リジム島
彼らが向かった先は海だった。
穏やかな海鳴りだけが聞こえ、白砂の浜辺は光を反射し、眩いばかりに輝いている。
ノクスを呼んだファルシードは、風のように砂浜を駆け出した。
彼らを追いかけて、リディアも走る。
足を取られそうになるたび、砂がきしんで、きゅ、と鳴った。
たどり着いた場所は、小舟の前だ。
手漕ぎの舟は杭とロープで繋がれ、砂浜の端に忘れられたように佇んでいる。
ファルシードはノクスと共に、舟の中へと入っていく。
どうやら、ここに隠れると決めたようだ。
「ファル、それじゃ見えちゃうよ」
リディアは微笑みながら、そっと声をかけた。
小さなノクスはともかく、座っていると彼の姿が丸見えだったのだ。
ファルシードもこのままでは見つかってしまうことに気付いたようで、難しい顔をし、考え込むような仕草を見せている。
はた、と何かに気付いたような顔をした彼は、ノクスを抱きしめて船の中で横になり、くすくすといたずらっぽい笑みを浮かべた。
誰にも見つからないことを確信しているようだ。
抱きしめられたノクスも、目を細めてすり寄っていった。
「うわぁ、可愛いなぁ~!」
リディアは隣にしゃがみこみ、表情を緩めながら一人と一匹を見つめていく。
触れられないのを残念に思いながら、幼いファルシードの頭とノクスの背中を撫でるようにそっと動かした。
やがて、一人と一匹は眠ってしまったようで、深い呼吸を繰り返し、静かに胸を上下させている。
リディアも彼らが起きるのをそばで待っていたのだが、目をつむっているうちにいつのまにやら眠ってしまっていた。
――・――・――・――・――・――・――
「ん……?」
木の実が爆ぜるような音と、焦げの臭いに目を覚ます。
何事だろうと、音がする森のほうへと視線を送った。
リディアの周りだけ、時が止まってしまったかのようだった。
無言のまま目を見開くリディアは呼吸さえも忘れ、人形のように固まる。
彼女の視線の先にはもう、先ほどまで見ていた美しい景色は、一つもなくなっていた。
鮮やかな緑色だった豊かな森が、深紅の炎に包まれており、空高く黒煙を上げていたのだ。
「何これ、どうして……って、まさか」
烈火で崩れゆく木々を見つめ、青い顔をして小刻みに震える。
呼吸は浅く速くなり、瞳には涙が浮かび始めた。
森が突如として燃え出すという尋常ではないこの状況を、リディアは知っていたのだ。
恐らくは、ライリーから聞いたファルシードの過去……リジム島が世界から消えた日のことなのだろう。
「ねぇファル、起きて! はやく逃げなきゃ!」
彼らを起こそうと手を伸ばすが、声も届かないどころか触れられない状態でできることなど、何一つない。
「どうしよう」
リディアはうろたえながらあたりを見渡していく。
すると、海岸に大型の船が何隻も停泊しているのが目に留まり、そこから続々と兵士たちが下りてきているのが見えた。
兵士たちは銃や槍、弓といった武器を構え、森を囲うように位置どり、中には火矢を飛ばす者もいる。
「けほっ……」
リディアは流れてきた煙にむせこみ、火矢を射る兵士たちを強く睨みつけた。
「何をしているの……? 人がいるんだよ。ファルの家族が、仲間がいるんだよ。やめて、やめてよ……。お願いだからやめてよッ!」
大声で叫んだリディアはまぶたを強くつむって耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちていく。
船からは砲撃もはじまり、耳が割れんばかりの爆音が幾度も轟いて、大気が震えた。
あたりは一面、硝煙と炎によって発生したどす黒い煙に覆われ、平和な島の面影はもう、どこにもなくなってしまっていた。
「そうだ、ファルとノクスは……」
リディアが顔を上げていくと、ファルシードとノクスは砲撃の音で目覚めたようで、へたり込んだまま愕然としていた。
恐らく、状況の理解ができていないのだろう。
やがて、ファルシードは震える足を奮い立たせるように叩いて、一歩、また一歩と踏み出していく。
徐々に歩むスピードは増していき、彼は紅蓮の森へと駆けだした。
恐らく、部落へ向かおうとしているのだろうが、どう見たって無謀としか思えなかった。
「行っちゃだめ!」
ファルシードとノクスの前に周り込んで、行く手を阻もうと両手を広げる。
だが、そんなものは無駄な抵抗でしかなく、彼らは身体をすり抜けてしまった。
「誰かファルを止めてっ!」
割れた声で叫びながら振り返ると、強い願いが天に通じていたのだろうか。
彼らの行く先に、男が一人現れた。
森から飛び出してきたその男は、煤をまとい、疲弊しているように見える。
三十歳手前くらいの歳だろう。
すらりとした体つきで、長い金髪を後ろでくくっている。
そんな彼がまとっている衣装は、ファルシードたちが着ていたような独特な形のものではなく……ネラ教会の青いローブだった。
「ネラ、教会ッ……」
リディアの顔は強張り、一気に血の気が引いていく。
男がネラ教会の者だということもあるが、ファルシードに向けてくる瞳が穏やかなものではなく、苦々しげなものだったからだ。
ファルシードは、そんな男を警戒したのか、短剣を取り出して逆手に構え、腰を落として殺気を放った。
ノクスも隣で瞳を金色に変え、威嚇するように嘴を開く。
リディアも彼らの横に立ち、強く男を睨みつけた。
「……まだまだガキのくせになァ。さすが戦士の村の子、ってか」
金髪の男は嫌味に笑う。
しばしこう着状態が続き、ぴりぴりと空気が張りつめる。
ファルシードの表情は険しく、額から汗が流れて頬を伝っていった。
どこまでも静寂は続くかと思われたが、それを破ったのは金髪の男だった。
彼が呟くように口にした言葉にリディアは耳を疑い、息をのむ。
視線を落とした彼は、確かに「助けてやれず、すまなかった……」と、ファルシードに向けて言ったのだ。
言葉の理解ができないであろうファルシードは炎の熱と怒りとで顔を赤く染め、獣のように唸ながら駆け出した。
振るわれたダガーは、金髪の男に当たることはない。
神官とは思えぬほど身のこなしが軽い男は攻撃を余裕で避け、ファルシードの真横へと位置どった。
「危ないッ!」
リディアが叫ぶが、その声は届かない。
金髪の男は右手を振り上げて、ファルシードの首元めがけ、勢いよく手刀を叩きつけてきた。
ごほっ、と嫌な咳をしたファルシードは意識を失ったのかその場に倒れこみ、男は表情を変えないまま、ファルシードのことをただじっと見つめている。
仲間を攻撃されたノクスは、激怒したのだろう。
限界まで目を見開き、金切り声をあげて男の足に噛みつき出した。
だが、いまのノクスはまだ子ども。
大したダメージは与えられていないようで、男は平然としている。
瞳だけ動かして、噛みついてくるノクスを見ていた男はやがて小さく息を吐いてしゃがみこみ、呟いた。
「腹ぁくくる、かね」
悲しげに微笑んだ男は、ノクスを剥がそうとはせず、なぜか頭を優しく撫でていた。
「おい、協力してくれねぇか。お前の友だちだけなら、オレでも救ってやれるかもしれない」
柔らかな声色にノクスは嘴を離し、小さく鳴いて男を見上げた。
金髪の男はどこか泣きそうな顔をしていて、襲撃をよしとしていないようにリディアからは見えた。
恐らくノクスも同じように感じたのだろう。
瞳の色も水色に戻り、噛みついていた男の足に、自身の身体をすりつけていく。
その姿は“友だちを頼む”と、そう言っているかのように見えたのだった。