定められた運命と自由の船
「夫候補が決まりました。ガスリー男爵の次男です」
それを伝えられたのは、五年近く前のこと。
リディアが十三歳になったばかりの頃だった。
「さ、こちらに拇印を」
あの日、老齢の司祭は突き出すように書類を渡してきて、リディアはそれにじっと目を凝らした。
穴が空くほど見たところで、内容などわかりはしない。
“祈りの巫女”と民から崇められて学習の機会を奪われたリディアには、婚約を誓う文などただの模様にしか見えなかったのだ。
はらりと亜麻色の髪が垂れ落ち、ペリドットに似た黄緑の瞳が不安げに揺らぐ。
「あの……婚約者さんは、どんな方なのでしょうか……?」
消え入りそうな声で尋ねたリディアに、司祭はにこりと柔らかな笑顔を浮かべた。
「信心深くて、とても良い方ですよ。ガスリー男爵もピート殿も、この婚約を大層お喜びでした」
その言葉に安堵したリディアはナイフで指の腹を切り、書類の端に血判を押した。
――つらいことばっかりだったけど、きっと大丈夫。未来の夫は“私”を見てくれるはずだから。
そんな思いとは裏腹に、リディアの親指は警告を発するかのごとく、ヒリヒリと痛み続けていた。
――・――・――・――・――・――
あれから五年。
幼かったリディアも成長し、見目好い娘となった。
だが、地味なスカーフにだぼっとした上着、レンガ色のロングスカートというあか抜けない服装のせいか、その姿は野暮ったく、明日十八歳になる者とは思えないほど幼く見える。
実際、誕生日を祝う者がいないこともあり、リディア本人でさえ自分の年齢を低く見積もっていた。
“結婚の日”を迎えるまであと一年以上はあるだろう。
そう思っていたのだ。
今日もまたいつものように買い物を終えたリディアが帰路につくと珍しく、お伴を連れた司祭が家の庭でたたずんでいた。
「ハンス司祭様、なにかご用でしょうか……?」
二人の元へと駆け寄ったリディアは不安げな表情で微笑む。
この司祭は毎度、ろくな知らせしかよこさないのだ。
そんなリディアの心配などお構いなしに、司祭は子どものように明るい笑顔を向けてきた。
「リディア、ようやく明日は十八歳の誕生日。ハーシェル家とガスリー家が結ばれる日になるのです!」
途端、リディアは目を見開き、か細い指から籐のバスケットがするりと滑り落ちる。
好物のクランベリーロールが砂まみれになっているというのに、リディアは固まったまま。
ただでさえ色白の顔面は病的なほど白さを増し、いまにも気を失いそうになっていた。
それもそのはず。
四年前、偶然町で見かけた婚約者は『とても良い方』という事前情報から大きく異なっていて、怯える使用人に容赦なく暴力を振るい、口汚く罵るような人物だったのだ。
ハンス司祭は無言のままのリディアを気に留める様子もなく、隣に立つ部下から金色の封筒を受け取り、得意気に咳払いをした。
「では早速、教会本部からの手紙を代読いたしますね。ネラ教会より“祈りの巫女”リディア・ハーシェルに第一の使命を果たすことを命ずる。ピート・ガスリーの元に嫁ぐべし。なお、迎えは明日の十時に来るものとする。そして……」
朗々と司祭は手紙を読み上げるが、リディアの耳には何一つとして内容が入って来ない。
大きな黃緑色の瞳はおろおろと動いて焦点さえ合わなくなっており、呼吸も浅く、荒くなっていた。
そんなリディアをよそに、司祭はネラ教会のペンダントを握りしめ、恍惚とした様子でまぶたを閉じた。
「ああ、本当に貴女様が羨ましい。ネラ様にお仕えできる選ばれし家系は多くありません。私も巫女の家に生まれたかった……」
その言葉に、彼の部下も大きくうなずいて微笑む。
「ええ。生まれながらにして栄誉ある使命を授かれるなど、これ以上の幸せはないことでしょう」
「ありが、とうございます……」
二人から羨望の眼差しを浴びたリディアは、ロングスカートを握り締め、いまにも泣き出しそうな顔で笑った。
「さ、そろそろお家の中にお入りなさい。明日はとても大切な一日になるのですから」
ハンス司祭は封筒を手渡してきて、部下と共に去っていく。
海沿い特有の湿った風が吹き付けて、庭のひまわりがざわめくように揺れる。
不安げに縮こまったリディアは、夕焼けを目にした途端、逃げるようにして家の中へと入っていった。
――・――・――・――・――・――
黄昏色と闇とが混じり合う部屋の中、リディアは椅子に腰かけて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「これ、私の名前かな……?」
自嘲気味に笑い、封筒の宛名をそっと撫でていく。
“祈りの巫女”が文字を知ること、それはネラ教会の“法”に抵触する行為である。
そのせいで、幼い子どもですら字の読み書きができるのにもかかわらず、リディアは本どころか、自分の名前でさえ読むことができずにいたのだ。
封筒を覗きこむと、先ほど司祭が読みあげた真っ白な紙が一枚だけ入っている。
そこには、十行ほどにわたる文章が模様のごとく整った字で書かれていた。
――どうしよう。せっかく読んでもらったのに、さっきの内容、ほとんど覚えてないや。
深くため息をついて、他人事のように笑う。
だが、詳しい内容は覚えていなくても、一つだけはっきりしていることがある。
それは“祈りの巫女”と呼ばれるリディアが明日、ネラ教会が決めた婚約者の元へ嫁ぎ、第二、第三の使命を果たさなければならないということだ。
――あんな暴力的な人に嫁いで、好きでもないのに身体を許して子どもを産んで。その後は……
リディアは視線を落とし、下唇をぎりと噛みしめた。
ふと思い出した光景は、降りしきる雨の中、大好きな母親が黒い傘の下で最期に見せてきた笑顔。
「お母さん、どうして私たちばかりがこんな目に遭うの……?」
リディアは机に突っ伏し、長い亜麻色の髪がはらはらと垂れ落ちる。
迫り来る闇を恐れて手紙を握るその様は、溺れる者が何かを掴もうとするしぐさによく似ていた。
――・――・――・――・――・――・――・――
一方、リディアの住むミディ町のクルーク港では、穏やかな光景が広がっていた。
賑わっていた港も夜が近付いて閑散としており、辺りは一面茜色に染まりあがっている。
やがて、踊るように飛んでいた海鳥たちも、一羽、また一羽と羽を休ませていき、規則的な波の音だけが残った。
そこに向かって来る一隻の船がある。
無数に帆が張られた大型の船で、海面ににじむ夕陽の橋を渡っているかのように、悠々と進んでいる。
船はじきに入港を終え、船員たちは喜びと安堵の表情を浮かべながら、手際良く上陸の準備をはじめた。
慌ただしく船員たちが行き交う甲板で、一際軽快に響く足音がある。
鼻唄交じりのそれは、船首甲板にたどり着いたときぴたりと止んだ。
「ひゃー、デケェ町は久々だ!」
茶髪の若い男が、待ちきれないとばかりに身を乗りだして笑う。
少年にも見える彼が視線を下に移すと、すでに上陸の準備は整っていたようで、黒髪の男と鷲獅子が、船から降りていくのが見えた。
「あれ、キャプテン。それにノクスも。どこ行くんスか? 女漁り?」
「バド、お前と一緒にすんじゃねェよ。俺は町へメシを食いに、ノクスは森で狩りだ。コイツ連れて町なんざ行ったら、大騒ぎになるだろうが」
珍しい紫の瞳を持った彼の名は、ファルシード・クロウ。
端正な顔立ちをしているのに、目つきが鋭いせいか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
そんな彼のことを部下たちは尊敬の意味をこめて『キャプテン』と呼んでいた。
「ま、確かにグリフォンは凶暴なモンスターで知られてますからねぇ」
自分のことを話されているのがわかるのだろうか。
鷲の翼と上半身、ライオンの下半身を持つグリフォンのノクスは首をかしげ、キュルルとのどを鳴らしている。
その仕草はモンスターというより最早ネコで、轟空獣とも呼ばれるグリフォンの二つ名もがっかりなほど、凶暴さの欠片も見られない。
「ねぇねぇキャプテン、メシだけなら俺も行くッス! ちょっとだけ待っててくださいよーっ」
バドは言い終えるよりも早く船首甲板から駆け出して下船し、ノクスを挟んだファルシードの左隣へと位置どった。
「勝手にしろ。だが、メシだけならって、どういうことだ」
問いかけるファルシードに、バドは前歯を見せてにししと笑う。
「女漁りだったら、キャプテンに全部盗られちゃうでしょ。だからついて行くのはメシだけなんス」
男二人とグリフォンは歩きだし、無数に灯る明かりの方へと向かっていく。
「あ、そういやこの噂知ってます? この町には、すっげぇお宝が眠ってるらしいっスよ」
「どうせ、ジィサンの戯言だろう。いままでそれで、一度でも財宝があったかよ」
目を輝かせて興奮するバドとは対照的に、ファルシードはうんざりだとでも言うように息を吐いた。
「いや~、それ言われると痛い! けど、今回のは確実にあるんだって団長言ってたんで」
食い下がるバドの言葉は、ファルシードに響かないままだ。
彼は表情を変えることもなく、かがみこんでノクスの喉元を優しく掻いている。
「財宝なんざ興味はねぇよ。俺はアイツを引きずり下ろせればそれでいい。お前もそうだろ、なぁ?」
心地よさそうにしているグリフォンは主人を見上げ、同意を示すかのように鳴いた。
「さ、行って来い」
羽でおおわれた肩をファルシードが叩くのと同時にノクスは羽ばたき、森の闇に溶けていく。
ファルシードの横顔に視線を送ったバドは、小さく息を吐いて呆れたように笑った。
「財宝に興味ないとか、盗賊団の二番手のくせして何言ってるんスか、もう」