臆病者の航海士
「悪い、癖?」
ファルシードに問いかけるが、彼はこちらを見ようともせずに顔を上げて、口を開いた。
「レヴィ、“慎重”と“臆病”は別物だと、前に言っただろう」
「キャプテン……」
上から嘆きに似た声が降ってくる。
船尾甲板に立っているにしては、声が近い。
恐らく、先ほどの落下音はレヴィが座り込んだ時に生じたもので、いまも彼は立ち上がれずにいるのだろう。
「お前、本当は道が見えているのに、引き返すと言っているんだろうが。違うかよ」
図星をつかれたのか、レヴィの声はぱったりと止んだ。
「ジィサンが言わねーようだから俺が言うが」と前置きして、ファルシードは再び口を開く。
「船には金がなく、次の航海は長期で行える保障がない」
「え……」
リディアとレヴィは同時に驚きの声をあげる。
「うまく交易が当たればいいが、万一の時は盗みに入るしかない」
淡々と言うファルシードの隣でリディアは視線を落とし、苦しげな表情を浮かべた。
盗む、と言うだけなら簡単だが、実際は命がけだ。
弱者から金をとることはご法度とされているため、必然的に警備が厳しく、声の大きい権力者が対象となるわけで。
フライハイトの実態を世に知られないように盗みを働くのは、なかなか困難なようだった。
「ここで上陸をやめたところで、団員たちに危険が及ぶのは変わらないってことですか」
「そうだ」
震える声で尋ねてくるレヴィに、ファルシードは天井を見つめながら言う。
「だから、“リヒトを取りに行く”なんて言ってたんですか。リディアさんだけじゃなく、僕らのためにも」
「たかだか一人のために、危険な航海をするわけねェだろうが」
呆れた様子でファルシードは、ため息をついていく。
一方のリディアは、何の話をしているのかよく掴めないまま、会話を聞き続けていた。
「団長。貴方は僕が失敗を引きずっているのを知っていて、お金のことを言わなかったんですか」
「失敗?」
リディアが首を傾げると、舵棒を操る団員がひそひそと小声で話しかけてくる。
「レヴィさ、半年前この島に入り損ねているんだ」
「航路を間違えちゃったってことですか?」
「いいや。途中で潮の流れが変わったらしい。アイツが判断に迷ってるうちにね。んで、渦潮に飲み込まれそうになって、命からがら脱出したってわけ」
「そっか、だから青い顔してたんだ……」
沸き立つ甲板で一人気を失いそうになっていたレヴィのことを、思い返す。
自分のミスで沈没させそうになったトラウマが、彼をあんなにも怯えさせていたのだろう。
「団長……教えてください。貴方は僕を気遣って、あの島を避けてくれていたんですか……?」
「おいおい、そんなに気にすんな。どうも小僧は心配性のようでよォ。慎重過ぎるだけさ」
レヴィとは対照的にライリーの声は安穏とした様子で、豪胆な印象を与えてくる。
だが、呑気とも言える彼の言葉は、キャプテンの気に障ってしまったようで、ファルシードは苛立つ様子を見せていた。
「おいジィサン、ボケるにはまだ早いんじゃねぇか。お人好しなのは結構だが、情で腹が膨らんで、船が進むのなら誰も苦労はしねェ」
「へっ、ボケれるほど人生重ねてねーケツの青いガキは黙ってろ。あとついでに言っておくが、おれはまだ財宝を隠している。二ヶ所ほど、な」
「おい、ふざけるなよこのクソジジイ……!」
「奥の手ってのは、誰にも知られないようにとっておくもんさ」
呵呵と笑うライリーの声が聞こえ、リディアは恐る恐る隣に視線を送る。
すると、ファルシードの額には青筋がたっており、あまりの威圧感に後ずさった。
「だったら、なぜあの島に……」
今度はレヴィの呟く声が聞こえる。
「へへ、いい機会だと思ってな」
「どういうことです?」
「お前さんには知識や技術だけじゃなく、天候や海流を読むセンスもある。経験だって積んでいるのに、致命的に足りねェモンがある。なんだかわかるか?」
「未熟な僕では、あの島は無理です……」
いまにも泣き出しそうな声が聞こえてくる。
弱気な航海士による航海など、危険なことこの上ない。
だが、それでも引き返すことを提案する者は、誰一人としていなかった。
「レヴィ、よく聞け。お前さんに足りないのは、航海術じゃない。自信と度胸、ただそれだけだ。それさえ持てれば、おれは“レヴィ・アンカーが世界一の航海士だ”と、胸張って言うぜ」
「団長は、前回どうなったか覚えてないんですか……!?」
咎めるようなレヴィの声がし、今度は明るく笑う団長の声が聞こえてくる。
「ちゃんと覚えてるさ。力を合わせて全員無事に脱出した、だろ?」
「――ッ!」
「自信が復活するまで待つつもりだったが、待ったところで変わるもんでもねぇしなァ」
ライリーの柔らかい声がし、レヴィは静まり返る。
「心配すんな。フォローはするからやってみろ。お前さんは、おれらを信頼しちゃくれんのか?」
「……皆のことは信じています。僕はただ、自分が信じられないんです」
「だったら、もう恐れることはないはずだろう? 信頼しているヤツらが、お前さんを信じるって言っているんだ」
「もう、なんなんですか! こんなのずるいです。どうやったって、逃げようがない」
しばしの沈黙のあと自棄になったような声が聞こえ、それは苦々しい笑い声へと変わる。
「……臆せば、船は沈みゆく。勇無き者に、道は開けぬ。海の女神は、祈る我らを救いたもう」
天井からがたりと音がして、少しずつレヴィの声が高く遠のいていく。
「もしかして、これって……」
聞き覚えのある言葉にリディアは目を見開き、ファルシードの横顔に視線を送った。
これは、彼が教えてくれた歌の訳だ。
「キャプテン、団長。あの日僕に教えてくれましたよね。錨の歌の意味、そして、進もうとする意志をもつ者にこそ、道は開かれる、って」
「ああ」
「そんなこともあったなァ」
ファルシードは短い言葉を返し、ライリーの声も上から響いてくる。
「団長が、キャプテンが、皆が僕を信じてくれている。それなら僕は、逃げちゃいけない。逃げたくなんかない。僕は僕自身を、信じます!」
これまでとは違う力のある声にリディアは微笑み、ふと隣を見るとファルシードも満足げに口角を上げていた。
すぅ、と深く息を吸う音がする。
これまで不安と恐怖に囚われていた航海士が放ってきた言葉は……
「この船の航海士は僕です。この船を沈ませたりなんかさせません!」
「よし。よくぞ言った!」
ライリーの明るい声が天井から降ってくる。
見えなくても、団長がどんな表情をしているのか、リディアには容易に感じ取れた。
「団長! 団員たちに指示をお願いします。進行方向はこのまま真っ直ぐ」
船尾甲板に少年航海士の凛とした声が響き渡る。
「え? まっすぐって、まさか」
リディアは顔を上げ、目の前の光景に顔を強張らせた。
「ええ。あの狭間を行きます!」
レヴィが指示した方向にあるもの、それは──
船を飲み込めるほど巨大で絶えず轟音を放つ、二つの大渦の狭間だった。