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背信の姫君  作者: 新熾イブ
6/9

神様がいないなら



「今年は春の嵐で破損した橋の修理が遅れております」


「そう。じゃあ、通常の賦役より修理を優先させて頂戴」


「承知致しました。本日中に手配致します」


「お願いね。もちろん、各々の事情に応じて賦役は減免させても構わないから。必要なら兵も貸すわ」


 自分よりひと回りもふた回りも歳の離れた役人たちに堂々と指示をする、ティナの凛とした声が役所に響く。彼女は年に数回はこうしていくつもの役所を視察に訪れているから、町の運営についての会議はお手のものだ。


 彼女はどうすれば町が、ひいては国がうまく機能するかを知っている。役人たちもそれを理解しているからこそ、こうしてティナの言葉に素直に従うのだ。


 ――たとえ、裏ではティナを馬鹿にしてカイ様に媚を売っていても。



△▽△



「ティナ様、本日はありがとうございました」


「ええ。みんなもご苦労様」


 あらかた会議が終わりひと心地ついた頃、ティナは役人達に見送られて、満足げに役所を出た。その一歩後ろを、彼女の歩幅に合わせて着いていく。


 ティナは大げさな警護を嫌うから、目に見えて彼女の警護を務めているのは俺だけだ。それに城外でティナに何かあっても、命の危機がないような小さなことには不必要な手は出すなと言われている。


 ふう、とティナはゆっくり息を吐いた。あれだけ濃い会議を短時間でやってのけたのだ。彼女の疲労感は、通常の会議のそれではないだろう。ティナがてきぱきと指示を出したおかげで、まだ陽は高い。


「特に問題はありませんでしたね」


 この町は昔から治安が良く、役人たちもカイ様に媚びているにしろ、政に関しては信頼のおける者達ばかりだ。嵐の影響で橋が破損したのは初めてではないし、修理も次の嵐の季節にはおそらく間に合うだろう。


「そうね。じゃあ後は、適当に町を回って――……」


 桃色のドレスを翻して町を見渡していた彼女の言葉が、ふとした拍子に途切れた。



「ティナ様?」


 夜色の瞳が見つめる行方をそっと追う。彼女の視線の先にあったのは――広場の中心に立つ、穏やかな微笑みを湛えるライラの石像。


 ――ああ、なるほど。


「……あんなもの壊れてしまえば良いのに、などとお考えですか?」


 ふ、と笑みを浮かべながら冗談めかして聞いてみれば、彼女は小さく肩を揺らして笑った。


「フォス、あなた私のことを何だと思っているの?」


 上品な所作でころころ笑いながら、彼女はゆっくりと町を見渡した。


 広場を囲むように並ぶ露店に、笑顔で行き交うたくさんの人々。在り来たりだけれど幸せの色に染まった、いたって穏やかで平和な町並み。


「この平和がライラという心の拠り所があるからこそ成り立っているのなら、別にそれを否定したりはしないわ」


 この国は、夜の女神に祝福された国。だからこそ人々は、ライラを信じて祈るのだ。平和な日常をライラに願って、そしてその恩恵に感謝する。この国の平穏な暮らしは、ライラへの信仰のもとで成り立っている。


 そしてそれを、この王女様はちゃんと分かっている。


「私はライラを信じていないけど、それを人に押しつけるつもりはない。だから像を壊したいだなんて思わないわ」


 ティナの瞳が真っ直ぐに俺を見据える。夜を湛えた瞳は、柔和な光を宿していた。その光に、どうしようもなく心が熱くなる。


「……さあ、次は広場の方へ行きましょう」


 切り換えたように明るく笑ったティナの金髪が風に揺れる。初夏の香りを纏った風はひどく穏やかだった。



 ――その時ふいに、小さな影がティナの足元に飛び込んできた。


「ティナ様!」


「え? ……きゃっ、」


「わっ!」


 ティナにぶつかったのは、向こう側から駆けてきたひとりの少女。オレンジをたくさんつめた大きめのカゴを持っているから、きっとそれをこの通りで売り歩いているのだろう。


 少女はぶつかった反動でしりもちをつき、ティナは僅かによろめいた。高いヒールのせいで踏ん張れなかったのだろう。


「ティナ様、お怪我は」


「平気よ」


 短く答えたティナの言葉に嘘がないことは、彼女が俺に向けた目線だけで分かった。捻挫でもしたのではないかと心配したが、杞憂だったようだ。そっと安堵し、一歩下がった定位置に戻る。


「ひ、姫様……! ごめんなさい!」


「気にしないで。それより貴女は大丈夫?」


 ぶつかった相手が王女だと知り、真っ青な顔をして頭を下げる少女に、ティナは優しく微笑んだ。少女は怯えた瞳でティナを見てから俺を見上げるが、ティナは怒っていないようだし、俺が咎めることではない。


 ティナと少女を横目で見つつ、ぶつかった拍子に落ちてしまった数個のオレンジを拾い、少女の持つカゴへ戻してやる。それに気づいた少女がペコペコと頭を下げてくるのがなんだか可愛かった。


 すると、ティナは何を思ったのかそのオレンジへと目を向け、「美味しそうね」と柔らかく呟いた。


「ひとつ頂ける?」


「え……? は、はい、もちろん! ぜひ召し上がってみてください」


 ティナの言葉を聞いた少女は慌ててカゴからオレンジをひとつ取り出して、それを両手で大事そうにティナへ差し出した。


「ありがとう。おいくらかしら?」


 嬉しそうにそのオレンジを受け取りながら、ティナがちら、と俺を見る。俺は小さく頷いて了承し、腰に下げた荷袋から銅貨の入った包みを取り出した。


 けれど少女は恐縮しきった様子で首を振り、金銭の受け取りを拒んだ。


「そんな、姫様からお代なんて頂けません! 騎士様の分も、どうぞご一緒に」


「……恐縮です」


 少女がそう言っているのにこちらがねばっては、さらに少女を困らせてしまうだろう。仕方なく包みを荷袋へ仕舞い、俺もオレンジを受け取った。


 オレンジをどこに仕舞おうかとぼんやり考えながら、少女の姿をそっと見つめる。灰色の髪とオリーブ色の瞳。歳は13か14くらいか。少女らしいあどけなさの残る顔立ちだ。


 それなりに良い身なりをしているから、裕福な商店か何かの娘だろうか。……そんな少女がなぜオレンジの売り歩きなんてやっているのかは謎だが。



 ――町の人々の活気溢れる賑やかな広場に、厳かな鐘の音が響いた。時計という高価なものを持たない人々に、一時間ごとに時を告げるための鐘だ。


 それを聞いて、ティナが空をふと見上げる。明るかったはずの青空に、どんよりとした雲が広がっていた。これは、本格的に降りだす前に城に戻った方が良さそうだ。


「そろそろ行きましょうか」


 曇天を見上げたまま、ティナが俺にそう告げる。その声音が僅かに憂いを帯びているように感じたのは、王城がティナの“帰るべき場所”で、決して“帰りたい場所”ではないから、だろうか。


 あんな息が詰まるような場所に戻って虚偽の微笑みを浮かべているより、いっそこのまま逃げてしまった方が彼女にとって幸せなんじゃないか、なんて。心で、そんな不敬なことを思う。


 息苦しい場所でもひとり弱さを隠して凛と立とうとする、そんなティナだからこそ惹かれたくせに。何を考えているんだと自身に苦笑した。でも、笑いたくないところで笑っているより、その方がきっと合っている。――それを言ったら、彼女は笑って否定するのだろうけど。


「はい」


 彼女の言葉に俺が頷くと、ティナは少女に振り返って淡い笑みを浮かべた。


「それじゃあね」


「あ、はい! あの、お会いできて光栄でした……!」


 少女はエプロンドレスの裾をつまんで、少女らしく最敬礼をした。そしてゆるく編んで垂らした灰色の髪を揺らし、大通りの方へ歩き出して。


 最後にこちらを振り返って、少女は子どもらしい無邪気な笑顔で明るく言った。


「姫様にライラの祝福がありますように」


 この国では当たり前に交わされる、挨拶のようなその言葉。


 ――でも、それは、禁句だ。


 ティナをちらりと伺うと、彼女は一瞬何とも言えない表情をして、それからすぐに柔らかな笑みを作った。


「……ありがとう」


 駆けていく少女の背中を憂えた眼差しで見送って、ティナはおもむろに俺の方へと視線を動かした。髪と同色の睫毛がゆっくりと瞬く。


「……ふ、」


 ティナは嗤った。それは歪んだ哄笑のような、ひどくバランスの崩れたものだった。


「ライラの祝福を、ですって」


 少女から貰ったオレンジを手のひらの上で弄びながら、ティナは少女の言葉を反芻する。


 ――少女が良かれと思って紡いだ祈りの言葉は、ティナの心を確実に柔く抉っていた。



「……ねえ」


 そう呟く彼女の顔から、先ほどの笑みは消えていた。すうっと色が抜け落ちたように、その声はひどく冷たい。


「さっき、ライラの像を壊したいかと聞いたわね」


 淡々と言葉を吐き出すティナの瞳は、深く暗く濁っていた。長い睫毛が伏せられて、その影が落とす色はとても哀しい。


 ああ、こんな顔をさせてしまうなら、あんな冗談言わなければ良かった。


「フォスと出会う前の私なら、確かにそう思っていたかもしれない」


 滔々と語りながらも、彼女は僅かに語尾を揺らした。跪拝すべき対象を愛せない、そんな自身を懺悔するかのように。



 だけど、と彼女は続ける。高く透明な声が凛と響いた。


「フォスが居ればどうでもいいわ」


 少女にも負けないくらいの明るい表情で、ティナは花が咲いたように笑った。


 ――そう、その表情(かお)だ。


 この笑顔を、ずっと傍で守っていたい。ここまで彼女の拠り所になれたことを、俺は心から誇りに思うから。


 けれど、そんな願いがいつかは潰えてしまうことも、頭の中では分かっている。


 だからどうか、今だけはこのまま。


 いつか離れるべき時が来るまでは、せめて彼女の隣に居たかった。




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