貴女と貴方
古代言語を口にしてしまったリディアは、恐る恐るファルシードの顔を覗きこむ。
彼は無言のまま目を見開いており、どこか困惑しているようにも見えた。
言ってはまずいことだったのだろうかとあたふたするリディアだが、今更後悔したところでもう遅い。
声を失って立ち尽くす二人とは対照的に、周りは歓声をあげて盛り上がっていて、まるで別世界のようだった。
やがて観衆は静まり返り、何かを待ちわびているかのごとくファルシードに視線を送っている。
大勢から穴が開きそうなほどに見つめられて、ついに彼も観念したのだろう。
深く息を吐き出したかと思うと、今度はまっすぐにリディアへと両手を伸ばしてきた。
彼の指が両頬に触れてきて、リディアはぴくりと震える。
ひんやりと冷たくて心地よいと思ったのは最初の一瞬だけで、いまはもうわけのわからない展開に、おろおろとうろたえることしかできていない。
そんなリディアは、くいと上を向かせられてしまい、ファルシードと視線が重なった。
「ええと、あの、どうしたの……?」
「何があってもそのまま動くな」
リディアがかすれた声で尋ねると、ファルシードは真剣な面持ちで返してくる。
恐らく彼には、何か考えがあるのだろう。
リディアはこくりとうなずいて、言われた通り指一本たりとも動かさないようにしようと心に誓った。
そのままファルシードに一歩踏み出され、互いの距離が近づく。
夜闇に輝く紫の瞳に魅せられてしまったように、視線はそらせず重なったままだ。
やがて、彼が身体をかがめてきて、さらに距離が縮まった途端リディアは慌てて目をつむった。
突然顔を寄せてくるなど予想外で混乱し、リディアの頭の中には“なぜ?”という思いがひたすら巡り続ける。
まぶたを閉じてしまったせいで状況もわからず、自分の鼓動の音もやけに大きく聞こえてしまい、リディアの不安は増す一方だ。
やがて、リディアの鼻翼に何かがそっとあたってきて、動かすつもりのなかった身体が勝手に震えた。
見えなくても、彼女にはそれが何なのかすぐにわかった。
これは恐らく、ファルシードの鼻先なのだ、と。
互いの唇はもう、重なる寸前。
痛いほどに胸が締め付けられたリディアは、さらにまぶたにきつく力をいれる。
やがて、彼の吐息が唇をかすめてきて、リディアの心臓と身体はきゅっと甘く切なく縮こまった。
ファルシードの両手が二人の口元を隠していたせいで、周りからは口づけを交わしているように見えたのだろう。
辺りはまた沸き立ち、おめでとうだとかお幸せになどと、次々に祝福の言葉をかけてきていた。
すぐに彼は離れていったが、リディアにとってはとても長い時間に感じ、動揺もとどまるところを知らない。
頬どころか耳まで赤く顔を染めてうつむき、恥じらいからいますぐここを逃げ出したい気持ちが抑えられなくなっている。
「リディア、来い」
ファルシードは、リディアのか細い手首をつかんできて足早に歩きだし、人の流れとは反対に進みはじめる。
繋いできた手がやけに熱い気がして、リディアの鼓動はまたどくんと強く跳ねた。
人気のない路地裏についたところでようやく手は解放され、申し訳なさそうにリディアが口を開く。
「あの……ひょっとして、私また変なことして、ファルに助けてもらっちゃったの……?」
「いや、まだどうにかできる。手ェ、前に出せ」
どこか苛ついたようなようなファルシードの声に、リディアは何らかの失態を犯してしまったことを確信した。
「ごめん、余計なことしちゃったみたいだね……あの言葉、どういう意味だったの……?」
「んなもん、知る必要ねェだろうが」
いかにも面倒そうにファルシードはため息をつき、教えてくれそうな様子はない。
「そっか、大切な人に感謝を伝える言葉だってコーネリアさんから聞いたんだけど……違う意味だったみたいだね」
リディアが苦々しく笑うと、ファルシードは小さく舌打ちをして、遠くで楽しげに酒を飲むコーネリアを忌々しげに睨み付けた。
「あの女……余計なことしやがって……!!」
「ねぇお願い、教えて。私だけが知らないでモヤモヤするの嫌だよ!」
リディアの懇願にファルシードはますます眉を寄せてきて、あきれたように口を開いた。
「知ってどうする。それに、どうせ村人も正確な意味はわかっていない」
教える気のなさそうな彼に、むっとリディアは唇を尖らせて“それならば”と、一歩踏み出した。
「でもファルは知ってるんだよね!? 昔の言葉だもん、──って!」
睨み付けるリディアが再びあの言葉を口にすると同時に、ファルシードは苛立つように頭を抱え、深いため息をこぼしてくる。
あまりのしつこさに、彼もようやく教える気になったのだろう。
むすっと拗ねた表情を浮かべているリディアをまっすぐに見つめてきて、彼の顔つきも真剣なものへと変わっていた。
「二度は言わないから、よく聞いとけ」
彼の瞳の中に何故か艶と熱っぽさを感じてしまいリディアがどぎまぎしていると、彼は静かに息を吸い込み、そっと口を開いた。
「誰よりも愛している。いますぐあなたが欲しい」
どくんと大きく、リディアの鼓動が跳ねる。
自身の頬に手をあてずとも、顔がのぼせたように赤く、熱くなっていくのがリディアにもわかった。
「あの言葉の意味はこういうことだ。わかったら、もうおとなしく黙ってろ」
どぎまぎとしているリディアに、ファルシードは“だから知る必要なかっただろうが”と呆れた様子だ。
「じゃあ、花を胸に挿してわーってなったのは……?」
「あれは、求婚と婚約の儀式。基本的には男からやるモンだが、女が花を挿し入れて求婚しても構わないことにはなっている」
合点がいったのか、リディアは「そういうことだったんだ」と小さく呟く。
踊りの曲が止まった途端、本来は男がプロポーズをして、女がそれを受けるなら男の胸ポケットに花を挿すということだったのを、リディアはタイミング悪く花を挿し入れてしまい、プロポーズをしてしまったということなのだろう。
道理でファルが困惑していたわけだ、とリディアは苦笑いを浮かべていたが、すぐに目を見開き慌てて声を上げた。
「それって私、ファルと結婚しなきゃってことじゃない!?」