船乗りの唄
甲板の端に一人取り残されたリディアは、ノクスのもとに向かい、しゃがみこんだ。
「キュル?」
リディアの行動を不思議に思ったのか、ノクスは首をかしげながら水色の瞳をくりくりとさせて、見つめてくる。
その仕草は獰猛なグリフォンなのかと疑ってしまうほどだ。
リディアはノクスの頬を両手で挟むようにつかみ、真剣な表情でじっと見つめた。
「ねぇ、ノクス。あなたの主人は何かを隠してる。でも、一体何を隠しているの?」
ノクスにこんなことを聞いても仕方ないというのは、リディア自身もわかっていた。
だが“身の安全を守ってくれているファルシードに、恩返しをしたい”という想いを抑えられなかったのだ。
食堂でのことにしても、ファルシードとカルロの間に何があったかわからなかったが、カルロと同様にリディアもファルシードに恩義を感じていたからこそ、“厄介者がられても恩を返したい”という気持ちが、痛いほどわかった。
「キュルル……」
ノクスは寂しげに鳴き、頬をそっとリディアに擦りつけてくる。
何度も繰り返すその動きはまるで、リディアを慰めようとしているかのようだ。
「ノクス、無理言ってごめんね。ありがとう」
ふかふかの羽毛へ顔をうずめていくと、遠くから明るい声が聞こえた。
「おーい、リディア! そんなとこいないでさ、こっちで一緒に歌おうぜ」
リディアが顔を上げていくと、ニカッと笑い、大きく手を振るバドが見えた。
――・――・――・――・――・――・――
「こっちこっち!」
「バド君、ごめん。一緒に歌いたいのはやまやまなんだけど、歌詞知らないんだ」
バドのもとにたどり着いて困り顔で言うと、彼は心配ないと笑った。
「そんなの歌ってるうちに覚えちゃうって! この歌、すげー簡単だし」
グッと親指を立てるバドを見て、ひげの生えたむさくるしい男が豪快に笑う。
「いやいやバドさん。不倫の歌をこんなピュアそうな女の子に歌わせるのはいけねェよ」
不倫の歌、という言葉が聞き捨てならず、リディアはぴくりと耳を動かした。
先程の歌は、航海の無事を祈る歌だったはずだと、混乱していると、バドが呆れたようにこう言った。
「違うって! そんなドロドロした歌じゃないんだぜ、これはよォ」
リディアはコクコクとうなずいて同意を示していくが、次に続いたバドの言葉は予想外のものだった。
「これはな、酒を愉快に飲んで飲んで飲みまくろう! って歌なんだよ。確か昔、キャプテンとそんな話したように思うんだよな。キャプテンから広まった歌なんだから、キャプテンの言ったことが正しいだろ?」
「いや、俺は“故郷の母を思う歌だ”と、キャプテンから聞いたように思うんだが」
今度はケヴィンがそう言い、それに対して他の団員たちは「シチューのレシピの歌」だの「初恋の歌」だの、それぞれの解釈を声高に語りはじめた。
「あの……航海の無事を願う歌じゃないんですか?」
リディアが尋ねていくと、騒がしかった甲板は途端に静かになっていき、団員たちは一斉に口を開いた。
「そんなわけねぇよ」
錨上げ担当者全員の声が見事に重なる。
あまりに堂々とした物言いに、リディアはたじたじとしてしまった。
「とこかく、ここでだべってばかりいたら、団長に叱られる。仕事に集中しよう」
ケヴィンがぴしゃりと言い放つ。
バドは床に置いたバンドネオンを手にとりながら、明るく笑った。
「うんうん、ケヴィンの言うとおり。ま、楽しく錨が上げられりゃ中身はなんだっていいや」
「違いねェ」
声を上げて笑う団員たちの中で、リディアだけが一人浮かない顔でその様子を見つめていた。
――歌の意味なんざ、船に乗る者なら誰でも知っている
リディアの頭の中で、幾度もファルシードの言葉が廻る。
そもそも古代言語の使用は禁止されていて、船で聞けるはずがないのだ。
それなのに、なぜここではあの歌が歌われているのだろうか。
さらには、バドのいう“キャプテンから広まった”という言葉も気にかかり、リディアは口元に手をあてて考えていった。
やっぱりファルは重大な何かを抱えていて、それを隠してる――
そこまではわかっても、リディアは“それが何か”を本人から聞きだすことは不可能だと言うことは肌で感じていた。
時折ふと見せるどこか物憂げな表情と、ノクスの様子、カルロに対してのファルシードの苛立ちから察するに……つまりは、偽りの彼女という名の他人が踏み入れないような領域の話なのだろう、と。
その後も団員たちはリディアの憂いに気づくことはなく、愉快に歌いながらロープの巻き上げを続けていく。
錨が完全に上がったのは、巻き上げを始めてから一時間も後のことだった。