真意
「――ッ!」
色気溢れる声に、リディアの心臓は跳ねるように脈を打つ。
不安と恐れとで身体は強張り、じりじりと後ずさるように距離をとった。
「その反応、生娘、か」
「い、いいいいきなり何なんですか!」
鼻で笑ってくるファルシードに、リディアは大声で反論していく。
動揺から、ペリドット色の瞳は涙で滲んでしまっていた。
――前言撤回! 許婚よりもずいぶんマシと思ったけど、絶対にそんなことない!
こんな不誠実な男なら、どっちもどっちだ、とリディアはファルシードを強く睨みつける。
だが、一切効果はなかったようで、小馬鹿にするように笑われた。
「安心しろ、イモ女を食うほど飢えてねェよ。俺は、な」
「い、イモ女……?」
あまりの言われように、開いた口が塞がらない。
地味なのは、確かに自覚していた。
だが、イモとまで言われてしまうと、さすがに複雑な気持ちになったのだ。
リディアはからかわれた疲労感と安堵から、小さく息をついた。
――なんだか腹立つけど、結局冗談でよかった。危険な目に遭わなくてよかった。
色めいた雰囲気が消えたファルシードを見つめ、リディアの心は緩む。
しかしその一方で、胸の奥底が静かに淀んだ。
本当にこれを喜んでいいの――と。
もしもこれが冗談ではなかったら、リディアは今頃なぶりものにされていたかもしれない。
それに、彼は興味がなくとも、他の団員が彼女をどう思うかなど、わからない。
交際や彼への恋心が嘘だと見破られれば、その時点で団員たちに襲われる可能性だってあるのだ。
「あの、ファルシードさん。私は……」
リディアが口を開くと、ファルシードは続きを待たずに言葉をかぶせてきた。
「食われたくねぇのなら、演技に徹しろ。あのジィサンに頭まで下げさせたんだ。出来ねェとは言うなよ」
「演技、って、どうしたら」
質問を投げかけた途端強く睨まれて、リディアはうつむく。
自分で考えろ、と突き放されているような気持ちになったのだ。
静寂が訪れ、海鳥の声だけが微かに聞こえてくる。
落ち込むリディアに呆れたのか、ファルシードは深いため息をついてきた。
「他人行儀な言葉や態度をやめろ。俺のことも呼び捨てか、ファルと呼べ」
「ええと、うん。わか、った。ファル……」
指導を受けたにも関わらず、話す言葉はぎこちない。
うまくできない自分を情けなく思い、下唇を噛んで視線を落とした。
「……勝手にしろ」
呆れたようなファルシードの態度が悔しくて、リディアは自身のスカートを強く握った。
だが、リディアにも言葉づかいを簡単に変えられない理由があるのだ。
「ごめん……私、友だち一人もいなくて。普通に話すのって、難しい、の。友だちできないのは、おかしいってわかってるんだけど、ね」
リディアはうつむいたまま、自嘲気味に笑う。
祈りの巫女として生きてきたリディアは、物ごころついた時からずっと、周りから一線をひかれていた。
向けられる視線はいつも、崇拝か監視のどちらか。
『祈りの巫女』以外の名で呼ばれることもほぼなく、気安く話しかけられることもない。
さらには、怪我をさせてはならないという理由から、遊びや行事にも一切参加させてもらえなかったのだ。
そんなリディアの過去の話に、ファルシードは眉を寄せてくる。
「だからどうした。できない理由を言って何になる」
ファルシードは同情する様子もなく、リディアを突き放してくる。
厳しい言葉は甘えを許してくれず苦しめてくる一方で、なぜか胸にすとんと落ちたようにも感じた。
これまでリディアはできない理由を探しては諦める、ということを繰り返し続けていた。
自分には無理だと納得すれば、心を乱さずにいられたし、無力を受け入れる方が抗うよりも、よほど楽だったのだ。
――そっか。私はいつも、できない自分を悔しく思いながら、ずっとそれに甘えていたんだ。
得心がいったリディアは顔を上げて、ファルシードの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「うん、確かにできない理由を並べていたってしょうがない、よね。私、ちゃんと頑張る。だから……見捨てないで下さ、ううん。見捨てないで、お願い」
たどたどしくも必死に紡がれていく言葉に、ファルシードは小さく息を吐いた。
「まずは巫女じゃねぇ普通の生活に慣れる努力をしろ。まぁ、船がそうかは分からねぇが」
「そっか、普通の生活……か。慣れたらいい、な。ありがとう、ファル」
一生懸命に言葉を探りながら話し、リディアはファルシードを見上げる。
すると、それまで鋭かったファルシードの瞳が、わずかな緩みを見せていく。
下がっていた口角も微かに上がり、柔らかく弧を描いていた。
「ぎこちないにもほどがある」
そう言って踵を返した彼は、再び歩き出す。
憎まれ口を叩くファルシードの顔は、これまでとは違い、どこか優しく見えた。
『普通の生活に慣れろ』という言葉に、リディアはくすぐったい気持ちになって、ひっそりと微笑む。
これまで、普通でないことを強いられた彼女に、そんなことを言う者など一人もいなかった。
もしかすると、ここなら祈りの巫女ではなく、一人の娘リディアとして見てもらえるかもしれない。
そんな期待が胸を膨らませていく。
視線の先にはファルシードの背中と、メインマスト、そして眩いばかりの光が見える。
まだ見ぬ新しい世界への期待と不安に、鼓動は高鳴る一方だ。
――もしかしてファルは、使命を恐れる私を安心させるために『普通に慣れろ』なんて言ったのかな。
そんな思いが頭をよぎる。
多くを語らない彼の真意は、恐らく誰にもわからない。
だが、彼に対する苦手意識は、ずいぶんと薄くなってきていた。
新しい世界は不安だけど、ライリー団長もいる。ファルもいる。きっと大丈夫――
リディアは甲板に降り注ぐ光を見つめながら、破顔する。
塩辛い風を肺の深くまで吸いこんだあと、凛と胸を張り、彼の後ろをついて歩いたのだった。