神を殺して
「……フォス? どうかした?」
昔に思いを馳せて上の空だった俺に、チューベローズを愛でていたティナが首をかしげながら俺の顔を覗き込んだ。彼女の髪に結わえられた、真珠を繋ぎ合わせた髪飾りがしゃらりと揺れる。
ティナの透けるような金髪から、チューベローズの甘やかな芳香がふわりと香った。
チューベローズはこの国の国花でもある。夜の女王という異名を持つ、夜の女神を讃える花。夏に花を咲かせる花だけれど、式典やパーティーなんかでは装飾にこの花を飾ることが国の通例となっているから、この国では常に温室で栽培している。
「……別に。ちょっと昔のことを思い出していただけだ」
「ああ、あの時のこと? ふふ、懐かしいわね」
昔、と告げただけだが、ティナはふたりが出会ったあの日のことだとすぐに悟ったらしい。
俺につられてあの時のことを思い出したのか、彼女は肩を揺らしてころころと笑った。王族たる気品に満ちた、とても優雅な笑い方。こういう何気ない仕草を目にする度、彼女が王女であることを実感する。
ひとしきり笑うと、彼女はふと髪と同色の長い睫毛を伏せた。桜色の唇が、酷く哀しげに笑みの形に歪んでいる。
「ライラを信じて、祈っていた時だってあったのよ。少なくとも、あの時までは。でもどれだけ祈っても、ライラは助けてくれなかった」
それは自嘲のような独白だった。信じていたが故に、その失望の色は濃い。
ライラ――通称“夜の女神”は、同時に平和を司る神だとも言われている。
派閥争いを鎮めるために犠牲になったティナは王城で孤立した。ライラが本当に平和の神であったなら、身をもって争いを鎮めたティナは救われるべきだったのに。
どれだけ祈っても、祈りは神に届かなかった。彼女は救われず、彼女に生まれたのは神への失望。
「でも、あの時フォスは私を見つけてくれたわ」
彼女の声音が、突然ぱっと明るくなる。迷子の子どもが母親を見つけたかのような、希望に満ちた声だった。
「私を助けてくれなかった、形のない神なら要らないわ。私は、フォスさえ居ればそれで良い」
ティナの瞳が俺を射抜く。夜空にも似た色合いの瞳は、冬星のような柔和な光を灯していた。
「フォスさえ傍に居てくれれば、私は心穏やかな王女でいられるの。夜の女神を讃える花を前にしても、手折ることなく綺麗だと笑えるわ」
歌うように紡いで、ティナは微笑う。その微笑みには俺以外には向けられることのない、純粋な信頼が確かに滲んでいた。
――彼女を見つけ出したあの時から、彼女は俺に依存している。
俺をそばに置くようになってから、ティナは俺以外に本心を見せることをしなくなった。元から誰に対しても本音で語り合うような性格ではなかったけれど、俺以外に見せる笑顔が総じて本心の見えない微笑に変わったのは間違いない。
以前顔見知りの女官が言っていた。ティナ様はいつも静かな微笑みを浮かべていて、感情らしきものが見えない。何を考えているのか分からなくて怖い、と。
ティナが本心を隠すことで彼女の評判に更なる影響が出ているのなら、それは間違いなく俺のせいだ。
それを実感する度、彼女をそういう性格にしてしまったことが正しかったのかどうかが分からなくなる。
けれどあの時、彼女は壊れかけていた。王城中の人間から反感を買う状況は、たった13歳の少女には酷く重たかったことだろう。
だからこそ、彼女は神に縋った。そしてどれだけ祈っても自分を助けてくれなかったライラの代わりに、心の拠り所となる何かが必要だったのだ。
その何かに選ばれたことに後悔はしていないし、むしろ誇りに思っている。
だから彼女をこういう性格にしてしまった責任は取るつもりだ。自分という存在でティナの心の平安が保たれるのなら、近衛騎士としてそれほど名誉なことはない。
騎士として彼女の傍にいることで、俺は彼女を支えていく。いつか離れなければならない時が来るまで、絶対に。
彼女には無邪気に笑っていてほしいから、もう二度と、彼女が消えたくなるような状況なんて作らせない。
――〝ティナ様を守りたい〟
あの時胸に抱いた想いは、今でも変わることなく咲き誇っているから。