眠れない夜
「ファル、寝ないの?」
泣き出しそうな心を抑えて、リディアは静かに問いかける。
すると、ファルシードは勢いをつけて身体を起こし、ソファに腰かけた。
「雨が煩くて眠れねェ」
「同じだね、私も」
ランタンの明かりに照らされたリディアの笑顔は、どこかぎこちない。
ファルシードの邪魔にならないようと、リディアは端を通り、廊下に出る扉へと向かい始めた。
「ああ、便所か」
呟くように言ってきたファルシードに、リディアは口元を曲げて、小さく息を吐いた。
「違うよ。水を飲みに行こうと思っただけ」
相変わらずデリカシーのない人だなと、あきれ果てながらドアノブを握る。
すると、後ろから声が聞こえた。
「待て、水ならここにある。夜は船内をうろつかないほうがいい」
振り返ったリディアは、彼の思いもよらぬ行動に目を丸くした。
棚からビンを取りだし、差し出してきたのだ。
驚きのあまり礼を言うのも忘れて、無言のままそれを受け取った。
仮初めの恋人という関係であるし、他人の目がない時までも心配をしてくれるなど、考えもしなかったのだ。
「あ! そうだ。えぇと、ありがとう」
はっと我に返ったリディアが礼を言うと、ファルシードは、はたと何かを思いついたような顔をし、妖しく笑う。
「もし眠れねェんなら、そこで寝ていくか」
ベッドを指し示したファルシードの提案を受け、しばしリディアは考えこむ。
やがて、顔を上げたリディアは明るい表情を浮かべた。
「なるほど。ベッドを変えたら眠れるかもね。交換してみる?」
「……お子様の世間知らずにも、ほどがある」
「どういうこと?」
頭を抱えたファルシードに首をかしげるが、彼は答えを言おうとはせずに、無言のまま棚へと向かった。
引き出しの中を漁りだしたファルシードは何かを取り出し、リディアに向かって下から放り投げてきた。
高い放物線を描いてリディアの手元へ落下してきたそれは、麻で出来た小さな袋だ。
中を開けると、乾燥した花びらのようなものがぎっしりと入っており、柔らかな香りが広がった。
「お前に、やる」
「これ、何?」
「さぁ? 心配性のジィサンが、定期的に押し付けてくる。よく眠れるようになるんだと」
袋から溢れてくる香りは優しくて心地よく、確かに良く眠れそうだ。
だが、ファルシードも眠れないと言っていなかっただろうか、と思い返す。
「それだったら、ファルが使った方が……」
「俺にはそんなの気休めでしかねぇよ。だから、やる」
気休めでしかなく、効果がないと言われたものをもらったところで、眠りにつけるかどうかは怪しいんだけど――と、リディアがじっと香り袋を見つめていると、ため息が聞こえた。
「眠れねェ夜ほど嫌なもんはねぇな。考えたくもないことばかり頭に浮かぶ」
「え?」
めずらしく弱気ともとれる彼の言葉に驚いて、リディアは顔を上げた。
「それ持って、とっとと寝ろ」
「あ、ええと、ありがとう」
リディアはポケットの中にそれをしまっていき、彼の横顔に視線を送る。
ぼんやりとした目で、雨が叩きつけている窓を見ているファルシード。
彼がいま何を考えているのかリディアには全くと言っていいほどにわからない。
ただ、直感的に“触れてはならない何かがある”ということだけは感じとれてしまい、かける言葉が見当たらなくなってしまった。
「おい……いつまでいるつもりだ。とっとと寝ろ、明日は朝メシ作るんだろうが」
ファルシードは読みかけの本をまた手に取っていく。
すでに弱気な様子は見られず、普段と同じような張り詰めた空気をまとっていた。
「そうだね、ごめん、もう帰るよ。明日は今日のお礼も兼ねて、とっておきのを作るから楽しみにしててね」
扉の前で振り返って微笑むと、ファルシードは、ふんと鼻で笑っていた。
――・――・――・――・――・――・――
部屋に戻ったリディアは鍵を閉め、もらった水を一杯飲み干していく。
乾いた心と身体に、水分が満ちていく感覚がした。
ベッドへ横になったリディアは香り袋を取り出して、それを握ったまま、まぶたを閉じた。
遠い土地で咲く花なのだろうか。
袋を揉むように触ると、ほのかに甘い香りがあたりに広がる。
次第に身体の強張りもほどけて、呼吸もゆったりと落ち着きはじめ、やがて、うるさいほどの雨音も気にならなくなっていた。
夜も誰かがそばにいるっていいな。こんなふうに心がざわついたら、一晩中泣き明かしていたのに。今日は……不思議とまた眠れそう――
徐々にリディアの呼吸は静かに深くなっていく。
いつの間にか眠りについていたリディアは、安心したような表情を浮かべていたのだった。