どうして?
カルロと別れたリディアは、見張りのバドにブランケットを渡すため、ひたすら階段を上っていく。
辺りは暗く、頼りになるのは手元の灯りだけだ。
階段を踏み締めるたびに足音が響き渡り、ランタンの取っ手がきぃと鳴る。
闇の中に取り残されたようにも思えて、リディアは上るスピードを速めた。
ようやく見張り台にたどり着き、ランタンをフックにかけて辺りを見渡すが、バドはいない。
船尾側にいるのだろうと考え、反対側へと回った。
「へ?」
見張り番の姿を見つけた瞬間、リディアは素っ頓狂な声をあげて目を瞬かせた。
そこにいる人は、髪の色も背格好も、どうやったってバドには見えなかったのだ。
「な、なななんで、ファルがここにいるの!?」
思わず後ずさりをして、声を荒げた。
「……それはこっちのセリフだ」
わけもわからずあたふたしていると、ファルシードはふちにもたれかかり、呆れたように小さく息を吐いてきた。
淡い金色の月とつり下げられたランタンの灯が、伏し目のファルシードを照らし、柔らかい風が黒髪をそっと揺らしていく。
彼は睫毛が長いのか頬に影を落としており、紫色の瞳は光を吸収して静かに煌めいている。
美しいその姿は人ならざる者のようにも見えたが、それを台無しにするかのように彼は眉を寄せてきた。
「おい、用があったんじゃねぇのか」
「あ、えと……用というか、この時間の見張りってバド君じゃなかったんだね。おかしいなぁ」
記憶力の良いカルロが間違えるなど珍しい、と不思議に思い、首をかしげる。
「リディア。お前……バドに会いに来たのか」
いつにも増して険のある声が聞こえ、視線が重なった途端、リディアは息をのんで小さく震えた。
彼の瞳には、怒りにも似た感情が浮かびあがっているように見えたのだ。
「ち、違うよ! 会いに来たとか、そういうわけじゃなくって……」
「違うわりには、ずいぶんと動揺してんなァ」
ファルシードはどこか苛ついた様子で、見張り台のふちから背をはがし、歩みを進めてくる。
「本当に、そんなつもりはなくって……」
リディアは誤魔化し笑いを浮かべながら、じりじりと後ずさりをはじめた。
彼女にとってみれば、動揺するのも、こうやって逃げたくなるのも、至極当然のことだった。
先程ファルシードの過去を詮索していたばかりで、それに気づかれたのかもしれないと、不安に思っていたのだ。
ボロが出る前に一度撤退しようと、リディアはちらと背後に視線を送ったのだが、なぜかぐらりと視界が揺れていく。
「うわっ、何……!」
勢いよく身体が引き寄せられ、リディアは慌てて声をあげた。
気が付いたら目の前にはシャツの襟元と鎖骨とがあり、彼女の背中には、硬くひんやりとしたものが当たっていた。
見張り台の中央にあるポールだ。
リディアは壁へと追いやられてしまい、左手首は彼の手によって顔の横に縫い付けられ、退路を断たれてしまっていた。
恐る恐る視線を上げていくと、射抜くような強い瞳が、真っ直ぐ見おろしてきている。
怒りだけとは思えぬ不思議な瞳に、リディアの心臓は強く脈打ち、呼吸も上手くできなくなっていく。
すぐに顔を背けて、きつくまぶたを閉じた。
「なぜ……」
頭の上から、小さく苦しげな声が降ってくる。
恐る恐る顔を上げていくと、彼の瞳はぼんやりと遠くを見ているようで、焦点も合わなくなっていた。
「ファル?」
おずおずと尋ねると、ファルシードはまた険しい表情をしてきた。
「どうして、バドがいい」
「どうして、って言われても……」
困惑から視線も泳ぎ、まともにファルシードを見られないまま。
心臓も、未だかつてない彼との距離に緊張し、痛いほどに脈を打ち続けている。
「理由なくアイツがいいのか」
淡々としたファルシードの言葉に、リディアは慌てて首を横に振った。
「違うよ! か……カルロさんに、頼まれたから来たの!」
「は?」
ファルシードは、リディアの返答に眉を寄せてくる。
なにがそうさせているのかリディアにはわからなかったが、彼が混乱していることだけは、手に取るようにわかった。
「今日は肌寒いから、これを見張りのバド君に渡してほしいって、カルロさんが」
ブランケットを見せながらリディアが言うと、ファルシードは拘束を解いてきて、忌々しげに目元に力を入れていた。
「やられた……」
「ええと、あの、どうしたの?」
「何でもねェよ、驚かせて悪かった。ここにバドはいないし、とっとと帰れ。風邪ひく」
ファルシードは大きく後ろに下がって言ってくる。
心なしか心理的にも距離を開けられてしまったように思ったリディアは、一歩前に出て口を開いた。
「ファルだって、寒いはずだよ。だから、これ使って」
ずいっとブランケットを突き付けると、彼は柔らかく微笑みかけてきた。
「……ありがとう、助かる」
これまで見たことのない優しい表情に、どくんと大きく鼓動が跳ねる。
何も言えないまま立ち尽くしていると、ファルシードの手が伸びてきて、亜麻色の髪へと着地した。
髪をすくように撫でられたリディアは、固まったまま。
最後にそっと、頬に触れてきた冷たい手が、リディアの頬と心に更なる熱を与えてくる。
淡い灯りに照らされるファルシードの表情が優しく、どこか悲しく見えて、リディアの胸は締め付けられるように苦しくなった。
「それじゃ、私行くよ。見張り頑張ってね」
「ああ」
にこりと微笑み、普段と変わらない様子で会話を終えたリディアは、階段へと向かった。
ランタンを手に取り、手すりを掴みながら階段を足早に下っていたリディアだったが、突然足を止めていく。
そのまま、糸の切れたマリオネットのごとく、崩れ落ちながらしゃがみこんだ。
――心臓が痛い。体中が熱くて苦しい。こんなこと、いままで一度だってなかったのに。
自分自身を抱くようにして小さく丸まる。
揺らぐランタンの灯を見ても、思い出すのはファルシードの瞳や声、そして手首や頬に触れてきた手の熱のことばかり。
――どうして? 私は、こんな感情を知らない。
リディアは自身の左頬にそっと触れていく。
同じように触れてみたところで、身体に異変など起こりはしない。
「ファル、貴方いったい私に何をしたの……?」
リディアは小さく丸まりながら、止めどなく沸き上がる想いに振り回され続けたのだった。