教え
エマが熱心なネラ教徒だと知ったリディアは、表情を強張らせた。
「旅中の危機を救ってくださるなんて、やっぱりネラ様のお力は偉大ね。それなら私も、教えを守らないと」
嬉しそうにペンダントを握るエマにまた、不安が募る。
「教えを……守る?」
恐る恐る尋ねると、エマは眩いほどの笑顔を向けてきた。
「ええ、そうよ! 第二百七十五歌の内容を覚えている?」
「いいえ。司祭様は、いつも百歌までのお話をされることが多かったので」
かつてリディアは聖拝堂に通うことを義務付けられており、しつこいほどに教えを聞かされていた。
だが、説教で話されたのは、禁忌事項に関するものや、ネラ神の逸話が書かれる百歌までの内容について。
二百歌以降の話を聞いた記憶はなかった。
「……今はどこもそうなのね。残念なことだわ」
エマは寂しそうに視線を落としてペンダントを握りしめていき、再び口を開いた。
「第二百七十五歌にはね、見ず知らずの他人にも愛情を与えなさいという内容が書かれているのよ。優しさと理解が人を繋ぐの。だから、困っている人は助けてあげないとね」
言われてみればそんな教えもあったと、リディアは思い返す。
素晴らしい内容であるのは事実であり、誰もがそうやって生きられるのならば、世界はより良くなるだろう。
だが、リディアがはじめてその教えを耳にした時は、とても受け入れることができず、目の前が真っ暗になった気さえしていた。
リディアからしてみれば、教会は心も身体も縛り付けてくる張本人で、愛情も理解ももらえた記憶はなかったからだ。
第二百七十五歌が“言葉だけの教え”であることを知っているのは、リディアだけではない。
むしろ、隣にいるファルシードのほうが、身を持って感じていたことだろう。
「その教えは確かに素晴らしいですね。俺もそうありたいものです」
ファルシードは柔らかな声を出し、にこりとエマに微笑みかける。
穏やかな笑顔はどこか仮面のようで、微かに震えているこぶしだけが彼の怒りを体現しているように見えた。
――・――・――・――・――・――・――
「あれ?」
棚の上に小さな絵が立てかけられているのが目に入り、リディアはそれをじっと見つめる。
風景画ばかりの宿の中、人物画はこの一枚しかなく、目を惹いたのだ。
優しげな男が描かれている絵を見て、エマは微笑む。
「その人、私の夫。リヒトクォーツを採掘する仕事をしていたの」
絵の横にはフタの開いた小さな箱があり、メッセージカードが置いてある。
日に焼けて黄色くなったカードには“愛しのエマへ”と書かれているが、箱の中身は何もない。
「中身はね、もうないのよ。リヒトクォーツでできたブローチだったんだけど、貴族に取られてしまって……」
エマは夫の絵に近づき、そっと輪郭を撫でていく。
彼女が言うには、夫は自分が手にいれたリヒトクォーツを加工し、それを使ってプロポーズをしてくれたのだそうだ。
大切にそれを持ち続けていたのだが、町の貴族が宿に立ち寄った際に、ついでのように持っていかれたらしい。
「お金があるんだから、自分で買えばいいのに」
憤りを隠せないリディアに、ファルシードは首を横に振ってくる。
「加工に適したリヒトクォーツは、世にあまり出回らねェんだ」
ファルシードによると、小さなものはモンスター撃退のため武具に練り込まれ、大きなものは上流の貴族が買い占めたり、ネラ教会がモンスター避けとして町や街道に配置しているため、加工されたものは相当珍しいらしい。
「こればっかりは仕方がないわ。私に本当に必要なものであれば、きっとネラ様が戻してくださるから大丈夫よ」
エマは困ったような表情で微笑む。
いくら神に願ったところで、盗られたものが自然と返ってくるはずはないだろう。
本気でそんなことを言っているのかとリディアは悔しく思うが、現状どうしようもない。
一方のファルシードは、呆れたような目でエマを見つめていたが、強く握られていた彼女の手を見た途端、物憂げに視線を落としていたのだった。