隠されていた弱さ
ぽろぽろと涙を零しながら、リディアは顔を上げていく。
そこに広がる異様な光景に言葉を失い、身体を強張らせた。
ライリーとファルシードが、一切の動きを停止していたのだ。
「ファル、団長?」
二人を交互に見つめていくが、悲しげな表情で固まったまま、瞬き一つしようとしない。
まるで、リディア以外の時が止まってしまったかのようだ。
「何、これ……?」
思わず後ずさりをして、身をすくめる。
やがて、ファルシードの左胸から青黒い光が漏れだし、それに共鳴するかのごとく、リディアの左胸も緑色の光を放ちはじめた。
「これって、もしかして……」
この光景に、覚えがあった。
過去に来る直前、起こった現象と全く同じだ。
元の世界に戻る時が来たんだ。
そう確信するのと同時に、再び耳鳴りに似た音が響き渡り、今度は世界が白く包まれていった。
――・――・――・――・――・――・――
うるさいほどの金属音が消えると同時に、眩しさも一気に終息する。
リディアはゆっくりと目を開き、あたりを見渡した。
視界に入ったのは、ぎっしりと本が詰まった棚に、柔らかそうなラグ、そして、ソファの上で眠る黒髪の男……
活発さが残っていた少年とは違い、目の前で眠るファルシードは、どこからどう見ても、大人の男だった。
「帰って、きたんだ……」
呟きながら、自身の目元に触れていく。
先ほどまで涙で濡れていたにも関わらず、頬は乾いており、まぶたの腫れぼったさも消失していた。
長い間過去を彷徨っていたが、こちらの世界からすると、一瞬の出来事だったのかもしれない。
リディアは不安げな表情でかがみこみ、彼の顔を覗き込んで、安堵の吐息をついた。
見る限りでは、ファルシードにも変化はなさそうだ。
顔を上げようとした次の瞬間、彼の腕が伸びてきて、リディアは気の抜けるような声をあげながら倒れこむ。
強い力で引き寄せられてしまったのだ。
「ひゃっ!」
衝突寸前に、慌てて目をつぶる。
床にぶつけてしまったひざはじんじんと痛むが、上半身は痛みが無い代わりに、ほのかに温もりを感じる。
そんな状況にリディアは呼吸も忘れ、固まっていた。
自分の身に何が起きているのかなど、考えれば容易に理解できた。
だが、未だかつてない距離に、状況を受け入れることなどできないまま。
右耳からは、トクトクと規則的な音が聞こえ、亜麻色の髪には、わずかに吐息がかかってくる。
何もかもが否応なしに、現実を知らせてくれるが、それでもリディアの混乱が落ち着く気配はない。
縮こまって思考を巡らせるが、彼の腕の中にいる理由は全くといっていいほどわからなかった。
もしや、またからかわれているのだろうか。
そんなことを考えていると、香水に似た柔らかな香りが鼻をくすぐってきて、どくんと鼓動が跳ねていく。
「――ッ! って、……あれ?」
慌てて彼の腕から逃れようとするが、すんでのところで、思いとどまった。
小刻みな振動が伝わってきたことに気がついたのだ。
不思議に思ったリディアは、上目で彼の顔を覗いていった。
そこにあったのは、普段なら決して見ることのない、苦しみや不安に耐えるような表情で。
リディアが困惑していると、逃がさないとばかりに強く抱きしめられ、動揺はさらに増していく。
「行くな、レオン……」
かすれた声で紡がれた願いに、リディアは、はっと息をのんで身体を震わせた。
裁きの証は持ち主の夢にも干渉し、たびたび悪夢を見せてくるのだ、と、ライリーが話していたことを思い出したのだ。
大人になった彼がここまで弱っているところを、リディアは一度たりとも見たことがない。
いつも気丈に振る舞うファルシード。
強く気高く生きる彼には、弱さなどないとリディアは思っていた。
どんな困難にも立ち向かえる人だと、悲しみなど物ともせずに乗り越えていけるのだろうと、そう思っていた。
――でも、それは大きな間違いだったんだ。
レオンの死という悪夢に震えるファルシードに、リディアの胸はきつく締め付けられていく。
止む気配のない震えから、レオンの存在が彼にとってどれほど大きいものだったのかを、ひしひしと感じとれた。
――どうして私は、ファルなら大丈夫だと思ってしまったんだろう。
リディアは亡き母の姿を思い返し、ぎゅっと目をつむる。
幾年も時が過ぎたところで、深い悲しみや喪失感が消えることは、ない。
ただ大切な人が“どこにもいない”という事実を、心が受け入れられるようになっただけだ。
上手く悲しみを隠すすべを覚えただけで、傷が癒えたように他人から見えるだけなのだ。
それまで所在無げにしていたリディアの両手。
たどたどしく動き始めた手は、真っ直ぐファルシードの背中へと向かっていった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
きゅっと力を込めて、抱きしめ返す。
泣きだした子どもを落ち着かせるかのように語りかけ、優しく肩をさすっていく。
レオンはもう、この世のどこを探したっていない。
リディアもそれはわかっていたし、こんなことをしたところで気休めでしかないこともわかっていた。
気の利いた言葉など浮かばないが、悪夢から救い出すことができれば、と口を開いていく。
「団長もいる、バド君も、カルロさんも、ケヴィンさんだって」
悪夢にもがくファルシードへ声が届いたのだろうか。
震えは少しずつ落ち着いてきたように見える。
「大丈夫。私もずっと、貴方のそばにいるよ」
そう言って抱きしめる力を強めていくと、ようやく彼の震えは止まって力が抜けていき、静かに寝息を立てはじめた。
リディアは彼を起こさないように注意しながら、身体を抜け出させていき、ぺたんと座りこむ。
冷たい汗をかく彼の横顔を見て、視線を落とした。
ファルシードの“これまで”と“これから”を考えれば考えるほどに、鋭い痛みが胸を襲ってきて、苦しみは増していく。
――ファル。貴方はこうやって、一人で悪夢に耐えてたの? どうしてずっと、何も教えてくれなかったの?
両膝をついたリディアは、彼の右手を自身の両手で包み込んでいき、自身の額へとあてていく。
「どうか、苦しむ彼に温かく、幸せな夢を……」
残酷な現実に、そう願わずにはいられなかった。
――・――・――・――・――・――
穏やかな陽だまりの差し込む部屋で、どこからか軽快な足音が聞こえてくる。
――ねぇねぇ、お母さん。聞いて、あのね
ぼんやりと白く霞んだ世界。
そこに見えるのはエプロンをつけた母の後ろ姿だった。
立ち止まって見上げると、振り返って来た母は、濡れた手をエプロンでぬぐい、しゃがみこんで微笑みかけてくれる。
優しい母は、微笑むだけで何も話さない。
だが、リディアにはそれで十分だった。
温かい手が、愛しむように髪を撫でてくれている。
額にそっと、キスを落としてくれている。
霞んだ世界では、ほとんどの感覚がぼやけているのに、触覚だけは、不思議とリアルに感じた。
髪の感触を楽しむような指と優しいキスから、愛情が伝わってきた気がして、リディアはふにゃりと笑う。
途端に、指はぴくりと震えて離れてしまったけれど、母は優しく目を細めていた。
こうやって、穏やかに微笑む母の顔が、リディアは好きだった。
思わずエプロンを掴んだリディアは、微笑むように口を開いて、言葉を紡いでいく。
――お母さん、あのね。
「私、皆に会えて幸せだよ」
そっと呟くように言うと、景色は温かさを残したまま、次第に白さを増していく。
ぼやけた意識の中、「そうか」と、柔らかく笑う低い声が聞こえる。
やがて、かちゃりと錠がかかる音が聞こえてきて、リディアは我に返り、まぶたを開けた。
「あれ……?」
起き上がって布団をどかし、辺りを見渡した。
暗闇に浮かびあがるそこは、物のないすっきりとした部屋で、リディアはいつの間にか自室のベッドで眠っていたようだ。
――ああ。私、うっかり寝ちゃったんだ。
ここに戻って来た記憶がないが、恐らく寝ぼけたまま部屋に戻って、そのまま眠ってしまったのだろう、とリディアは推測した。
彼女には、そうとしか考えられなかったのだ。
外は暗く、夜明けにはまだ時間がある。
眠ろうと掛け布団に手をかけた途端、彼の残り香を感じた気がして、きゅっと体を縮こまらせて、視線を泳がせた。
――男の人の腕や背中って、がっしりしてるんだなぁ……
冷静になって思い返すと、抱きしめられ、さらには抱きしめ返した恥ずかしさが襲ってくる。
温かい胸板は硬く、腕も力強かった。
彼の体温と鼓動を思い返すたび、どきどきと胸が高鳴って苦しくなる。
見張り台で以前、柱に追いやられた時と同じ感覚だ。
――私、本当にどうかしてる。ファルを落ち着かせようとしたことなのに、それを恥ずかしがったり、動悸まで出てくるなんて。
リディアはぶんぶんと左右に首を振って雑念を振り払い、大きく息を吸い込んだ。
――裁きの証に苦しんでいるファルを支えていくことが第一。変なこと考えてちゃだめだ。
リディアは勢いよく寝転び、布団を頭までかぶっていく。
考えないようにしようとすればするほどに、証のことやレオンのこと、ファルシードのことや先ほどの体温について、ぐるぐると忙しく思い返してしまい、再び眠りにつくことは難しくなってしまったのだった。