそう思っていた。
「では何とお呼び致せばよろしいでしょうか?」
桂はなおも丁寧に語りかける。
「冬馬と呼んではくれまいか」
「とてもわしらには呼び捨てにすることなどできませぬ」
与六は大きく首を振って断った。
「拙者にも貴殿らのことを、桂、与六と呼ばせてはもらえまいか?」
暫し三人の間で、沈黙が流れる。
すると、桂の背中の後ろに隠れていた里が、覗き込むように桂に向かって呟いた。
「これで、お仲間が四人に増えましたね」
この言葉に、桂も与六も一気に救われた。彼らは改めて冬馬の手を握ると、満面の笑顔で頭を下げた。
冬馬も負けじと彼らに笑顔を返す。心なしか、里の表情にも少しずつ変化が現れたような気がしていた。
「ところで、四人の仲間と申したが、あと一人は何処にいるのかのう?」
与六は辺りを探す振りをしながら里に向かって尋ねる。里は答える代わりに、桂の右袖を両手で強く掴んだ。
「ところで冬馬さま・・・、いや冬馬、これから何処へ向かわれるのか?」
桂ははにかみながら彼に尋ねる。
「拙者は京へ参ろうと思うております」
「京へ?」
なるほど、冬馬が抜けようとしたこの菅坂峠は険しい山道ではあるものの、その道は丹波へと抜けることができ、さらには京へと続いている。
彼は更に言葉を繋げる。
「訳あって藩を抜けたとはいえ、拙者の一色家を思う気持ちには代わりはござらん。ならば、少しでも京にて織田方の動きを探ろうかと思うのじゃ」
改めて桂は、冬馬の生真面目な性格とその心根に痛く感心した。反面、自分が仕える侍頭を誅し、そのために逃げることだけを考えていた自分が如何にも小さく感じられた。
「桂、わしらも京へ行こうではないか」
恐らく与六も、桂と同じことを考えていたのであろう。
四人は生まれ故郷の丹後の国を後にし、京へと向かうことにしたのである。
最後にもう一度菅坂峠から見る丹後の地を目に焼き付けると、丹波へと続く細い山道を歩き始めた。