偽りの恋人
――だけど、ただのフリとはいえファルシードさんの彼女、か……
気が重い、以外の言葉が何も見つからなかった。
リディアには交際の経験などなく、それどころか初恋すら未経験。
色恋に疎い状態で、恋人らしい演技などできるのだろうか。
しかも相手とは、昨日出会ったばかり。
盗賊ということ以外は、何もわからない状態なのだ。
さらにリディアにとって、ファルシードという男は無愛想で荒っぽく、何を考えているのか全く掴めない。
そんな彼と上手くやっていく自信など、欠片もなかった。
「……おい、何を呆けてる。さっさと行くぞ」
「へ?」
「行くぞ、と言っているんだが」
向けられた紫の瞳が、鋭く光っているように見える。
リディアはびくりと身体を震わせて、背筋を勢いよく伸ばした。
「ふぁい!」
緊張のあまり、異様な声を出してしまう。
恥ずかしさから顔をうつ向かせたリディアだったが、ファルシードはそれを気にする様子もないままだ。
彼はライリーの部屋をあとにし、リディアもそれに続いた。
廊下へと出たリディアは、目の前にある広い背中を見つめる。
男所帯であろう船内で身を守るには、この男に頼るほかない。
増殖する不安と戦いながら、リディアは恐る恐る偽りの恋人に声をかけた。
「あ、あの、ファルシードさん」
「なんだ」
振り向いたその顔は相変わらず不機嫌なオーラで満ちていて、少しばかりひるんでしまう。
こんなことは想定内だったはずだ、とリディアは気合を入れなおし、深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。よろしくお願いします」
「迷惑とわかってんなら、今後余計なことはするな」
「はい、気をつけます」
面倒そうに息を吐いたファルシードは、踵を返して歩みを進める。
「ついて来い。船内を案内する」
その言葉に、リディアの表情は一気に明るいものへと変わった。
「ファルシードさん、ありがとうございます!」
放置されるのが関の山だとリディアは思っていたが、存外ファルシードは面倒見が良かったようだ。
勢いよく頭を下げたあとに顔を上げると、ファルシードはうんざりしたような表情を浮かべていた。
「そう呼ぶのは止めろ」
「す、すみません。キャプテン」
リディアは慌てて言いかえる。
バドが彼をそう呼んでいたことを、思い出したのだ。
正式に団員として迎えられた今、リディアはこの船で一番の下っ端ということになる。
ファルシードはリディアにとって、ずいぶんと上の上司だということは間違いない。
だが、キャプテンという呼び名もまた不正解だったようだ。
ファルシードの瞳は“呆れた”とでも言いたげなものになっていた。
「なんだその他人行儀な態度は。お前……ジィサンの話、何も聞いてなかったのか」
「え?」
リディアは首をかしげて、ライリーの話を思い返してみる。
それなのに、いくら考えてみてもファルシードが何を言いたいのか、少しもわからない。
いつまでも答えを見つけられないリディアの顔は、徐々に難しいものへと変わっていく。
「……呑気の考えなしにも、ほどがある」
呟きにも似た声が聞こえた途端、突如あごにひんやりとした硬いものがあてられた。
それがファルシードの指だと気づき、心に動揺が走る。
逃げる間も与えられないまま、ぐいと顔を持ち上げられ、気が付いたら視線は上を向いていた。
距離を詰めてきた男に、はっと息は止まり、身体が硬直する。
見下ろしてくる底知れぬ紫の瞳が、恐ろしくも美しく、不思議と視線がそらせない。
混乱を極めた彼女は、何か行動を起こすこともできず、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
その一方で、ファルシードは、妖しげに口角を上げていき、笑った。
「わからないのなら、その身体にみっちり教え込んでやるしかねェな」
あごにあてられていた手が静かに動き、首筋を下方向へ、そっとなぞっていく。
これまでとは違う官能的ともいえる雰囲気を醸し出すファルシードに、リディアの血の気は一気に引いた。
このままじゃ、私――
リディアは戦慄し、不安から小さく唸るような声が出てしまう。
慌てて顔を背けると、逃さないとばかりに耳元で囁かれた。
「船に女がいるのも悪くない。飽きるまで抱いてやるから、せいぜい楽しませてくれよ」と。