巫女の役割
「まだですか? 貴女はネラ様に身を捧げる選ばれし者。遅刻は褒められたものではありませんよ」
穏やかな声に厳しい現実を突き付けられ、リディアの身体はびくりと跳ねる。
祈りの巫女に求められる役目は、結婚と出産だけではない。
むしろそれは、スタート地点でしかないのだ。
巫女たちに課せられた使命は大きく分けて三つ。
最初の使命は、ネラ教会が決めた許婚との間に子どもを産むこと。
二番目は、魔力を受け継がせた女児の『祈りの巫女』もしくは男児の『神の使い』を育てること。
そして、最後の使命は、子が八歳になった日、最果ての地でネラ神に命を捧げるというものだ。
それが、かつて世界を恐怖で包んだ暗黒竜を封印し続ける唯一の手段であると言い伝えられており、祈りの巫女や神の使いは平和の存続のために役目を果たし、死んでいったのだ。
着替えを済ませると同時にひどかった震えは収まり、リディアは諦めにも似た表情を浮かべた。
数ある巫女の家系の一つ、ハーシェル家の長子に生まれたからには、世界の平和を祈り、生贄となるためだけに生きなければならない。
幼い頃よりそう言い聞かせられてきたリディアは、あの日の母と同じように玄関へと向かう。
だが、ドアノブに触れる直前ふと動きを止めた。
不意に、昨日出会った黒髪の男の声が頭の中で響き出したのだ。
『世界で一番の自由』という言葉はそれほど強く心を揺さぶってきたのだろう。
リディアはあの男の声を散らそうと慌てて首を横に振った。
恋を諦めろ。友を諦めろ。普通の生活を、夢を、命を諦めろ――
何度も何度も自分自身に言い聞かせる。
たった一人の人生。それで数年間、億単位もの人の命が保証されるのだ。
一人の命と人類の命、どちらを優先すべきかなど考えなくてもわかる、と強く目をつむり、こぶしを握る。
――自分の使命の重さはわかっている。全てわかってはいるけれど……
開かれたリディアの目には涙が浮かび、顔はぐしゃりと歪んだ。
「嫌だ、あんな人に触られるなんて、死ぬなんて、怖いよ……」
自分自身の説得に失敗したリディアは、震える足を玄関から返していく。
一直線に裏口へと向かって家を飛び出した彼女は長い髪をひるがえし、森の奥へと駆け出したのだった。
――・――・――・――・――・――
時を同じくして、町から離れた森の奥では指笛の音が響いていた。
それに呼応するように鷲に似た鳴き声がどこからともなく聞こえ、すぐに空からグリフォンが姿を現した。
「今日も停泊だ。夜には帰ってこいよ」
ファルシードにほほのあたりを優しく掻くように撫でられると、グリフォンのノクスは嬉しそうに目を細めていく。
「さ、宝探しといくか」
ファルシードはノクスを撫でるのをやめて立ちあがり、今度はバドのほうへと身体を向けた。
「そっすね。だけど宝を探せって言われても、ありかを忘れちまったとか何なんスかね。しかも、俺らにとっちゃお宝でもなんでもねぇしよぉ。あーあ、やる気出ねぇっスよ」
バドは両手を頭の後ろで組んで、口をとがらせる。
それを見たファルシードは、呆れたようにため息をついた。
「前にも言っただろう。ジィサンの戯れ言なんざ本気したら、馬鹿をみるだけだ」
バドは恐らく『宝探しは面倒だ』という返答を得たかったのだろう。
呆れられたことが面白くなかったのか、つまらなそうに小石を蹴って、苔むした岩にぶつけていた。
「あ、そういやキャプテン。昨日はうやむやになって聞けなかったけど、結局あれ、何だったんスか?」
ふと思い出したようにバドが問うと、ファルシードは怪訝な顔で視線を送る。
「何のことだ」
「勢いで女の子の胸を揉んだでしょうが」
バドは何かを揉むかのように手をわきわきと動かし、ファルシードはそれを不愉快そうに見おろした。
「揉んでねェ。見ただけだ」
「見ただけって……いきなり女の子の胸見るのも普通やんないっスよね? んで、どうだったんスか、大きかったっスか? それとも可愛らしい感じ?」
バドにとってはよほど興味のあることなのだろう。
きらきらと瞳を輝かせながらファルシードに詰め寄っている。
「緑に輝く、羽と風の模様……」
ファルシードは小さくため息をついて、呟くように言う。
「へ?」
「あいつ、風の証を持っている。……祈りの巫女だ」