黒い刃
「私は……間違っていたのかもしれません」
リディアは視線を落とし、力なく言った。
「誰しも間違いはあります。ですが、間違いなど正せばいい。貴女様も世界のため、命を捧げてくださるんですね?」
洗脳にも似た状況下にあるリディアに、エドガー司祭は柔らかく微笑みかけてくる。
リディアは血色の悪い唇を震わせながら開いていくが、どこからか物音が聞こえてきて、動きを止めた。
「前半は同意するが、後半はいただけねェな」
呆れたような声が聞こえてきて、エドガー司祭は慌てた様子で振り返る。
リディアも顔を上げていき、信じられない光景に唖然とした。
扉の前にはファルシードが立っており、不敵に笑っていたのだ。
「テメェがいるってことは、黒幕はカーティスか」
エドガー司祭に視線を送ったファルシードは、面倒そうに息を吐く。
「お前はもしや……」
「ここにカルロがいなくて命拾いしたなァ。アイツの獲物じゃ殺るわけにもいかねェし」
ファルシードは嘲るように笑う。
どうやら二人は顔見知りなのだろう。
だが、親密からはほど程遠い関係のようだ。
背を向けられているため、司祭がいまどんな顔をしているのかリディアにはわからない。
だが、両手が腿の横で微かに震えているところを見ると、司祭にとってファルシードは嫌な相手であることは確かだった。
やがてファルシードは、声を失っている司祭をけしかけるように言葉を放った。
「なぁ、ついでにカーティスに伝えておけよ。高みの見物が出来るのも、いまのうちだけだ、と」
「貴様……大神皇に敬称をつけぬどころか愚弄するなど、無礼であるぞ!」
「俺にとって、敬称をつけてしかるべき存在は、ジィサンとレオンくらいだ」
「小僧が生意気な口をききおって!」
怒りに震え、叫ぶように言葉を放ったエドガー司祭を、ファルシードは鼻先で笑う。
続いて、自分のほうに視線を送られたリディアは、身体を強張らせ、思わず後ずさりをした。
「おい。逃げようなんざ、いい度胸してんじゃねぇか」
「やだっ……来ないで。私はもう使命から逃げたくない」
リディアは顔を背けて、ファルシードを拒絶した。
やっとついた決心を揺らがされ、また夢や希望を見せられることが、何よりも怖かったのだ。
「お前の都合なんざ知らねェよ」
ファルシードは、青い顔をして震えるリディアに一歩ずつ近づいてくる。
「貴様、巫女に何をするつもりなのだ!?」
ファルシードは、慌てた様子のエドガー司祭を苛ついたような瞳で睨みつけた。
「そりゃこっちのセリフだろうが。狂った女がようやくマトモになってきたってのに」
「まともだと? ハーシェルを悪魔に変えたのは、貴様か……!」
「これは、話が通じそうにねェな」
ファルシードは息を吐き、胸元から小型のナイフを取りだした。
不思議なことに、柄どころか、刃までもが闇のように黒い。
そんなものを取り出して、どうするつもりなのか。
それを考える間もなく、ファルシードは鋭い目で司祭を見据え、流れるように速く手を動かした。
「ぐぅあああッ!」
鈍い音と共に呻き声が響く。
やがて司祭は崩れるように倒れこみ、身体を縮こまらせた。
彼の左大腿にはナイフが刺さっており、痛みのあまりのたうちまわっている。
磨かれた白い床には、深紅の血だまりがじわじわと広がっていき、血の臭いが微かに漂いはじめた。
「……うるせェなァ。アイツと同じ目に遭ってるってだけじゃねぇか。こんなのは見世物なんだろ? せいぜい楽しめよ」
くつくつとファルシードは笑い、二本目のナイフを取り出していく。
ヒッ、と小さく唸る司祭を見下ろすファルシードの瞳が恐ろしく、リディアは思わず身震いした。
「ファル、こんなのやめてよ! 私は司祭様の元に残るって言ってるじゃない!!」
絶望と希望、諦めと執着……相反するような感情の渦に巻き込まれているリディアを、ファルシードはまっすぐに見つめてくる。
弱さを見透かされた気持ちになったリディアは、小さく震えて慌てて視線をそらした。
「やっと覚悟を決めたのに。全部を諦めようと思えたのに。どうして放っておいてくれないの……」
※大神皇という言葉も造語です。理由は前話と同様です。