終わりとはじまり
一つだけお願いがあるの。これからするのは大事な話、泣かないで聞いて、ね。
十年前、そう言ってきたのはリディアの母だった。
死が間近に迫っていたのに、柔らく穏やかで、それでいて芯のある声だったと、リディアは思い返していく。
暗闇の中、雨音と共に記憶がよみがえってきたリディアは、壁を背にして座り込む。
やがて、苦しげな表情を浮かべ、古ぼけた木の床へと視線を落としていったのだった。
――・――・――・――・――・――
「あのね、おかあさんはこれから、最果ての地に行かなきゃいけないの」
十年前のあの日、リディアの母レイラは、リディアに目線の高さを合わせて言ってきた。
「何しに行くの?」
降りはじめた雨音が響く部屋で、幼いリディアは小鳥のように首をかしげる。
その頃はまだ、自分の役割も運命も、よく理解できていなかったのだ。
素朴な問いにレイラは悲しげに微笑み、口を開いた。
「世界を救うため……ネラ様に命をあげに行くの」
残酷すぎる返答に、リディアは声も出せないまま固まった。
そうなってしまうのも無理はない。
年端もいかない子どもが受け止められるような話ではないだろう。
「それって、死んじゃうってことなの!? そんなの絶対にダメ!」
「リディア、さっきのおやくそく。泣かないで、ちゃんと聞いて」
レイラにすがりついたリディアは母の言葉に鼻をすすって、必死に涙をこらえていく。
“いい子ね”と、レイラはリディアの鼻水をハンカチでぬぐい、口を開いた。
「これは宿命だから、仕方のないことなの。おかあさんのおとうさんも神の使いとして、二十年ほど前にそうした。そのまた上のご先祖様も、よ。ハーシェル家はずっとずっとそうやって、この世界を守ってきたの」
「なんで、どうして私たちだけそんな目にあうの……?」
震えた声でリディアが尋ねると、レイラは自身のシャツのボタンをはずして前身ごろを引っ張り、左の胸元をのぞかせていく。
「リディア、これを見てちょうだい」
言われるがまま豊かな胸を覗き込むと、そこには白く滑らかな肌と、緑色の模様があった。
刺青とは違うそれは、なぜか自ら淡く光を放っている。
「羽と風……? 緑色にキラキラしてる」
模様は鳥の羽と風をモチーフに描かれているようで、美しい形をしていた。
「これが祈りの巫女、つまり魔力を持つ者の証。暗黒竜の封印継続を唯一果たすことができる、選ばれた者の証なの」
「私にはないよ。なんでだろう」
「これから、おかあさんが最果ての地でお役目を果たしたら、ちゃんとあなたの胸にも浮かぶはずよ」
『お役目を果たす』という言葉にリディアは全身を強張らせた。
「嫌だ! 私そんなのいらない!」
ずっと堪えていたリディアだったが、心はとうに限界を超えていた。
ついには声をあげて泣き出してしまい、そんなリディアをレイラは抱き寄せ、力強く抱きしめてくる。
「あのね、リディア。あなたにだけは本当のことを話すけれど、おかあさんは世界を救いになんか行くわけじゃない」
「じゃあ、なんで行くの……?」
「リディアの未来を守りたいから、行くの。心配しなくても大丈夫。おかあさんはここにいる。風の証と一緒に、ずっとあなたのそばに」
「私の……そばに?」
「そうよ。だから、寂しくても、苦しくても、強く生き抜いて。生きてさえいれば、いつかきっと、素敵なことがいっぱいあるはずだから」
いま感じている確かな温もりを離さないように、母娘は何度も何度も力を込めて互いの身体を抱きしめる。
別れの時間など、このまま来なければいい。
そんな二人の想いを引き裂くかのようにノックの音が響き、男の声が聞こえて来た。
「レイラ様、いらっしゃいますね。お迎えに参りました」
「はい」
レイラは堂々とした声で答え、凛とした表情で立ち上がった。
「いやだ、行かないでよ!」
必死に掴むリディアの手をそっと離してきたレイラは、まっすぐ歩み、玄関へと向かう。
扉の向こうは、ザァザァと激しい雨が降っていた。
レイラの後ろ姿は、いつも台所に立っていた姿とは違い、どこか神々しく、遠い存在の人にリディアには見えた。
「リディア、またね」
庭へ出たレイラは振り返り、真っ黒な傘の下で笑った。
悲しみの感情も、苦しみの言葉もなく、ただただ優しく穏やかに。
「ねぇ、お願い……行かないで。行かないでよ、ねぇ! おかあさぁぁぁぁん」
引き留める声に効果はなく、無情にもドアはぱたんと音をたてて閉まり、リディアはその場で崩れ落ちていく。
泣き叫ぶ声は激しい雨音にかき消され、誰かが助けに来る気配もないまま、時が過ぎていった。
――・――・――・――・――・――・――
ああ。あの後どれほど泣いただろう。
数日後、左胸に風の証がうつり、おかあさんがこの世からいなくなってしまったことを知った。
何度も泣いて、涙も声も枯れて、孤独に疲れて……
それでも私は『生き抜いて』という言葉だけを頼りに、生きてきた。
ねぇ、おかあさん。ちゃんと生き抜いたら、私も最期、おかあさんみたいに笑える?
いつの日か、こんな孤独で理不尽な世界を、生き抜いてよかったって、思えるのかな――――
亡き母を想いながら、淡く光る証にそっと触れ、祈りを捧げるかのように目を閉じる。
このまま眠れる気がしなかったリディアは、ランタンを手にとって立ちあがった。
隣の部屋で眠るファルシードを起こさないようにそっと扉を開けていくと、なぜか淡い光が視界に広がり、眠っているはずのファルシードと視線が重なる。
「ん、どうした?」
ソファで横になりながら本を読むファルシードの顔を見た途端、リディアはなぜだかほっとしてしまい、不思議なことに泣き出しそうになってしまったのだった。