受け継がれた証
「あれ、なに……?」
空間に歪みのようなものが見えて、無人のボートに目を凝らす。
歪みは徐々に大きくなって青黒い光が溢れ出し、次第に“裁きの証”の輪郭を形どりはじめた。
「出たか!」
カーティスは、待ちかねたとばかりに船から身を乗り出し、嬉々として光を見つめる。
目の前で人が闇に取り込まれた直後だというのに、金色の瞳は煌めき、口元は弧を描いていた。
さすがは世界を統べる者の豪胆さ、とでも言うべきだろうか。
動揺など微塵も感じさせなかった。
「い、急ぎボートの準備を」
隣に立つ神官は震えながら声を発し、船員たちに指示を飛ばしていく。
「あの人たち、どうするつもりなの?」
リディアが呟くと、裁きの証はどくんと拍動するかのように収縮をはじめた。
誰もが目を見開き、証の不穏な動きに視線を奪われているように見える。
やがて、証は観衆をあざ笑うかのごとく、カタカタと小刻みに揺れはじめ、ゆっくりと天へ昇りだした。
「待て! どこへ行く!?」
大神皇の声色からすると、証の動きは予想外のことだったのだろう。
「チッ……逃がさぬぞ」
忌々しげに舌打ちをしたカーティスは、左胸に手を当てていき、その手を空へとかざしていく。
途端、大気がぴりぴりと音を立てて震えだし、晴れ渡っていたはずの空が、嵐の前触れのように暗くなる。
上を見ずとも、大きな力が空へと結集していることが、容易に感じとれた。
リディアは身体を強張らせながら、恐る恐る視線を上げていく。
そして、信じられない光景に、へなへなと脱力した。
証の上空に、おぞましい球体が浮かんでいたのだ。
巨大なそれは、暗黒と呼ぶにふさわしい色をしており、いくつもの閃光が龍のごとく、表面を這うように駆け抜けていた。
絶えず小鳥の鳴き声に似た高音をチチチと放つ球体は、どう見ても親しみやすいモノには感じられない。
「まさか、あれを大神皇が……?」
リディアが問うのと同時に、カーティスはにたりと笑い、命令を下すかのごとく、伸ばした指先を下へと向けた。
暗黒の球体は、雷撃に似た爆音を轟かせ、証目がけて落下していく。
二つが衝突しかけた瞬間甲高い音が響き渡り、裁きの証は粉々に破裂し、眩いばかりの光を放った。
「うわっ!」
あまりの眩しさに、リディアは強く目を閉じる。
予測不能な状況に、不安ばかりが募っていった。
――・――・――・――・――・――・――
恐る恐るまぶたを開いていくと、リディアはフライハイトの甲板にいた。
そこに証らしき光はなく、団員たちは皆無言のままで、沈んだ表情をしている。
リディアは甲板を歩き回り、ファルシードの姿を探すが、どこにも見当たらない。
レオンから生気を奪われていたこともあり、自室に運ばれたのかもしれない。
「団長?」
人気のない船尾甲板に上ると、ライリーが疲弊した顔をしてうつむいていた。
声をかけるが、無論、返事はない。
「裁きの証、どこに行っちゃったんだろう……」
――証はきっと、教会に渡しちゃいけない。レオンさんが命がけで守ろうとしたものなんだから。
リディアは、ぐ、と唇を結ぶ。
暗黒の球体には当たっていないように見えたが、それも見えた、というだけだ。
無事だという確証は、一つも持てなかった。
ファルシードの部屋に行こうと足を進めていたリディアの耳に、微かな音が届く。
「なに、この音?」
耳鳴りにも似た金属音の音量は徐々に大きくなっていき、あたりを見渡した。
ライリーが大きく身体を震わせたのが、目にとまる。
不安と嫌な予感を胸に抱いたまま、急ぎライリーの元へと向かった。
場違いなそれを見つけた途端、瞬時に顔が凍りつく。
青黒い光を放つ裁きの証が、ライリーの前で浮遊していたのだ。
「くそッ、おれはいつからこんなに臆病になった」
ライリーは顔面を蒼白にさせ、小刻みに震えていく。
確実に死へと誘う証と相対した恐怖からだろう。
自身の頭を抱えるようにつかみながら、目を大きく見開いていた。
「団長……」
証を恐れて震えるライリーを責める気にはならなかった。
証を持つということが、いかに危険なことなのか。
天命を待つのではなく、命の期限を極端に縮められることが、いかに恐ろしいことなのか。
リディアは、身をもって知っていた。
不幸か面倒事しか連れてこない証を、受け入れ難く思うのは、当然の反応だとわかっていたのだ。
「レオン、おれは……」
葛藤を示すかのように上半身を丸めるライリーを前に、裁きの証は微かに震え、パキンと割れるような音を発した。
やがて、ガラスのように粉々になった証は、湿った風に吹かれて跡形もなく消えていった。
ライリーは無言のまま、震える指先でシャツを引っ張り、左胸を露出させていく。
「証が、ない……」
たくましい胸毛から覗く褐色の肌に、リディアとライリーは同時に声をあげた。
ネジが切れたように止まったままのライリーだったが、はたと顔を上げて、息を飲んだ。
「まさか」
悲痛な表情を浮かべたライリーは、転びそうになりながら甲板を駆け抜けていく。
「おれのせいだ。おれが拒絶なんざしたから……」
苦しげに呟くライリーの背中は震えている。
予想が読みとれたリディアも、同じ場所目がけて走った。
――そんな。そんなことって、ないよ……
下唇を噛みしめるリディアの瞳には、大粒の雫が浮かびはじめる。
塩辛い風が涙をさらい、ぽたりと音を立てて、乾いた床へと染みを作っていった。
――・――・――・――・――
「小僧!」
ライリーは乱暴に扉を開けていく。
ファルシードはすでに目覚めていたようで、ベッドの上で身体を起こしていた。
「証……」
呟くように言ったファルシードは、窓の外をぼんやりと見つめている。
アメジストのような紫の瞳は虚ろで、生気のない彼の姿は、精巧に作られた人形のようだ。
重く苦しい静寂が包む部屋で、ファルシードは右手だけをゆったりと動かしていく。
その行き先は、シャツの前身ごろだった。
ファルシードは指先をひっかけて襟元を静かに引き下げていき、淡々と言葉を放つ。
「証が来たってことは……レオンは、死んだのか」
長くレオンの身体に宿っていた裁きの証。
それが今度は、ファルシードの左胸に青黒い光を灯していた。
虚ろな視線を向けてくるファルシードに、ライリーはおろかリディアも、何も言うことなど出来ないまま。
返答はなくとも、彼はライリーの態度でことの成行きを察したのだろう。
「レオン……」
ファルシードはそっと、呼びかける。
何度も口にし、そのたびに明るい返事が返って来た名前。
だが、いまは耳が痛むほどの静寂しか残らない。
見えない空を仰いだファルシードは震えながら、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「レオンはいつも、勝手なことばかりしやがる……」
揺れる声で毒づく瞳は滲みはじめ、雫が一粒、また一粒と零れて頬を伝っていく。
悲しみの海に沈んだファルシードはわめくこともなく、天井を見つめたまま動かない。
次から次へと静かに流れる彼の涙だけが、意思を持っているかのようだった。
兄のように慕っていた者の死を悼むように雫は零れ、音もたてずに落ちていく。
家族同然だった者を失って苦しむ彼の姿に、リディアも涙が止まらなかった。