解放
ファルシードには、リディアの呟きが聞こえていたのだろう。
相当苛立っているようで、眉間に深いしわを刻ませていた。
「自分の女にちょっかい出されてんのに、黙ってろってか。それに、お前も死にてェなんざ本気で思ってるのかよ」
「自分の女って、もう演技はしなくていいんだよ! 私は自分可愛さに、世界を壊すようなことはしたくないの! だから放っておいて!」
たたみかけるようにリディアは話すが、それはもう自身を納得させるための言葉でしかなくなっていた。
意志の無い声は、目の前のファルシードどころか、自分の心にさえ届くはずもない。
それに気付いているのか、ファルシードは「頑固にもほどがある」とため息をついてきた。
「崇め奉られているから尊重されている、とでも思っているのか? 実際、コイツらの都合のいい道具にしかなってないだろうが」
「道、具……?」
放たれたあまりにも冷たい言葉に、リディアの表情は一気に強張っていく。
「貴様! 侮辱だッ、これは我々に対する侮辱であるぞ!」
司祭は割れんばかりの大声をあげて激昂し、ファルシードはそんな姿を見て、せせら笑った。
「あァそうか、確かに悪かった。テメェらにとっては道具というより家畜だったか? ガキのうちから小せぇ町に閉じ込めて、夢も自由も許さないなんざ、人間にやることじゃねェよな」
「家畜だと! 我々は巫女に安全を与え、生きるための金だって与えている。祈りの巫女は誰よりも守られている幸福な存在なのだぞ!」
「人はただ生きてりゃ幸せ、ってわけじゃない。少なくとも俺は、な」
ファルシードは軽蔑するような瞳で司祭を見つめ、冷ややかに言い放つ。
「うぐぅ……」
途端に司祭は言葉を失い、ファルシードはリディアへと視線を移して深く息を吸った。
「さぁリディア、答えろ。お前をこの状況に追い込んだのは、誰だ」
射殺されそうなほどに鋭い瞳を向けられたリディアは、はっと息をのむ。
「黙れ、盗賊!」
「それは……」
リディアは微かに震えながら呟く。
「ハーシェル! 聞くな、これ以上聞く耳を持ってはならんぞ!」
慌てたように声をあげるエドガー司祭の言葉を遮るように、ファルシードは再び口を開いた。
「証があるから、死ぬためだけに生まれた。そんなこと、誰が決めて、誰が受け入れた」
「ハーシェル、先程わかったはずだろう。世界を救うためには、お前の力が必要なのだ!」
ファルシードとエドガー司祭は口々に、リディアに言葉を飛ばしてくる。
「やめて、やめてよ……私にどうしろって言うの!」
錯乱したリディアは両手で頭を抱えて大声を出し、強く目をつむってうつむいた。
「どうするかは……自分で決めろ」
しん、と静まりかえった聖拝堂の中、聞こえてきたのはファルシードの声。
相変わらず彼の言葉は、優しさを欠片も感じさせてはくれなかった。
――ああ。やっぱり、ファルは酷いなぁ
少しも頼らせてはくれないファルシードに、リディアの混乱は不思議と落ち着いていく。
そしてなぜか、笑えてくる、と思った。
自分はこんなときでさえ人任せで、何一つ決められないのだ――と。
無言のまま視線を落とし、自嘲するように笑うリディアの耳に響いたのは「目を塞ぎ、耳を閉ざそうとするな」という声。
――でも、そうやって生きる道しか許されていないんだよ……だって、私は死ぬために生まれたんだから。
リディアは下唇を噛みしめて、強くこぶしを握り締める。
理性と感情とがひしめき合い、心はすでに決壊寸前だった。
静寂があたりを包みこみ、やがて小さく息を吸う音が聞こえる。
「人は皆、自由に生きる権利を持ち、他人の心を制するなど何者にも出来ない」
そう話すファルシードの声は、先ほどのような突き放すようなものではなく、どこか柔らかいのに力強さを感じさせてくる。
「自由に、生きる権利……?」
「ああ。俺は“これ”を託してくれた人から、そう教わった」
その言葉にリディアが顔を上げていくと、信じがたい光景が目に飛び込んできた。
それは、そこにあるはずのないもの。
決してそこに“あってはならないもの”だ。
あまりの衝撃にリディアの喉は詰まり、呼吸も一瞬停止した。
「渦と、剣……?」
確かめるように声に出してはみるものの、頭は理解することを拒絶してくる。
リディアは目を見開いたまま、左胸のそれを見つめ続けることしかできずに立ち尽くした。
シャツが引っ張られてあらわになった彼の左胸には、青黒く光り輝くものがあった。
剣が渦を突き刺す形をしたそれは間違いなく、リディアの左胸に輝いているそれと同じ。
世界を救う使命を持つ者……つまり魔力を持つ“祈りの巫女”や“神の使い”であるという証だ。
「い、一体何だったというのだ!?」
呆けているリディアを見て、司祭もファルシードへと視線を送ってくるが、ファルシードはすぐにそれを隠して、フンと鼻で笑った。
「欲張るんじゃねェよ。土産は、さっきテメェの足にくれてやっただろう?」
リディアは、司祭を睨みつけるファルシードを見つめ、心の中で問いかける。
――ねぇ、ファル。証があっても、自由に生きることは許されるの……?
リディアはファルシードの言葉と青黒く光る証とを思い返し、自身の手をきゅっと握っていく。
すると、『思考を捨て、全てを諦め、受容しようとしている』という、かつて彼に言われた言葉がふと蘇ってきた。
――あの時は言われた意味が良くわからなかったけど、いまなら分かる……そんな気がする。
なぜ自分がいま、このような状況にいるのか。
鳥かごの中で、同じ日々を繰り返し、広い世界を知ることも許されず、ただ死を待ち続けていたのか。
ああそうか、と、リディアは一つの結論にたどり着いた。
――こんな風になってしまったのはきっと……私や巫女たちのせいもあったんだ。これでいいと、どこかで思って、私を含めた誰もが何も行動しなかったから。
リディアは大きく息を吸って、ぐ、と口元に力をこめる。
――私は何も知らないし、知ろうとしてこなかった。諦め癖がついて、いつも他人がくれる答えだけを信じて、それと共に生きてきた。でも……そんなのは、もう止めにしよう。
リディアは、前を見据え、今朝ファルシードがしたように、自身の左胸のローブを強く握っていく。
そして、自由の名を冠する盗賊団、フライハイトの誇りを汚さぬことを、自分の心に誓った。
もう二度と生から逃げない。知ることを諦めない。どんなに困難な道だとしても、自由を追い求めていく――と。
リディアは教会の操り人形になっていた自分を、ようやく自覚しはじめた。
暗くなりつつあった瞳に光を取り戻したリディアは、止血を試みているエドガー司祭に視線を送った。
「ハーシェル、何を呆けている! この穢らわしい盗賊から逃げるのだ! 町に行けば教徒がかくまってくれるはずだ。祈りの巫女としての使命を忘れてはならん!」
エドガー司祭は耳が痛むほどの大声を出し、リディアを逃がそうとしてくる。
当然の行動だろう。
祈りの巫女を失うことは、長く続いた平和の崩壊を予感させることでもあるのだから。
だが、リディアはそんな司祭に向かい、深々と頭を下げた。
「エドガー司祭、ごめんなさい。私はまだ、何も知らない。世界のことも、祈りの巫女についても。それに、自分自身のことだって。こんな状態じゃ、世界のために命を捧げるなんてとても無理です。だから……」
「ハーシェル、何を言って、いる、のだ?」
淡々と言葉をつむぐリディアに、司祭はわなわなと震えだし、信じたくないとばかりに顔をゆがませている。
そして、顔を上げたリディアは、揺らぐ司祭の瞳をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「司祭様。私に……世界は救えません!」
リディアが堂々と放った言葉に、司祭は怒りと動揺でだろうか。これ以上ないほどに目を見開き、小刻みに身体を震わせていた。
「な、何を言っている。使命から逃げようとするなど、愚か者が! 貴様は死神だ、国を滅する悪魔だ!」
司祭は暴言を重ねてリディアを傷つけ、引きとどめようとしてくるが、そうやって罵ってくる声はもう、リディアの心に届くことはなかった。
長い間、心を縛り続けてきていたネラ教司祭の声の代わりに聞こえてきたのは……
「よく言った。来い、リディア!」
満足気に笑う、偽りの恋人の声。
「もう、犬みたいに呼ばないでって、いつも言ってるでしょ!」
毎度のように文句を言うリディアは、壁際の通路を走って、ファルシードの元へと向かう。
駆ける足音は、きらきらと踊るように響き、珊瑚色の口元には柔らかい弧が描かれていたのだった。