夏の日の甲板
窓から差し込む朝の光に慌てて目を覚ましたリディアは、流れるように身支度を進めていく。
だが、部屋を出る寸前で、ぴたりと動きを止めた。
過去を見た上に、寝ぼけていたとはいえファルシードから抱きしめられてしまったわけで。
これは気まずい、と、うつむき、わずかに頬を染めた。
とはいえ、このまま部屋に閉じこもっているわけにはいかない。
意を決して静かにドアを開け、向こう側を覗いていくとソファにファルシードはおらず、珍しくベッドの上で眠っていた。
――あの後、起きちゃったのかな。ぐっすり眠れてるようだし、よかった。
規則正しく上下する布団を見てリディアは、ほっと息をついて部屋を後にした。
――・――・――・――・――・――
朝食の支度を終えて配膳していくと、団員たちに混じってファルシードがやってくる。
ふと視線が交わってしまい、リディアはびくりと身体を震わせ、慌てて視線をそらした。
「言いたいことがあるんなら、さっさと言え」
怪訝な顔をしたファルシードは、真っ直ぐにリディアの方へと歩み寄ってくる。
あからさまに避けたことで、不審がられてしまったようだ。
「ええと、後ろの方で寝ぐせが立っててね。なんだかちょっと、言いづらくって」
あはは、と誤魔化すように笑うと、彼はまじまじと顔を見つめてきて、小さく息を吐いてくる。
「あっそ」
興味もなさそうに返してきたファルシードは、自分の席へと向かっていった。
眠そうにあくびをする姿を見て、安堵の吐息をつく。
――危ない。どうにかしのげた……
彼の過去を知ってしまったことを、リディアは心の中にとどめておくと決めていたのだ。
不可抗力だったとはいえ、彼が隠そうとしていた過去を盗み見てしまったなど、言えるはずもない。
配膳をすすめるリディアは、机に頬杖をつく眠気まなこのファルシードに視線を送る。
彼は、勘が鋭いところがある。
絶対にバレないようにふるまわなければ、と心の中で固く誓った。
朝食の片付けも終わり、今日もリディアは甲板へと向かう。
錨を巻き上げるための歌を、共に歌いに行くのだ。
だが、今日に限って歌は聞こえてこず、代わりにバドが騒ぐ声が響いていた。
「なんだよもー、ケヴィンのケチ―!」
「何も、やらんとは言ってない。どうせなら実用性のあるもののほうがいいだろう」
「だーかーらー、俺は狙撃手なの! 筋トレ道具よりも火薬とか弾の原料の方がまだ、実用性があっていーの!」
ケヴィンや団員たちは錨を巻き上げるために巻き上げ機のバーを握っており、一方のバドはその中心に乗り、あぐらをかいて口をとがらせている。
何の話をしているんだろう、とリディアが首をかしげていると、掃除中のカルロがモップを手にしたまま、隣にやって来た。
「バドね、今月の終わりが誕生日なんですよ。だから何かよこせとさっきからうるさくて」
やれやれとカルロが肩をすくめていくと、バドはキャプスタンから飛び降りて、駆け寄って来た。
「おい、カルロ! いまのばっちり聞こえたっすよ。うるさいってなんなんだよー!」
口を曲げたバドがカルロを見上げて文句を言うと、カルロは面倒そうに息を吐いていく。
「だから、その声量がもううるさいんですって」
「んだと!」
カルロに食ってかかるバドを前に、リディアは笑った。
「そっか、バド君も夏生まれなんだ」
「え?」
リディアの言葉にバドは勢いを削がれたのか、一気に大人しくなる。
「バド“も”……?」
カルロも目を丸くしながら尋ねてきて、リディアはこくりとうなずいた。
「私、先月誕生日だったんです。ちょうどフライハイトに来た日が誕生日で……って、あれ?」
バドやカルロだけではなく、団員たちも作業の手を止めて、驚いた顔をして固まっている。
甲板で動いているのは、修繕箇所を確認して回っているファルシードだけだった。
モップをバドに押し付けたカルロは、ずかずかとファルシードの元に歩いていき、険のある声を発する。
「キャプテン。知ってたんですか?」
「何を」
ファルシードは、縄梯子のチェックをしながら問い返した。
それは恐らく、カルロにとって望ましい返答ではなかったのだろう。
カルロはムッとした顔をして、声を荒げていく。
「リディアさんの誕生日ですよ! もちろん、ちゃんとお祝いしたんですよね。貴方の大事な女なんでしょう!?」
「は?」
眉を寄せて振り返ってくるファルシードに、カルロは“呆れた”と、あからさまに気落ちした表情を見せていた。
「貴方って人は……! 嫌われても知りませんよ」
「……別に嫌われようが軽蔑されようが、構わねぇよ」
呟くように発せられた投げやりともとれる言葉に、リディアの胸はわずかに軋んだ。
なぜか彼には、こういうところがある。
いつも人との間に一線を引き、そこから先は誰も入れたがらない。
気の置けない仲間相手でさえ心理的に距離を置いてくる意味が、リディアにはよくわからなかった。
二人の動向を見守っていると、カルロは何かを思いついたように顔を上げて、ファルシードの耳元でこそこそと囁く。
「キャプテンは、それでもいいんですか?」
念を押すように確かめるカルロに、ファルシードは呆れたように深く息を吐いた。
「確か、リヒトの島が近くにあったはずだ」
左舷方向を眺め、ファルシードは言う。
“リヒトの島”という言葉を聞いたカルロは勝ち誇ったような顔をし「そういうことなら、僕も協力しますから」と微笑んで見せた。
モップに寄りかかりながら悩むバドも、何かひらめいたのだろう。
「ナイスアイデアっスね! 早速団長に交渉してくるっス」
満面の笑みを見せて同意し、ケヴィンも「同感だ」と、うなずいた。
団員たちのほとんどは“リヒト”という単語に何かを察したようで、明るい表情を見せていた。
何一つわからないのは、リディアだけだ。
満足気な様子で戻ってきたカルロはバドからモップを受け取り、一方のバドは団長室へと跳ねるように駆け出していった。
「あの……リヒト、って何ですか?」
カルロに尋ねると、彼はシィ、と自身の口元に人差し指をあてて微笑んでくる。
「それは見てのお楽しみ、ですよ。あのキャプテンを動かすとは、バドの女好きもたまには役にたつもんですねぇ」
ファルシードの横顔を見つめて笑うカルロは、上機嫌な様子で甲板の掃除を再開していった。
――リヒトに、バド君がファルを動かすのに役立つ……?
意味がわからないままのリディアは立ち尽くし、ひたすら困惑し続けたのだった。