硝煙と小舟
金髪の男は、気を失ったファルシードを担ぎ上げ、小舟へと足を進めた。
「どこへ行く気なの……?」
男の背中に問いかけるが、返答は得られない。
二人と一匹を乗せた舟は、燃え盛るリジム島から静かに出港した。
置いて行かれないように、リディアは海へと歩みを進めていく。
押し寄せるさざ波に足を踏み出すと、幻の世界だからだろうか。
海水に浸かることはなく、陸と同じように海面を歩くことができた。
「クソッ。あの野郎、何考えていやがる」
金髪の男はオールを漕ぎながら、砲撃を続ける船を睨みつける。
「あの野郎……?」
姿を確認しようと体をひねるが、小舟から唸り声が聞こえてきて、すぐに視線を戻した。
「ん……」
どうやらファルシードが目を覚ましたようだ。
首が痛むのだろう。
険しい表情を浮かべながら、手刀をくらったあたりを押さえて起き上がった。
座り込んだ少年は、燃えゆく故郷を無言のまま見つめている。
呆然としており、まるで心を失くしてしまったかのようだ。
次に戦艦へと視線を送ったファルシードは、はち切れそうなほどに血管を浮かせてこぶしを握り締め、奥歯をぎりと軋ませた。
「ファル……」
泣き出しそうな声で、彼の名を呟く。
全てを奪われた怒りや憎しみ、悲しみを、幼い紫の瞳から手にとるように感じられた。
少しでも安心させてやりたくて抱き締めようとしても、リディアの手は彼の身体をすり抜けてしまう。
自身のふがいなさを痛感したリディアは、下唇を噛んでうつむくことしかできない。
燃え盛るリジム島を直視できず、誰もが押し黙っていると、どこからか声が聞こえてくる。
ぴくりと耳を動かして、顔を強張らせたリディアは戦艦へと視線を送った。
「笑い、声……?」
空耳だと思いたいリディアだったが、どうやら間違いではなかったらしい。
風に乗って、硝煙と火の粉が勢いよく舞い上がり、再び男の高笑いが耳に届いたのだ。
声の主は、船首甲板に立つ赤髪の若い男だった。
彼がまとう雪のような純白のマントに、リディアは言葉を失う。
“穢れのない聖なる者”を示す白のマントは、ネラ教会で上位の者しか身につけることを許されていない。
つまりは、この襲撃はネラ教会上層部が行っているということだ。
そして、あの若さでこの地位にまで上り詰めている者は、リディアの知る限りでは一人しかいなかった。
赤髪の男はティーカップを片手に、燃え盛る島だけを見続けている。
隣には大蛇がおり、甘えるように男に寄り添うと、彼は適当にあしらうように蛇を撫でていく。
嬉々として炎を見つめる男の瞳と不気味に上がりゆく口角に、リディアはぞっと身体をすくませた。
「あの人、カーティス・クレイ……?」
微かに震えながら、呟く。
信じたくはないリディアだったが、赤髪の男は教会に飾ってあった大神皇の絵に酷似していた。
「どうしてこんなことを……」
下唇を噛みしめていくと、背後から少年の怒声が聞こえてきた。
舟の上のファルシードは、片膝を立ててバランスをとり、その手には短剣を握り締めていた。
神官服をまとう金髪の男を、カーティスの仲間……つまりは敵と認識したのだろう。
ノクスは服を引っ張って止めようとしているが、怒りにとらわれたファルシードが武器をしまうことはない。
叫び声に似た声をあげたファルシードは、金髪の男目がけて刃を振り下ろそうとした。
「ごめんな……」
男の声が静かに響いて、消えていく。
その声色と表情とに、ファルシードは目を見開き、無言のまま全身を小さく震わせた。
「手は尽くしたが、結局助けてやれなかった。憎まれて当然だが、オレはまだ死ねないんだ……すまない」
男はファルシードの手首をつかむようにして、刃を止めていた。
その手はカタカタと小刻みに震え、男はいまにも泣き出しそうな声と表情をしている。
ファルシードは困惑した様子で男を見つめ、一方の男は静かに視線を落とした。
「大勢の命を見捨てても、オレは“これ”を渡したくなかったんだ」
苦しげに語る男に、ファルシードは眉を寄せて怪訝な表情をする。
わけがわからない、とでも言いたげな顔だ。
「安心してくれ、オレは敵じゃない。って、ああ、そうか。言葉、わかんねーよな」
ファルシードは男に何やら問いかけているが、リディアには何と言っているかわからない。
だが、金髪の男は、彼らの言葉を少しばかり知っていたようだ。
こくりとうなずき、ローブの襟元を引っ張っていく。
露出されたたくましい胸元に光るそれに、リディアは言葉を失い、ただただ目を丸くした。
そこにあったのは、黒い渦に剣が刺さった形をしている“証”だったのだ。
それは、大人になったファルシードの胸にあったものと、まったく同じ形をしていた。
「あれはファルの……どうして貴方がそれを」
――もしかして、この人がファルのお父さんってこと? でも、二人は初対面みたいだった。一体どういうことなの……!?
幼いファルシード以上に困惑していたリディアだったが、答えは誰からも返ってはこず、疑問は膨らみ続ける。
金髪の男はファルシードの背中に手を伸ばして、そっと自身の胸元へ引き寄せた。
「……大丈夫、お前はオレが守るよ。ああ、言葉が全部わかりゃいいんだが……」
これまでとは違う柔らかくて優しい声色で話しかけられ、抱きしめられたファルシードは、張り詰めていた緊張が解けたのだろう。
残酷すぎる現実と、突然現れた救いの手に、声を上げて泣き出したのだった。