この世の常識
マティアスは、ナイフを向けられているというのに動揺する様子を見せず、むしろ穏やかに微笑みながら口を開いた。
「君たちの正体は、コーネリアから聞いた。隠してきた本性がばれたくせに、嬉しそうに話してきたよ。気付いた人がいた、とね。アイツのあんな顔は久しぶりに見た」
「コーネリアさんが……?」
リディアが問うと、マティアスはすまなさそうな顔をして頷く。
「君たちとの約束を破ったことは、許してやってほしい。あの娘にとってこの町は思い出が詰まった宝で、万一の事態を恐れていただけなんだ」
コーネリアは以前“この町に災厄を持ちこむ気なら、容赦はしない”と鋭い表情で話していた。
それほどに、この町のことを大切に想っているのだろう。
「俺たちの正体を知っているのは団長、アンタだけか?」
ナイフを向けながら尋ねるファルシードに、マティアスはまっすぐに目を見つめ返しながら答える。
「ああ、我が騎士道に誓って」
ファルシードは深くため息をついてナイフをしまい、もう下ろしてくれとマティアスの両手を下げさせた。
「アンタ、なぜ俺らを教会に売らないで、共に行かせようとする」
ファルシードの問いに、マティアスは顎をさすりながら笑った。
「そうか、君らを売って交渉をするという手もあったな! ……って、冗談だよ。そんなに怖い顔をしないでおくれ」
マティアスの空気の読めない冗談と、不機嫌さを全身から醸し出すファルシードに、リディアは苦笑いを浮かべることしかできない。
困ったように微笑んだマティアスは、次第に視線を落としていった。
「交渉で結婚を引き延ばしたとして、いずれ同じ運命をたどるのは目に見えている。教会も民も、未来を変える気が無いからね」
「未来を変える気が……ない?」
復唱して尋ねると、マティアスは静かに頷いた。
「暗黒竜と戦い、殺すことができれば以後犠牲者はいなくなるし、怯えながら生きる必要もなくなるだろう。なのに、千年もの間それをしようとはしない。さて、なぜだかわかるかい?」
「巫女として命を捧げることが、名誉なことと思っているからじゃないんですか?」
リディアははっきりと答える。
実際に司祭から何度も言われてきた言葉であり、周囲からもそう思われているようだったからだ。
だが、マティアスは首を横に振ってきた。
「熱心に信仰している者は本気でそう思っているだろうが、私はそれだけが原因とは思わない」
「じゃあ、どうして……」
「……生贄など、民にとっては関係のない出来事だからだ。どこかに住んでいる見知らぬ誰かのために、いまの生活を壊せる者は、多くない。それに、教会にとってみれば、あの竜は信仰を継続させるための必要悪で、このままのほうが都合がいい。そういうふうにもとれないか?」
予想だにしなかった発言に、リディアの喉はひゅっと音を立てて一瞬呼吸を止めた。
本当にそんな理由で……? と言わんばかりの目でファルシードに視線を向けると、彼も苦しげな表情を浮かべていた。
その態度一つで、世間が“祈りの巫女”や“神の使い”をどう認識しているのか、はっきりと感じとれてしまった。
「じゃあ、私とコーネリアさんの家族は、現実から目を背けて保身に走った人たちや、教会の安定のために死んでいったってことなんですか……!? 名誉なことだなんて、そんなの思ってもいないのに、平気な顔で嘯いてきた人たちの平和のために!」
リディアは立ち上がって、マティアスを激しく責め立てる。
怒りと悲しみとで、目は白黒としており、顔も赤く染まり上がって、声も震えていた。
言い返せずにいるマティアスをけしかけようとすると、立ち上がったファルシードが肩に手を置いてきて「もう、やめろ」と、静かに声をかけてきた。
「だって……!」
「気持ちはわからないでもないが、マティアスにあたるのは的はずれだ」
座るように促されたリディアは息を整え、気持ちの整理をしながら腰を下ろした。
「……すみません、取り乱しました。裏が見えていたからこそ、マティアスさんは暗黒竜を退治しようとしていたんですもんね」
未来を変えようと動いてきた人に突っかかるなんて、確かに見当違いだ、とリディアは縮こまって頭を下げていく。
一方のマティアスは、申し訳なさそうに微笑みかけてきた。
「いや、こちらも配慮が足りなかった。すまない」
しんとした静寂が流れ、空気が重くなる。
ぎくしゃくした雰囲気に耐えかねたのか、ファルシードが深く息を吐いて、静かに口を開いた。
「コーネリアを連れ出せと言う理由はわかったが、アンタは俺らを信頼できるのか? ハタから見れば、教会に楯つく頭のおかしい集団だろう」
その問いにマティアスは顔を上げ、堂々とした様子で言葉を発する。
「この世の常識なんて、多数派の人間が作っているというだけ。移ろいやすく、あやふやで。正解などなく、不確かなもの。だったら……」
二人に視線を向けられたマティアスは、にこりと口角を上げ、柔らかく目を細めて、言う。
「自分の信じるものくらい、自分で決めるさ」