迫りくる夜に
「おい。なに階段で突っ立ってる」
「へ?」
「さっさと来い。高所恐怖症じゃねェだろ。断崖絶壁から落ちても平気そうだったしな」
「あ、あのときはそれどころじゃ……」
慌てて反論するが、ファルシードはそれを聞こうともせず、あごをくいと動かしリディアを呼んでくる。
犬じゃないんだから、とリディアはムッと口元を曲げた。
どうせ文句を言ったところで、何の効果もない、か――
小さく息を吐いて指示に従い、見張り台へとのぼっていった。
不平を口にしない代わりに、リディアはむくれた顔を続けている。
祈りの巫女の名で呼ばれる者とはとても思えない形相だ。
しかし、ファルシードの隣に立ち、彼の視線の先を見つめた途端、そんな表情は一変した。
「夕、焼け……」
ペリドットに似た緑の瞳には、燃えるような夕陽の欠片が写りこんでいる。
トラウマからリディアは顔を強ばらせて、すぐに視線を背けた。
「……過去から逃げるな。前を見ろ」
ファルシードの低い声が、頭の上から降ってくる。
「え?」
不思議に思ったリディアが面を上げると、ファルシードはリディアのことを、まっすぐに見つめてきていた。
「フライハイトとは、自由を意味する。船にいたいのなら、誰よりも自由に、強く生き抜く覚悟を決めろ」
そう話す声は凛としていて、真剣な表情に釘付けになってしまう。
芯の強さからだろうか、それとも単に顔立ちの良さからか。
理由はわからなかったが、リディアにはあのファルシードが気高く美しい人に見えた。
だがその一方で“自由に生きる覚悟を”と言われても抽象的すぎると、頭を悩ませていく。
これまで自由を知らず、不自由を強要されて生きてきたのだ。
突然、そんなことを言われて困惑するのも無理はない。
リディアはうつむき、立ち尽くす。
覚悟の決め方はわからなかったが、ファルシードの主張、それだけは伝わってきたように感じた。
これまでの言動から察するに、恐らく『過去に縛られるのも、恐怖から逃げるのも、思考を捨てて誰かのいいなりになるのもやめろ』ということなのだろう。
もしも、と、リディアは静かにこぶしを握る。
――短い間だけだとしても、自由になれたなら。普通になれたなら。私は、この世に生まれてよかったと、そう思えるのかな。
恐る恐る一歩前に出て、震える手で手すりを掴み、前を見据えた。
四方八方海が広がっており、遮るものは何もない。
ゆるやかにカーブを描く水平線には、沈む太陽がわずかに頭を覗かせていた。
――大丈夫、ここにハンス司祭はいない。いいつけを破ったって、何も起こらないんだから。
言い聞かせるように深い呼吸を繰り返すことで、震えは次第に収まっていき、やがて感嘆の吐息が漏れ出した。
「……夕陽って、本当は綺麗だったんだね。すごく暖かい色」
独り言のように呟く。
沈み行く太陽を見て美しいと思えたのは、はじめて夕陽を見たあの日以来のことだった。
「ああ。しかも、ここからの眺めが一番いい」
ファルシードも同じように返してくる。
海に飲まれる太陽を二人は無言のまま見つめる。
そして、その時はすぐに訪れた。
「夜が、来る」
リディアは残った淡い光を見つめながら、見張り台の手すりをぎゅっと握る。
恐怖と歓喜が混じり合う複雑な感情に、全身がわずかに震えた。
橙に染まっていた空がだんだんと藍色に包まれ、やがてそれも色濃くなり、静かな闇が訪れる。
今度は暗い空を彩るかのごとく、一つ、また一つと小さな光が現れはじめ、闇が深くなるごとに、きらきらと無数の星が光り輝いていった。
「これが、夜……」
息をのみ、呟く。
リディアにとって、はじめて見た星は、太陽よりも輝いていて眩しく、星を掴もうとする子どものように、両手を空へと伸ばしていった。
これまでずっと、夜とは一人で堪え忍ぶ、つらいものでしかなかった。
人に会うことを許されず、闇の中で不安という波にさらわれ、泣き明かしたことも、数えきれないほどあった。
孤独を噛み締め、ただ静かに苦しむための時間。
そんな夜は、リディアにとって不自由の象徴でしかなかったのだ。
だが、新たな世界を目の当たりにして、リディアの心はただただ歓喜で震えていた。
――あれほど恐れていた夜は、こんなにも美しい姿をしていた。
リディアは言葉を無くしたまま、夜空を見上げる。
やがて、ほほを伝って一すじの雫がこぼれ落ちた。
「すごいね、ファル。ありがとう、私こんな景色、見たことないよ」
涙をぬぐった途端、ファルシードはなぜかリディアの肩を乱暴につかんできて、向かい合わせにさせてくる。
「え?」
「夜に人と会うな、だったか? ほら見ろ、禁忌なんざ意味がねぇ」
彼はリディアの胸元を覗き込んできて、何ら変わりがない巫女の証を見てにやりと笑った。
「ちょっと何するの!? 言ってくれれば、確認くらい自分でするから!」
それに、証に何かが起こるとは限らないでしょうが――と、慌てて距離をとったリディアは、むくれた顔で睨みつける。
そんな顔されたって、怖くもなんともない。
そう言っているかのように、ファルシードは不敵な笑みを崩さない。
「禁忌なんざに縛られず、ここで生きてみろ。お前は世界の姿を知らなすぎる」
「そう、かもしれないね。夜の空だけじゃなくて、まだまだ私の知らないこと、たくさんあるんだろうから」
リディアは隣にいるファルシードを見上げて、柔らかく笑う。
こうやって心から笑えたのは何年ぶりだろうかと、また照れたような顔で笑った。
一方でファルシードからは何も反応がない。
見張り台は薄暗いため、表情もよくわからない。
ただ、紫の瞳が静かに光り、リディアの姿にとらわれているかのように、まっすぐ見つめてきていた。
「あの、ファル?」
ぼんやりとしたファルシードに戸惑い、彼の顔をのぞきこむ。
すると、我に返ったのか、彼は身体を震わせ、リディアへと手を伸ばしてきた。
乱暴な盗賊の、普段とは違う瞳に困惑し、鼓動が大きく跳ねる。
今までにない感覚が怖くてうつむくと、頭に手が触れてきた。
――急に、どうしたんだろう……
リディアが固まったまま動けずにいると、ファルシードは一瞬だけ髪を掬うように触れてきたのだが、すぐにぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわしてきた。
「わ、ちょっと、何するの。もう!」
「ぼさっとすんな、さっさとメシ食いに行くぞ」
リディアの抵抗も虚しく、さらさらだった髪は鳥の巣のように乱れてしまっていた。
むっとしながら髪を直すリディア。
そんな彼女を見つめていたファルシードは、不思議と満足そうに笑っていたのだった。