憧れと幻滅
「ロベルト……っ」
コーネリアは呟くように言って、声をなくした。
まさかこんなところで直属の部下に遭遇するとは、思ってもみなかったのだろう。
「もしや貴女は……」
顔を強張らせたロベルトはじりじりと後ずさりをはじめ、首元の紐に手をかけていく。
途端、ファルシードが舌打ちをして駆け出した。
二人の距離が一気に縮まり、ファルシードはどこからともなく取り出した漆黒の短剣を振り上げる。
同時にロベルトは腰の剣を抜いて、それを受け止めた。
夕闇に金属音が響き、ロベルトの首元には小さな笛と、雪の結晶の形をしたペンダントが揺れた。
どうやら彼は警笛を鳴らし、仲間を呼ぼうとしていたようだ。
「ファル、コーネリア様は祈りの巫女だ。連れて行くのは、ネラ様に対する反逆で、罪を犯すことだぞ!!」
「んなこと、とっくにわかってる。コーネリア! お前の部下だろう、どうにかしろ!」
ファルシードは鍔迫り合いの状態から剣を押し返し、距離をとって言う。
「ーーっ!」
声をかけられて我に返ったのか、コーネリアはびくりと身体を震わせた。
「コーネリア様、コイツら狂ってますよ! 目を覚ましてください。結婚から逃げるつもりですか」
剣を構えるロベルトは横目で問い詰めてくる。
にこやかだった彼の目つきは鋭く、視線も咎めるようなものだ。
見逃してくれるような様子では、決してない。
「私が逃げたところで、教会に騎士団は裁けない。迷惑はかけないから放っておいてくれ」
「どうしてですか!? 巫女の役割は誉れ高く、最も幸せに近いものなのに!」
コーネリアはロベルトを説得しようと試みるが、彼は聞き入れるつもりはなさそうだ。
「最も、幸せ……」
リディアは彼の言葉を、静かに繰り返す。
ミディ町にいた頃、リディアもそう言われ続けてきた。
羨ましい、誇り高い使命、幸せな人……
悪意なく放たれたその言葉が、どれほどリディアの心を傷つけてきたことだろう。
「ロベルト、お前は本気で巫女のことを幸せだと思っているのか? 自由も未来も全て奪われ、他人のためだけに生かされているんだぞ!」
コーネリアは、不愉快そうな顔で歯噛みするが、ロベルトは“わからない”といった様子で首をひねった。
「ネラ様は、俺たちに役割と試練を与えてくれます。だけど、それは乗り越えられないものじゃないし、きっとコーネリア様にとって必要なことなんですよ! ああ、律教の言うように、念のため見回りをしておいて良かった」
ロベルトは、雪の形をしたペンダントを握りしめる。
あれはネラ教徒の中でも、特に信仰心の厚い者だけが持つことを許された特別なものだ。
独立した組織だと詠う炎の騎士団にいる時でさえペンダントを身に付け、隠れて神官と繋がっているということは、彼は狂信的なネラ教徒なのだろう。
「お前、コーネリアに惚れてるんじゃないのか。神官将とかいう他の男に盗られて平気なのかよ」
ファルシードの問いかけに、コーネリアは目を丸くする。
彼女にとっては、寝耳に水の話だったようだ。
けしかけられたロベルトは小さく息を吐き出して、自嘲気味に笑った。
「こればかりは仕方ないさ。身を引くのが、俺に与えられた試練なんだろう。それに、神官将は、コーネリア様に相応しい男で、俺なんかじゃ太刀打ちできない。さぁ、早く戻りましょ。幸せな未来を逃す気ですか……?」
少しずつ近寄ってくるロベルトに対し、コーネリアは視線をそらして首を横に振った。
「……すまない。想ってくれていたのは嬉しく思うが、私にはお前の言う幸せがよくわからないんだ」
「一体、どうしちゃったんです……? 俺が憧れて、恋慕った貴女は、そんな人じゃなかった。強く、気高く、気品に満ち溢れて、規律や調和を何より重んじる方だったはずだ! 理知的な貴女なら、何が正しいのかわかるはずなのに!」
ロベルトは愕然とした様子で立ち尽くし、コーネリアを責めるように次々言葉を放つ。
一方的にわめく姿はまるで、聞き分けのない子どものようにも見えた。
「そうか……お前が恋慕ったのは、偽物の私のほうだったんだね」
コーネリアは寂しげな顔で笑う。
「コーネリアさん……」
リディアはこぶしを握りしめて、視線を落とした。
感情豊かで明るく親しみやすいコーネリアではなく、作り物の彼女が選ばれたことが悔しくて悲しくて、仕方がなかった。
「偽物? どういうことです?」
「……すぐにわかるよ。すまないが、これまでお前が慕ってきた女騎士は、ここで死ぬ」
コーネリアは短剣を取り出し、切っ先を自分へと向けて言う。
「待って! 何するつもりですか!?」
リディアが止める間もなく、コーネリアは自身の髪を掴み、短剣を勢い良く振り切った。
ざくりと小気味いい音がして、金糸が風に乗ってはらはらと舞う。
長く美しかった髪は見る影もなく肩上で不格好に切り取られ、コーネリアの右手には、三つ編みの束が握られていたのだった。