空を仰ぐ男の微笑み
「さ、行け。オレもそろそろ行くからよ」
レオンは海に浮かべたボートに乗り、穏やかに笑う。
苦しげな顔をしたライリーは、ぎりと歯噛みして振り向き、大きく口を開けた。
「野郎共、取り舵いっぱいだ!」
「アイサー!」
団員たちは、涙や鼻水をこらえながら声高に返事をし、せわしなく甲板を駆けだす。
ネラ教会と戦ったところで、レオンは救えず、全滅の道しかない。
苦渋の決断だということを、誰もがわかっていたのだ。
「ライリー。厄介事頼んじまって、すまねぇな」
少しずつ距離をとりはじめる船を見つめてきたレオンは、自身の左胸に触れながら言ってくる。
それに対し“あとのことは心配ない”とでも言うように、ライリーはぎこちない笑顔を見せた。
「気にすんな。次はおれが証と小僧を守ってやるから」
「へへ、お前になら、安心して任せられるよ」
にこやかに微笑むレオンはボートを漕ぎ始め、ネラ教会の船へと向かっていった。
こうしている間にも、彼の姿は小さくなっていき、青空に溶けるように消えつつある。
リディアはレオンを見つめ、奇跡を祈るように両手を組んだ。
だが、少しずつ、確実に死へとボートは近づいていく。
見ていることしかできない自分をふがいなく思ったリディアは、泣きだしそうな顔をしてうつむいた。
「悪いが眩しいんだ。貸してくれや」
隣にいるライリーは、団員から半ば強引に帽子を奪い取り、それを目深にかぶっていく。
帽子のつばを目元に押さえつけた彼は、やがて唇を強く結び、細かく身体を震わせはじめた。
「ライリー団長……」
呼び掛けるだけで、他に何も言うことなどできなかった。
声が伝わるか否か以前に、苦しげにしゃくりあげるライリーにかける言葉が見つからなかったのだ。
自分を抱き締めるようにしても、深い呼吸を繰り返してみても、心の痛みは少しも消えはしない。
リディアは、ぐ、と目を閉じて、ただただ重い胸の痛みに耐えていく。
彼らのことを想うと、身を切られるかのように苦しくて仕方がなかった。
――・――・――・――・――・――・――
どれほどの時をそうやって過ごしていただろう。
船の揺れが収まった気がして、そっとまぶたを開けていく。
すると、場面は移り変わっており、リディアは海の上にいた。
「ここは……?」
フライハイトの船が遠く見え、振り返ってみると、レオンの乗るボートとネラ教会の船が間近にあった。
どうやら二つの船は合流を果たしたようだ。
目前に迫ってくる船に立つ美しい赤髪の男に、レオンは手を上げて笑う。
「よぉ、カーティス。アンタ、大神皇になったんだってなァ」
ネラ教会のトップに対するものとは思えぬ振る舞いに、隣に控えていた神官は眉を寄せ、口を開いた。
「貴様……! 大神皇に馴れ馴れしく」
何かを言いかけた神官は、慌てたように口を閉ざしていく。
カーティス大神皇が、言葉を制止させたのだ。
「久しいな、レオン・ミラー。まさか、お前が持っていたとは思いもしなかった」
「そりゃ、バレたらテメェらは、オレを殺しに来るだろうが」
レオンが悪態をつくと、カーティスは「違いない」と笑い、言葉を続けていく。
「レオンよ。すまないが、我らは昔話をしに来たわけじゃない」
「だろうな」
呆れたようにため息をつくレオンとは対照的に、カーティスはおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせ、嬉々とした顔を見せた。
「お前も知っての通り、あの証は少々特殊なんだ。元々、我らのものであったわけだし、返してはくれまいか」
証を返す、という訳の分からぬ展開に困惑し、リディアは口を結んでいく。
いくら考えてみても、思い当たる節などなく、疑問は次から次へと重なっていった。
――レオンさんは、なんて返すの……?
うつむくレオンに視線をやると、彼はこぶしを握りしめて顔を上げた。
「渡してやってもいいが、一つ条件がある。……七年前に襲った島のことを覚えているか?」
レオンの言葉に、リディアとカーティスは同時にぴくりと身体を動かした。
七年前に襲った島。それはファルシードが住んでいたリジム島のことなのだろう。
「カーティスよう。あの島はリジムの民のものだったんだ。だから、返してやってくれよ。豊かな自然も、紡がれた歴史も、人の命も夢も繋がりも、残さず全部」
リディアはレオンの言葉に、はっと息を飲んだ。
七年前の事件は、ファルシードだけではなく、レオンの心にも傷を刻み、色濃く残っていたのだろう。
口元は笑っていたが、その瞳は燃え盛る炎のような激しい感情を浮かべているように見えた。
だが、カーティスは、そんなレオンの想いを知ってか知らずか、嘲笑うように口角を引き上げていく。
その姿に、リディアはぞっと身をすくませた。
「リジム? さぁて、どの島のことを言っているのやら」
「……アンタ、本当にクズだな。どれだけの人が死んだと思ってる」
「もう昔のことだ。数えようがないだろう?」
その言葉にレオンは笑みを無くし、睨み付けるようにカーティスを見上げていく。
一方のカーティスはレオンを見下ろして呵々と笑い、口元に弧を描かせた。
「レオンよ、知っているか? お前のような者を人は“偽善者”と、そう呼ぶ。異端は罪で悪。世を乱す悪は切り捨て、力を持つ者が世界を治めて人を律さねば、世は保てない。それが真理というやつだ」
「リジムの民が、罪で悪……だと」
「信仰は、この世に一つでいい。民に余計なことを吹き込まれては、また下らぬ仕事が増える」
面倒そうにカーティスはため息をつき、今度は隣にいる神官が口を開いた。
「まったく……貴様はなぜ、大神皇のお考えがわからんのだ」
「わかる、わからねぇの話じゃねェよ。やり方がいけすかねーし、反吐が出る」
怒りのこもった瞳を向けてくるレオンに、神官は額に血管を浮かばせた。
「秩序を乱す者は断罪し、調和をはかる。それが我らの崇高な“使命”であり、“信念”なのだ! 何故それがわからぬのか、ほとほと理解ができん」
――確かに世界の平和は尊い。……けど、それは普通に生きてきた人を殺していい理由になるの?
神官の言葉に青ざめ、体をぶるりと震わせる。
だが、目の前にいるレオンは、高らかに声をあげて笑い、神官の怒りを助長させていった。
「貴様、なぜ笑う!」
「いや、信念なんてモンはよォ、デケェ声でお気軽に語るもんでも、誰かに押し付けるもんでもねぇのに、と可笑しくてな」
「なんだと……!?」
言葉を失う神官に、レオンは嫌味な表情で、にやりと笑った。
「オレからすりゃ、てめーはただ、ご立派な弁舌に酔っているだけに見える。信念信条なんてモンは口じゃなく、背中で語るべきだ。違うかよ」
「ククッ」
カーティスは口元を押さえて、笑いをこらえていく。
「大神皇?」
「同感だ」
神官の問いかけに、カーティスはぽつりとこぼし、レオンは肩をすくめて、うんざりとした仕草を見せた。
「そいつぁ、どーも」
いかにも面倒そうなレオンを見つめるカーティスは、微笑むようにゆったりと目を細めていく。
だが、その瞳は獲物を狙う蛇のように爛々と光り輝いており、リディアは思わず一歩後ずさりをした。
「レオンよ。密偵だったとはいえ、ここまで教会に仕えてきた褒美に二つ選択肢をやろう。いまここで死ぬか、最果ての地で死ぬか。その証は力なき者が持つような代物ではない」
「言っておくが、力だけじゃ人の心は縛れねェぞ」
「縛れるさ。現に我らを恐れ、お前は身を寄せていた交易船から見捨てられた」
見捨てられた、という言葉に、リディアの胸はきつく痛んだ。
確かに結果だけを見れば“見捨てられた”ことになるのだろう。
――だけど、皆だって、そうしたかったわけじゃない。レオンさんを大切に思ってなかったわけじゃない。
リディアは視線を落として、きゅ、とこぶしを握る。
――人の心は、恐怖や力で全てを支配されるほど、きっと単純じゃない。全部を“仕方ない”で、割りきれるわけ、ないよ。
睨み付けるようにカーティスを見ていると、レオンの笑い声が聞こえてきた。
「青くせェガキは権力を持つと、目も頭も悪くなるのかねェ」
「何だと……」
「オレには、残された時よりも大事なモンがあるのさ」
レオンは、おもむろに立ち上がり、左の胸へと手を当てていく。
「レオン、何をする気だ!」
カーティスと神官が叫ぶと同時に、レオンの胸元が青黒く光り、レオンの足元から漆黒の闇が生まれていく。
それはやがて、成長するツタのように絡み合い、まとわりつくように這い上がってきていた。
「レオンさん、一体何してるの!?」
リディアは声をあげて駆け出す。
闇は徐々に大きさを増していき、レオンを取り込もうとしているかのように見えたのだ。
「リジム島の返却意思なし、ってことで交渉は決裂かねェ」
にやりと笑うレオンに、カーティスは愕然とした表情を見せた。
「レオン、お前まさか……」
「これはテメェらに渡しちゃなんねェ。明るみに出ちゃいけねー代物なんだ」
闇は見る間に大きくなっていき、レオンを覆い隠すように飲みこんでいく。
「レオンさん!」
リディアは叫び、海上を駆け抜ける。
遠目からでも、レオンの両手が小刻みに震えているのがわかった。
よく見ると、視線も落ち、表情も強張っている。
迫り来る死の影に、レオンが恐れを抱いていることは明白だった。
「ライリー、ハルト、ジョセフ、みんな、ファルシード!」
闇に包まれつつあるレオンは、喉が枯れるほどの大声で、ここにはいない仲間の名を叫ぶように呼んだ。
「レオン……さん」
――もう間に合わない。それに、間に合ったところで、私に出来ることなんて、何もないんだ。
リディアは足を止めて、その場にへたりこんで泣き出した。
悲痛な叫びを聞くのは辛すぎる、と、自分自身を抱き締めていく。
リディアは、死を恐れたレオンが、仲間たちに助けを求めていると思ったのだ。
だが……
仲間の名を叫び終わった彼は、泣き叫ぶことも、動転することもなかった。
レオンの震えは不思議とぴたりと収まっており、彼はいつものように、どこまでも広がる空を見上げていた。
闇が覆い来る刹那、レオンはゆっくりと口を開き、静かに言葉を放つ。
「ありがとう、いい人生だった」
完全に闇に飲み込まれてしまったレオンが最期口にしたのは、感謝の言葉。
それは、驚くほどに穏やかな声色をしていた。
リディアは彼の声と姿に、目を見開き、はっと口元を押さえていく。
信じられない、と、そう思ったのだ。
――レオンさん、いま……笑っていた。
もう最期なのに、なんで、どうして、こんな時でも優しく笑えるの――
穏やかに緩む目元も、柔らかく弧を描く口元をも、黒い影は包んで収縮するようにして消えていく。
最後には闇も人も消え去り、ボートは空のまま、そっと揺られていたのだった。