ハフラムの丘
――よかった、バレてないみたい。
リディアは、ほっと胸を撫でおろした。
しつこいくらいに“船から出るな”と言われていたのにも関わらず、外に出てしまったことが後ろめたかったのだ。
やがて、ビルとリディアの二人は細い路地を抜けて花咲く坂道をのぼり、大きな広場へとたどり着いた。
芝に似た草が一面に広がり、奥には三角屋根の小さな建物がある。
屋根の頂点には雪の結晶に似た真っ白なシンボルが掲げられていた。
「あのシンボル、ネラ教会の聖拝堂……」
「ここが、ハフラムの丘。あの聖拝堂には、リディ姐一人で来いと言われてる」
リディアは怖れのあまり、漆黒のローブを強く握る。
決められた結婚を前に逃げ出し、禁忌をいくつも破り続けたリディアを、ネラ教会が許すはずなどないからだ。
「リディ姐、俺はこのあと聖拝堂の外に隠れる。司祭がレヴィの居場所を吐き次第、すぐに助けに行くから。怖いだろうけど、ここで待っていてくれ」
ビルはリディアの肩を強い力でつかんでくる。
鬼気迫る表情から、彼の決意がひしひしと伝わってくるように感じた。
「……わかりました」
リディアはうなずき、震える足を奮い立たせ、ビルと共に聖拝堂へと向かった。
「あっちの方で待っていてくれ」
ビルは重厚な扉を開けて、聖拝堂の奥を指し示してくる。
中には木でつくられた長椅子が左右に置かれ、前後に十列ほど連なっていた。
「ビルさん、信じていますから」
「リディ姐……巻き込んで、ごめんな」
リディアが精一杯の笑顔を作ると、ビルは不安げな表情を見せ、震える手で聖拝堂の扉を閉めていった。
途端、辺りはしんと静まり返った。
中はランプの灯りと月明かりだけで照らされて薄暗く、静か過ぎるせいで呼吸音がやけに耳についてしまう。
歩みを進めるごとに、大理石の床とブーツが当たる音が、宙を駆けるように響き渡った。
奥まで行き、ふと顔を上げるとそこには月明かりに照らされて輝く、荘厳なステンドグラスがあった。
描かれていたのは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべるネラ神で、リディアのことを見下ろしてきている。
「どうか、三人とも無事で船に帰れますように」
祈るように呟いたその時、がたりと音が鳴った。
一気に血の気が引いたリディアは瞬時に振り向き、視線を送った。
「こんばんは」
扉が開き、柔らかい声が聞こえる。
聖拝堂に現れたのは、紳士的な雰囲気をまとう、白髪まじりの男だった。
「あなたは……?」
こんな夜更けに、聖拝堂に用がある者などいない。
リディアは男を見つめ、動きを警戒した。
「リディア・ハーシェル様、ですね。探しましたよ。わたくしはエドガー・ケインズ。ネラ教の司祭をしております」
男は柔らかく微笑んで、ゆっくりと歩みを進めてくる。
「し、司祭様……。手紙、私も見ました。ひどいですし、卑怯ですよ! レヴィさんを誘拐するなんて」
リディアはじりじりと後ろに下がりながら、咎めるように言い放つ。
「うーん、誘拐? はてさて。そういうことになっているのかな。わたくし、レヴィさんには一度もお会いしたことはありませんけども」
「なっ……騙したんですね!」
強く睨みつけるが、司祭はにこやかな笑顔を崩さず無言のまま近づいてくる。
「それ以上来ないで、人を呼びます」
ビルに助けを求めようと息を深く吸い込むが、エドガー司祭は面白くて仕方がないとばかりに、高笑いをした。
「呼べるものなら呼んでごらんなさい。金で買われた盗賊という駄犬を、ね」
あまりの衝撃に声を失い、目を見開いた。
リディアは仲間に売られてしまったのだ。
仲間と信じていた相手に裏切られてリディアの心は締め付けられるように痛むが、あまりの悔しさに涙も出てこない。
「ハーシェル様、ひとつ教えてください。アナタはなぜ使命から逃れようとなさるのです? 祈りの巫女の存在意義を、お忘れですか」
その問いかけに、リディアは口を閉ざした。
祈りの巫女の存在意義は、命をなげうって暗黒竜復活を阻止し、世界の破滅を防ぐこと。
理解はしていても、それを言葉にすると未来がその通りになってしまう気がして怖かったのだ。
無言を貫くリディアを見つめてきたエドガー司祭は、ゆったりと歩みを進めてきて、聖拝堂の中心で足を止めた。
しん、と無音の空間が広がり、深く息を吐く音が聞こえてくる。
リディアは恐る恐る顔を上げ、絶句した。
はじめは紳士的に見えていた彼の顔が、今は怒りでだろうか。別人のように歪んでいたのだ。
落雷後のように大気がピリつき、リディアは緊張から息を飲みこんだ。
「答えよ、小娘がッ!」
長く続いた静寂を破ったのは、耳が裂けるほどの怒声だった。
豹変ともいえる彼の変化に、リディアは瞬時に身をすくませた。
エドガー司祭の顔は赤く染まり、こめかみには血管が浮き出ている。
血走った目で睨みつけてくる司祭は、あまりに大きな声を出したせいだろうか。
何度も肩を上下させ、荒い息を続けている。
立ち尽くしていたリディアはやがて、血の気を失い、身体を小刻みに震わせはじめた。
幼い日にハンス司祭から髪を引きずられたトラウマがよみがえり、恐怖に溺れてしまったのだ。
「もしや、盗賊団とかいうイカレた連中に毒されてしまったのですか? でしたら、わたくしが今からそれを正して差し上げましょう」
エドガー司祭はゆったりと息を吐いて、また穏やかな表情へと戻り、柔らかく微笑みかけてくる。
「アナタは“世界を救うためだけに生まれてきた”のです。それ以外の存在意義はありませんし、知識も能力も、友も恋も夢も、アナタにとっては全て不必要で、無意味なものです。その代わり死後はネラ様のもとで――」
「いや……っ!」
リディアは耳を塞ぎ、現実から逃れようと必死に首を横に振った。
「ほとほと呆れますね。一体何が嫌なんです? 歴代の巫女は皆、自らの足で最果ての地へと向かい、喜んで命を捧げ、ネラ様の元へ向かわれましたよ」
耳を塞ぐリディアにも聞こえるように、エドガー司祭は声のボリュームを上げて言ってくる。
異端者だと烙印を押されたリディアは一際大きく震えて、力無く腕を落とした。
「ハーシェルよ、どうしてアナタだけ、使命を全う出来ない? レイラもこんな娘を産むのではなかったと嘆いていることでしょう。実の娘が世界の破滅を目論んでいるのですから」
「おかあさん……私は生きることを、自由を望んでは……いけない、の?」
今にも泣き出してしまいそうな声で呟き、瞳に宿りつつあった希望の光は、徐々に闇へと染まっていく。
間近で心が堕ちていく様子を見ていた司祭は、リディアとは対照的に、満足気な顔で笑んでいたのだった。
※聖拝堂という言葉はありません。特定の宗教とネラ教が重なってしまいそうに思えたので、あえて造語としました。