夜の瞳の王女様 - 02
「綺麗ね」
嬉しそうに歩を進める彼女の一歩後ろにつき、ガラスに覆われた温室を回る。
この温室は先の王妃が愛していたという薔薇園を抜けた先にある。温室のガラスにはすべて防音ガラスが使用されているが、敷地の中でも端の方に位置するこの場所を防音にする意義がよく分からないのは俺だけだろうか。
沈丁花にジャスミン、そしてチューベローズ。花好きだったという亡き王妃の意向で、この温室には四季の花々が揃っている。さすが王城、温室だけでも贅沢な空間だ。
ふと、熟した葡萄のような甘やかな香りがふわりと鼻先を掠めた。なるほど、確かにチューベローズは綺麗に咲いている。甘美な香りと、白い花弁が鮮やかだ。
……が、先程のやり取りを思い出すと、やはり素直に花など観賞する気にはならない。こんなことを続けていれば、いずれ俺だけでなく彼女の立場も危うくなるだろう。言っても無駄そうだけど……一応言っておくか。
俺は立場など今さら気にしないが、彼女の立場が危うくなるようなことは避けるに越したことはない。
「――ティナ。闘技場に顔を出して俺を誘うことは、少し控えてくれないか。さすがにそろそろ先輩達からの視線が痛い」
周りに人が居なくなった途端、俺は彼女への言葉遣いを丁寧なものから素のものへ変えた。本来ならば叛意と見なされてもおかしくない行為だが、彼女はそれを咎めるようなことはせず、俺の言葉を真摯に受け止め細い溜め息を吐いた。
「……分かった。フォスがそう言うのなら、控えるわ」
唇を尖らせた仕草を見るに、納得はしていないらしい。子供っぽいその仕草に、つい笑みが溢れる。その緩んだ口許を彼女がじろりと睨み付けたから、慌てて顔を引き締めた。それを見て、ティナはけたけたと声をあげて笑った。
――そんな彼女に、少し意地悪をしてみたくなった。
「ライラの御名に誓えるか?」
ほんの悪戯心で、答えが分かりきっている問いを彼女に告げる。
――“ライラ”
その名前を、この国に生きる者で知らない者はいない。
かつて全体が闇に呑まれ、民が生きる希望をなくしていた暗黒の時代。悪魔に魅入られた王の統治で崩れかけていたこの国を救ったのが、“夜の女神”と呼ばれるライラ。
異才をもって生まれたために国を追放されていた彼女は国の堕落を嘆き、師弟関係の男とともに祖国へ舞い戻った。彼女は星を読み、かつて疎まれた星の力を使ってこの国を悪魔の呪縛から解き放ったという。
その神話はノーチェの遺跡に深く刻まれ、ライラはかれこれ200年以上、この国の唯一神として君臨している。――が。
「ライラの御名、ねえ……」
神の名を紡いだとは思えない軽率な口調でそう呟き、ティナは、ふ、と笑う。纏う空気は柔らかかったけれど、その口調は明らかに神の名を馬鹿にしたものだった。
「それは無理だわ。知っているでしょう? 形のないものは信じないことにしているの」
彼女の藍の瞳が、冷たい色を帯びて静かに嗤う。
夜の女神を厚く信仰するノーチェ王国の王女でありながら、彼女は絶対的な無神論者だ。神に仕えるべき王族であるティナは、神など居ないと信じている。
もちろん、それを公言すれば異端者として裁かれるため、堂々と主張したりはしないけれど。
「だから、一番はいつだってフォスよ。フォスが誓えと言うのなら、私はフォスの名にそれを誓うわ」
ティナが自信満々に紡いだ言葉に満足した自分に呆れて、無意識に笑みが溢れた。
「……ぶれないな」
「当然よ」
そして彼女は再び笑う。あの時と全く同じ、誇らしげな笑顔で。
その笑顔で脳裏に浮かんだのは――ティナが俺に依存するようになった、あの日の出来事。