祝福を空に
「……行っちゃいましたねぇ」
王女とフォスターが出ていった門を、シランとキャメリアは王城から見下ろしていた。キャメリアは紅い瞳を細めて呟き、シランはそれに頷いた。
「……そうだな」
王女の近衛騎士だったフォスター・カタリルの名は明日にでも、王女を連れ去った謀反人として国中に広まるだろう。王女以外のすべての人間を裏切り、王女のためだけに生きると誓った、シランのかつての部下。
彼は優秀だった。剣術はもちろんのこと弓も馬術も達者で、新人の教育にも如才ない男だった。
だからこそシランは、いつか王女がどこかの国に嫁いでも、フォスターには城に留まっていてほしかったのだ。
けれど――
あの日キャメリアにあんなことを聞いた時点で、いつかこんな日が来ることを、頭のどこかでは予感していたのかもしれない。
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――『……では、もしフォスがお前を本気で頼ったら?』
シランの問いかけに、キャメリアの瞳に動揺の色が走った。
想い人と自身の主を乗せた、決して狂ってはいけないはずのその天秤が大きく揺らぐ。
『意地悪なこと聞きますねぇ。……そんな日は来ないと思いますけど、そうだなぁ。もし先輩が、あたしのこと本気で頼ってくれるなら――』
そこで一度言葉を切り、キャメリアは髪と同色の睫毛を微かに伏せた。紅い口許は、ゆるやかに笑みを描いて。
『――その時は全力で助けて差し上げますよ』
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「……それにしても、『ティナを連れて逃げるから女官の仕事着を大至急一枚用意してくれ』だなんて、まったく先輩は人使いが荒いですねぇ。あーあ、カイ様になんて言いましょう」
キャメリアが大げさな仕草でため息を吐く。けれどその口調とは裏腹に、紅い唇は楽しげに歪んでいた。
「カイ様への忠誠に背くと分かっていて、平然と準備していた奴がよく言うな」
「だぁって嬉しかったんですもん。まさか先輩が、あたしを頼ってくれるなんて。……それに上官だって、門衛に意味のない仕事を回して、時間を稼いであげてたじゃないですか」
呆れた目で自分を見やる上官を、キャメリアはじろりと睨み上げた。その視線を受け止めたシランは珍しく、ふ、と吐息を漏らして笑った。
――本当なら引き留めたかった。お前の住むべき世界はここだと、国を巻き込む駆け落ちをしようとしているフォスターに言ってやりたかった。
けれど、それができなかったのは――
「ティナ殿下は……あいつがようやく見つけた、守るべき人だからな」
騎士であることの理由を失っていたフォスターの心を、唯一動かすことができた人だ。カイ殿下の前では口が裂けても言えないけれど、シランだって王女には一目おいていた。
そんな彼女のためにフォスターがすべてを捨てる決断をしたのなら、引き留められるはずがなかった。
「……そうですね」
上官の言葉を受け止め、キャメリアは淡く笑った。遠くへ行ってしまう、大切な人を想って。
――きっともう、あの人には二度と会えない。
あのふたりがこの城の敷居を跨ぐことはもう生涯ないだろう。どこか遠い場所でひっそりと、彼は王女を守りながら生きていくのだ。
かつての想い人との今生の別れに、心が苦しくないと言えば嘘になる。
それでも、フォスターと王女の手助けができたことがとても誇らしかった。
「逃げ切れると思うか? あの二人」
「逃げ切ってくれなきゃ困りますよ。せっかくあたし達が協力してあげたんですから」
「どうする? 二人して明日にでも連れ戻されていたら」
「ふ、その時は先輩のこと引っ叩いてやりますよ」
いつもと同じ声音で言い合う二人は、いつもよりどこか楽しそうだった。
キャメリアがゆっくりと空を仰ぐ。その細められた瞳は、聡明な王女とかつての想い人への親愛を滲ませて。
「どうかせいぜい、お幸せに」
紡がれた祝福の言葉は、風に乗って上へ上へと舞い上がった。