ぶつかる想い
「いや、婚約の儀としてはここまでで九割程度。ただ、不完全なままにしておくわけにはいかねェから手、貸せ。すぐに婚約解消の言葉を告げる」
ファルシードは右手を差し出してくるが、リディアはそれをただじっと見つめていた。
「そっか、リジムの民にもいろいろしきたりがあるんだね」
「いいから、とっとと手ェ出せ」
一向に手を出そうとしてこないリディアにしびれを切らしたのか、ファルシードは右手を上下に動かしてアピールしてくる。
それでもリディアは動くことなく、無言のまま彼の手を見続けていた。
「おい、どうした」
「いまのいままで忘れてたんだけど、私、ピートさんと婚約してたんだった」
自嘲気味にリディアは笑い、胸の上で重ねた自身の両手をきゅっと握る。
「は? 誰だ、そいつ」
突如として彼の声のトーンが落ち、威圧感にも似たぴりぴりとした空気が漂った。
彼の眉間には深いしわが刻み込まれ、見るからに不愉快といった様子だ。
突然おかしな話をされたわけだし、不機嫌になるのも当然のことかもなぁ、とリディアはまた苦々しく笑った。
「ピートさんは、教会が勝手に決めてきた許婚でね、貴族の人なの。いつも他人を見下して、皆が逆らえないからってひどい態度とって……私、そんな人と婚約する書類に、拇印押してるんだ」
なぜこんな話をし出したのか、リディア自身にもよくわからない。
ただ、ひとたびピートとの婚約という事実に気づいてしまったら、リディアにはそれがおぞましくて、汚らわしく思えてどうしようもなかったのだ。
「教会から離れたんだ。んなモン、とっくに無効だろうが」
「そっか、そうかもしれないよね。だけど……ねぇファル、このまま私たちの婚約、解消させずにいたら、だめかな?」
恐る恐る尋ねているが、もはやリディアは自分で自分が何を言っているのかよくわからない。
混乱する頭を納得させるように、言い訳のようにまた、言葉を続けた。
「ええと、ほら、だって九割なんでしょ? 完全じゃないんだし……」
ちらと視線をあげて彼の様子を窺うと、驚いたような顔をしている。
無理もないだろう。
表向きは恋人同士でも、本来はただの上司と部下の関係でしかない。
それなのに“中途半端に婚約してくれ”と、わけのわからないプロポーズをされたのだから。
「どういうつもりで、そう言っている……」
苛立っているのか、ファルシードの声は低く唸るようなもので。
それでも、リディアは訂正しようとはせず、ただ口ごもる。
ファルシードも押し黙ってしまい、遠くの祭りの騒がしい声だけがあたりに広がった。
やがて、すぅ、と静かに息を吸う音がして、ファルシードが口を開いた。
「ピートとか言うクソ男よりはマシだから、とりあえず上書きしておきたいという意味なのか?」
「違うよ! 私は……」
リディアはすぐさま強く言い放つ。
だけど違うのなら、どうして私はこんなことを言っているのだろう、とリディアは困惑し、自分で自分に問いかける。
私は一体、何を望んでいるの? と。
知らず知らずのうちに蓋をしていた、心の奥底に潜む感情。
それと向き合うことを決めたからか、どこからか泉のように想いが湧きあがってくる。
胸がいっぱいになるほど溢れ出てきたのは、リディアにとってはじめての感情だった。
それは、温かくて重く、甘いのにどこか酸っぱくて苦い想い。
この男の隣に、ずっと居続けたいという願いと、確かな繋がりを求める心。
──あぁ、そうか。私はきっと……
「このままあんな男の女でいるなんて嫌なの。だって私、ファルのことが……」
「……ッ! これ以上掻き乱すなよ」
突然距離が縮まり、リディアは声を失う。
唇を塞がれたことで、続きを口にすることはできなかった。
すぐにファルシードは離れていき、リディアは何が起こったのかもわからず立ち尽くす。
いまも口元に残るぬくもりに、はじめて唇を奪われてしまったことを知った。
惚けた目でリディアがファルシードを見上げると、彼はまっすぐにリディアを見つめてきていた。
無言のままの彼の瞳には余裕などなく、まるで熱に浮かされているかのように見える。
「ファ……んっ……!」
名前を呼ぶ間も与えられず、今度は首元から髪をすくように指を差し入れられて彼はまた唇を重ねてくる。
それでもまだ足りない、とばかりに、首元に添えられていた彼の手はリディアの後頭部にまで滑り込まれ、さらに唇が密着した。
はじめは軽く触れるようなものだったのに、次第にそれは食むような深く甘いものへと変わっていく。
頭の中がじんと痺れて何も考えられなくなったリディアは、されるがままの状態だ。
温かくて甘くて、ふわふわとする不思議な感覚にリディアが溺れていると、名残惜しげに小さな音をたてて彼の唇がそっと離れていった。
途端、腰が抜けてしまい、リディアはその場にへたり込んだ。
恥ずかしさと動揺と、これまで感じたことのない快感に動悸が止まらない。
月夜に照らされ、ぺろりと唇の端をなめる彼の姿が、リディアにはひどく妖艶に見えた。
「気まぐれにふざけたことをぬかすから、そういう目に遭う。婚約すればいずれ、こういうことになるとわかってんのか?」
怒りにも似た感情が、ありありと見てとれた。
紫の瞳が熱を帯びていて、燃えているかのようだ。
無言のままのリディアにファルシードは再び口を開く。
「俺だってガキや聖人じゃねぇし、これまでみたいなママゴトや、こんな程度じゃ到底足りなくなる。恋人ごっこの遊びも大概にしておけ」
「……気まぐれや、ごっこ遊びなんかじゃ、ないよ」
呟くようにリディアの口から本音が溢れると、彼は次第に苦々しげな表情へと変わった。
視線をそらされると同時に、小さく舌打ちの音が聞こえる。
「お前は村人に持ち上げられ、クソ男と俺とを比較してその気になっているだけだろう。本気になる前に目を覚ませ」
吐き捨てるようなファルシードの言葉に、リディアはきゅっとスカートを握りしめた。
──本気になるな? もう、手遅れだよ。
──だって、貴方のことをこんなにも好きになっていたんだと気づいてしまったから。
「私に好かれると、迷惑なの……?」
嘆くようなリディアの問いかけに、ファルシードは奥歯を噛み締めて、首を横に振ってくる。
「そういう次元の話じゃない。俺がもう何年も生きられないのは知っているだろう」
「──ッ!」
「この後はコーネリアと共にいろ。とにかく一度、頭を冷やしたほうがいい。お前も、俺も」
言葉を失い、凍りついたように動きを止めたリディアを横目に、ファルシードは去っていく。
彼の姿が小さくなった頃、リディアはいまにも泣き出しそうな震える声で呟いた。
「ファル、貴方はずるいよ……」
こんなにも心を奪っておきながら“本気になるな”と突き放し、すべてを曖昧にしてくるなど、もしも遊びなのだとしたら、相当に質が悪い。
それが本気なら、なおさらだ。
振り返ってきもしない背中を寂しげに見つめたリディアは、切なさを吐き出すように、深くため息をこぼしたのだった。