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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

こどう

 わたしがこどものころ、「生きている」なんて実感はなかった。

 きっと、誰しもがそんなふうに考えたことはあるんじゃないかな。

 実はこの体は人形で、神さまみたいな存在に糸操り人形のように動かされているんじゃないか、とか。実はすでにわたしは死んでて、今見ているのはその直前の走馬灯みたいなものなんじゃないか、とか。

 そんな感じのことを、一回は考えたりしたんじゃないだろうか。

 もしそうじゃないのなら、その人は、なんて軽くて重みのない、でも悩むことのない素敵な人生を送っているのだろうか。皮肉なんかじゃなくて、ね。

 そんなふうに考えていると、だんだんと「生きている」と「死んでいる」の境い目が分からなくなって、妙に物悲しくなってしまう。

 もしかしたら、目が覚めたらわたしが死んじゃっていたり。

 もしかしたら、私のお母さんやお父さんが死んじゃったり。

 寝るまえのベッドの中、オレンジ色の薄暗いベッドの上でちょっとだけ枕を濡らしてしまうことがあった。

 そんなことを考え始めたのが小学校の終わりのころ。

 まあでも、四六時中そんなこと考えているわけじゃないから、わたしも気付いたら中学校に入っていた。

 セーラーの制服に身を包んで、ちょっとばっかり、一歩ばっかりおとなな気分。

 ローファーのかるい靴音が耳にやさしい。そんな日々。

 勉強も格段に難しくなって、数学に名前が変わった算数の数式に頭をうんうんうならせる。そんな日々。

 運動おんちで、別にやりたいこともなかったわたしは部活、なんてものにははいらないで、空がオレンジ色になったころに友達とさよならを言って別れる、そんな日々。

 ずっとずっと、ちょっと地味で、変わらない、でもどこか体が宙ぶらりんの日々。

 それでも、ひょっこりとあの妄想は顔を覗かせる。

「ねえ、あなた生きてるの?それとも死んでるの?」

 そうやってわたしに問いかけてきて、心が揺れる。

ふわふわしたままの私の「魂」。

 大人になるころにはそんな妄想はなくなるって、なんとなく信じてた。

 だから、その声が聞こえるときにはきゅっと耳を塞いで、そっぽを向いた。

 魂を宙ぶらりんにしたまま。


「分かるよ、その気持ち」

 わたしの狭い常識の範囲でも、こんな話は絶対に他の人の前でしちゃいけないものだっていうのは分かっていた。

 もし話しちゃったなら、白い目で見られるんだ。変なものを見る目で見られるんだ。

 普通はこんなこと考えないんだ。

『私たちは生きている』

そんな当たり前すぎることに疑問するなんて、おかしいことなんだ。

いわゆる普通の人は、こんな面倒臭くて重っ苦しいことは考えないの。

考えたとしても、それをひた隠しにして「生きている」の。

それぐらいならわたしにでもわかっていたし、中学に上がってからも隠してた。

といっても、友達のお話にうんうんと頷いて、わたしに話が振られないように祈って、もし振られてしまったら、昨日見たテレビのお話を引っ張り出して取り繕う。

そうやって「なんでもない」フリをしていた。

してきた。

 そんなわたしに、妙な友達ができた。

 名前はアン。カタカナで、アン。海外の人みたいな名前っぽいけど、純粋な日本人。

 ちょっとだけ油に光る黒いつややかな髪に黒く黒い目。両方の頬に、少しニキビがあったけど、でも、すっとしたあごの線はきれいで、きっと大人になったら美人になるんだろうなっていう雰囲気があった。

 で、アンは周りからちょっと浮いていた。別にいじめとかにあってるわけじゃないんだけど、いつも本とか読んだりして、ほかの人としゃべったりあまりしない。一人でいる姿をよく見る。

 そんなアンを、わたしはちょっとだけ羨ましく思ってた。

 私は独りぼっちになる勇気なんて全くなかったから、ずっとフリをした。

 もし、あの妄想にずっとひきこもることができたら、重苦しくてしばられてしまうかもしれないけど、少しだけ、魅力的だった。

 きっとアンは、わたしの妄想みたいなことをたくさん考えてるんじゃないかって、そういうふうに思うようになっていた。

 いつどこかは忘れちゃったけど、わたしはアンと友達になれた。

 少しずつ、放課後の教室でいろんな話をした。

 いつも本を読んでること。

 彼女がたった一人の生物部だっていうこと。

 やることは餌やりくらいで暇なこと。

 家が少し遠いこと。特にわたしの家と反対方向。

 兄弟がいないこと。

 一人っ子だったからいつも本を読んでたこと。

 だから本が好きなこと。

 好きな作家は特にいないこと。

 勉強も、だから好きなこと。

 中学生活が、自分が思っていたよりちょっとつまらないこと。

 とても賢くて、たくさんのことを知っていて、それで優しい口調でわたしに沢山話をしているアンの姿を見ていて、とても楽しかった。

 わたしのこともたくさん話した。

 少しずつ、お互いの話したことが山のようになって、互いを互いが浸食し始めた。

 だから、ちょっとずつ、お互いのまんなかのところ、そこに近づいていった。

 言葉を交わして、彼女ならきっと、笑わないだろうなって、そういう確信をわたしは胸に抱いた。

 わたしは、わたしの妄想をその日、夕暮れのふたりっきりの教室で、初めて、この世界に言葉で産み落とした。


 オレンジ色の頬に、ニキビの影が丘のように、二つほどアンのほっぺにあった。

 少し口どもって、わたしがいいづらそうにしているのをアンは察して、じっと待っててくれた。

 ちょっとずつ、私は言葉にした。

 あのね、わたし、ずっと妄想してるの。

「妄想?」

 うん、妄想。くだらなくてバカらしくて、でも私にはとても怖い妄想。

 アンはさ、寝るまえに怖くなることない?

 もし、このまま死んじゃったらどうしよう、とか。

 お母さんや、お父さんが死んじゃってたらどうしよう、とか。

 そもそも、生きてるって、なんなのかなって考えちゃうの。

 わたしはほんとうに、わたしとして生きてるのかなって。

 だれかに操られているんじゃないかなって。

 そんなふうに妄想しちゃうの。

 その妄想が、わたしに聞いてくるの。

 「ねえ、あなたは生きてるの?それとも死んでるの?」って。

 ……変だよね、こんなこと考えちゃうのって。

 おかしいよね。

 すっかり話し終えて、少し自嘲っぽく笑って見せたら、アンは全然わたしを笑うどころか、わたしの手を取って、こう言ってくれた。


「分かるよ、その気持ち」


 机を挟んで座っていたわたしとアン。

 ゆっくりとアンは立ち上がって、私の手を握ったまま、わたしの膝の上に座った。ずっしりと、アンの重さと体温がわたしの太腿に乗った。かるくて温かった。

「分かるよ」

 さっきよりもずっと近い距離でアンは私を覗きこんだ。

 アンの黒い瞳が私を包み込んだ。きらきら、涙で少し濡れてとてもきれい。初めて、だれかの目がキレイだって思った。

 わたしの手を握っていたアンの手は、手の平からわたしの手の甲の側から握り直した。その手をセーラーの裾からアンの体の中へと滑り込ませた。

 いきなりのことで、私は手を引っ込めようとしたけど、アンの手はそれ以上の力で、彼女の胸までわたしの手を引っ張っていった。

 スポーツブラ越しに、アンの膨らみかけた胸に手を押し付けられた。

「ねえ、わかる?」

 まつ毛がはっきりわかるくらいの距離でアンはほほえんでた。

「わたし、ドキドキしてる」

 とん、とん、とん、とん。

「わたしは、生きてるよ」

 とん、とん、とん、とん。

 しゅるって、アンの手が解けた。

「ねえ」

 アンの手がわたしのセーラーの裾を捲ろうとする。そして、止まる。

「さわって、いい」

 呼吸が勝手に早くなる。アンのおっぱいを押す手は、まるで動かない。

 うんとも、いいえとも、私が言えずに固まってるのを見て、アンはけたけたと笑った。

「ごめんね。ちょっとからかい過ぎちゃった」

 すとんと、わたしの手が落ちた。

「許してくれる?」

 ちょっと困ったように眉を下げて、アンはわたしを覗きこんだ。

 わたしは頷いた。

「ありがとう」

 アンはまた私の手を取った。今度は握手だった。

「あなたが、こんなにもかわいいから、少しからかっちゃった。

 でも、あなたが感じたこと、その妄想、わかるよ。

 私は生きてるよ。あなたは?」

 アンは生きてた。あの鼓動を感じた。

 じゃあ、わたしは?

 とん、とん、とん、とん。

 おっぱいのかたくてやわらかい感触と、心臓のリズムが手の中に残ってた。


 その日、アンはわたしを教室じゃない場所へ招待した。

 そこは生物部の部室だった。

 ガラガラと引き戸を開けるとむわっと、ふだん嗅がないような、甘いような臭いような、色々なものがごちゃごちゃになった匂いがわたしを迎えた。

 何をするの、とアンに聞いた。

 そしたら彼女は、ふふって笑って、なにも答えちゃくれなかった。

 困ってる私をよそに、アンは一人で八畳ほどの狭い部室をわがもの顔で闊歩する。それもそうだ。ここはアンだけの生物部。アンの部室。わたしはお客さん。もてなされるのを待つ。

 見渡すと、水層やケージがいくつかあった。空っぽのもあるけど、ちゃんと生き物がいるものもいくつかある。

 アンがそのうちの一つに停まって、腰を下ろした。ケージの上にある扉を開けて、中の生き物を取り出すみたいだ。

 立ち上がった彼女は、今まで見せたことのない、とても楽しそうな、これから何かをしでかそうとする笑みを浮かべて手の中のモノを掲げた。

 白いネズミ。実験とかで使いそうなネズミだ。

「来て」

 アンの言葉にわたしは隣まで、恐る恐る行く。

 ここと指差した立てつけの悪い椅子に腰かける。

 机の上には鉄製のパレットに、黒いゴム製の一枚の板。その横に、ハサミやピンセットがたくさんある。

 すうっと、血が落ちる気がした。アンはわたしに宣言する。

「解剖しようと思うの」

 アンの目を見た。きっと、わたしの目は小刻みに揺れて、動揺していたに違いない。

 アンはいつもの黒目で私をじっと見た。やわらかい笑みだけど、目だけは全然笑ってなかった。

「先生にも秘密。ほんとはやっちゃいけないこと。ルール違反」

 でも、とアンはまるで、ささやかないたずらをするような、わたしにたいして取引を持ちかけるような犯人の声色で囁いた。

「一緒に、しよ」

 目の奥がちかちかした。

 喉がきゅうと絞られるように。

 ガンガンする。

 ぐるぐるする。

 手の中に汗が浮き出てくる。

 とんとんとんとんとん。

 とんとんとんとんとん。

 妄想が聞こえた。

「ねえ、あなたは生きてるの?それとも死んでるの?」

 妄想が、聞いた。

「する」

 わたしが言うと、アンはありがとうってわたってネズミを持ってない手でわたしを抱き締めた。

 一瞬だけ体が触れ合って、離れた。

「じゃあ、はじめよっか」

 そういうとアンはテキパキと動き始めた。

「ほんとは、麻酔で眠らせるんだけどそんなものここにないんだよね。

 だから、このままやるよ」

 アンは暴れ狂うネズミを黒のゴム版の上に押さえつけた。

「私が抑えるから、脚を針で止めて」 

 アンの視線の先に二十本ほどの細く小さな針がシャーレの中にあった。

 うん、と頷いて針を一本取る。

 じたばたするネズミの足の一つを、針を持ってない手で押さえる。

 とんとんとんとん。

 息を止めて、針を刺し貫いた。

 ちょっとだけ、血が滲み出ていた。

「早くして」

 初めの一本だけ、緊張した。あとはどんどん刺していった。

 ゴム板のネズミは、大の字にはりつけにされていた。肛門のところから茶色い小さな糞がコロコロと落ちていた。

 とんとんとんとん。

「やる?」

 アンが、わたしにはさみとピンセットを渡そうとした。

 頷いた。

「やり方を教えるね」

 ネズミの正面にわたしが座る。その後ろから、アンの両手がわたしの両手に添えられた。

「右手にハサミ、左手にピンセット持って」

 持った。

「それじゃ、切るよ。ピンセットで皮をつまんで」

 言われた通りに、皮をつまみ上げる。

「その皮に、切れ込みを入れるの。横に」

 さくっと、切れた。中途半端に切れた毛が窓から差し込んでいる光で、キラキラ光った。

 とんとんとととと。

「今度は、切れ込みから皮をつまみながら、真っ直ぐ縦に切って」

 切れ込みに、アンの手が添えられたハサミをあてる。

 じょきじょきじょき。

 皮を、上下に切り裂いた。

「今度は、首のところで横に。そして、皮を開くの」

 観音開きみたいに、ネズミの皮が開いた。

 皮を剥かれた腹には、透明な膜につつまれた臓物があった。

「上手」

 アンが、耳元で囁く。

 とととととととと。

「次は、お腹を開くの。透明な皮を、中を傷つけないように切って」

 さっきと同じ要領でわたしは薄い皮をピンセットで持ち上げて、切った。上の方は丁度真ん中ぐらいのところで切れなくなった。アンは、ここが横隔膜で、胸とお腹を分けているんだって教えてくれた。

 ぷんと、鼻に内臓のにおいが入り込んだ。

 甘くて臭くて苦くてえぐくて、どこか懐かしい匂い。

「ねえ、あなたは生きてるの?それとも死んでるの?」

 とととととととと。

「これが、胃。ここから小腸に、こう、繋がってるの。それで、これが大腸。肛門に繋がっていくの」

 わたしの右手のハサミを、包むようにしているアンの手が、ハサミの先でわたしに教えてくれる。アンが突くたびにネズミがびくびくと震えた。

 まだ生きているんだ。

「これが肝臓で、こっちが膵臓。これが、脾臓ね。両方にあるこれが、腎臓」

 深いとこも容赦なくアンは見せつけてくる。

 この迷路みたいな、赤と茶色と黄色でできたものが、わたしの中にもある。

 あるはずなの。

「つぎは、ここ」

 次にハサミが指示したのは、胸のところ。

「ねえ見える。肺に挟まれて、動いてるの」

 見える。規則正しく、慌ただしく、拍動する、小さな赤いカタマリ。

「心臓。ここが、心臓」

 ハサミの先が、そこを指した。

 とくんとくんとくんとくん

 とととととととと。

「殺してあげよ」

 アンの両指で、ハサミは口を開いた。

 その口が、心臓をやわらかく挟んだ。

 目が、私の目がネズミの目とあった。

 とととととととと。

「わたしと、あなたで殺すの」

 アンの声が、耳をくすぐる。

 唾を呑みこんだ。

 震える指先を、アンの手が支えてくれる。

 とととととととと。


 とくん。


 ネズミの中が真っ赤に染まった。少しだけ噴き出た血が、私たちの手を汚す。

 じわじわと血の海は広がって、胸の中に納まらずに、溢れ出た。

 その中で波紋を作っていた心臓は、だんだんと動きを緩めて、最後には動かなくなった。

 ネズミの目は、どこも見ていない。

 部屋中に、生臭くてどうしようもないほどに生きていたにおいが充満した。

「殺しちゃったね、アイ」

 アンの手が、私の手に絡みつく。

 血で汚れるのを、全く気にする様子もなく。

「……うん」

 その手を私は、握り返した。


 器具を洗って、ネズミの死体をスーパーのレジ袋に入れ、さらにその上にアンはトイレの汚物入れに使う黒いビニール袋を被せた。

「こうすればバレにくいでしょ」

 こんなことが学校にばれちゃったら、いろいろ問題になるだろう。アンの用意周到さに私はまた感心する。

 その日、私はアンの家に泊まった。

 別に理由があったわけじゃない。ただ誘われた。それだけ。

 私の両親も別に何かを言うわけじゃなく、アンの両親は私を温かく迎えてくれた。

 アンの提案で、私とアンは、アンのベッドで一緒に寝ることにした。これも特に理由がる訳じゃない。

 でも、一人で眠るには、今日の私は、いつも以上に心細かった。

「どうだった、アイ」

 オレンジ色の薄暗いベッドの上で、アンの顔が視界いっぱいに広がる。

 綺麗だなって、そう思う。いつか、美人になるんだろうなって。

「不思議な気持ち」

「うん、わたしもだよ、アイ」

 アンは私の手を取った。

「このことは、私たちの秘密」

「秘密」

 とん。

 すごく、すごく甘くて苦い響きだろう。

 今日の出来事は、私とアンの秘密なのだ。

 私たちがネズミの命を奪った、その秘密。

「大切にしよう」

 私はアンにそう提案した。

「そうしましょう、アイ」

 アンは頷いた。

 じっと、お互いを見つめ合った。

 アンの黒い黒い瞳が、私を包み込む。

 とくん。とくん。とくん。

「おやすみ、アイ」

 ニコリと笑うアン。

「おやすみ、アン」

 彼女の頬を撫でて、そっとその手を下ろす。

 首に触れると、鼓動を触れることができた。頸動脈と、言うらしい。

 もし、これを握ってしまえば、アンは死んでしまうだろう。

 ネズミのように。

 そんな妄想に耽りながら、私は重くなった体をベッドの中に沈めた。

「おやすみ、アン」

 おやすみ、わたし。


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