第一話
今僕は、非常に困った状況にいる。
桜のつぼみが膨らみ、町中のマスク人口が急激に増えるこの季節。
春は目前だというのに今夜は冷える。
ここは街のはずれにある神社の境内。
それなりに手入れがなされていて、百段以上ある石段の脇には均一な感覚で桜の木が植えられている。
桜が咲けばたくさんの花見客で賑わう場所。
しかし、霜が降りるような寒い日にここを訪れる物好きはそういない。
その物好きの中の一人が僕だった。
僕には今、付き合っている人がいる。
僕が人生で出会った中で一番美人の彼女。
なんと、小説家だ。
いや、正確に言えば小説家の卵だ。
今はありとあらゆる小説投稿サイトの大賞などに応募している。
その、応募したほとんどの作品が最終選考まで残っているのだが、どうも大賞には届かない。
彼女は、ミステリーから恋愛ものもで多彩に書く。
彼女が書く文章はどこまでも暖かく、読む人の心を優しく包み込む。
だからこそ、どれほど残酷な事件を扱ったストーリーでも、最後にはきちんと救いがあるように締めるのが彼女のやり方だ。
心の底から優しい彼女は、小説の中の人物でさえも不幸せなままにはしておけない。
小説に詳しい専門家によれば、そういうところ生ぬるいらしいが、僕からしてみれば、そこが彼女の、どこまでも愛おしくかわいいところなのだ。
明日はそんな彼女が必死になって書いた小説の発表の日。
ほぼ毎日のように何かしらの結果が出るので、僕はそのたびにこの神社にお参りに来る。
いつか、彼女のような心優しい小説が多くの人の目に触れることを願って。
そして彼女が小説の中の人物たちを愛するように、もっと多くの人に彼女が書く小説を愛してもらいたい。
そんな願いから、この神社に参拝に来ることが、いつしか僕の日課になっていた。
そして、彼女がもし大賞が取れたら……。
僕の来ているジャケットの胸ポケットには、少ない貯金をはたいて買った指輪が入っている。
小さいけれど、ダイヤがついているプラチナのインゲージリング。
今回の小説はかなりの力作だ。
彼女が好きだからではない。
本当に一読者として、引き込まれるような素晴らしい話だったのだ。
投稿したサイトの読者の反応もいい。
大賞が取れれば夢の書籍化も目の前である。
そして僕は、やっと彼女に胸の内を語ることができるのではないかと思っていた。
それなのに。
底冷えのするような夜だというのに、霜が降りている地面を懸命に掘る男が目の前にいる。
静寂に包まれた神社の境内で、不気味に響く、シャベルの音。
全身黒いウィンドブレーカーに身を包み、フードをかぶって、しかもマスクをしているから顔がはっきりと見えない。
そしてその傍らには、力なく横たわる僕の体がある。
本堂の裏、木々が生い茂り月の光が全く射さないこの暗闇の中で、男は息を切らしながら穴を掘る。
この寒い中外を歩く人なんていないし、人が住む場所からは階段百段分の距離がある。
まず誰かがやってくるなんてことはないだろう。
どうやら僕は、この男に殺されてしまったようだ。
殺された瞬間のことはよく覚えていない。
いや、思い出したくないのかもしれない。
どちらにしろ、あまり記憶にないのだ。
いつものように賽銭を入れ、鐘を鳴らそうとした瞬間、後ろから何か固い物で殴られたことは覚えている。
その後の記憶が全くなく、気づいた時には土の中に埋められようとしている僕の体をただ見つめる自分がいたわけだ。
幽霊、というやつを信じたことはないが、実際になってみると意外と違和感がない。
血がドッと出て、それはもう無残な自分の姿を見せられ、この世の地獄のような痛みを味わって死んだのならまだ実感があるのだろうが、なにせそう言うものが一切ないのだ。
自分は昨日までと同じようにここに存在しているし、どこも異常はなくすこぶる元気である。
ただ一つ異常なことがあるとすれば、それは、目の前に自分の体が転がっていることぐらいだろう。
「新入りか?」
後ろから、鶯色のを着た男が僕に声をかける。
すらっと背の高いその男は、大河ドラマでしか見たことの無いような束帯を、恐ろしく自然に着こなしていた。
「し、新入りって言われても……」
返答に困る僕をよそに、彼はフフッと笑みをこぼし、僕の隣に腰掛けた。
「私の名は、源高明」
「はぁ」
「知らぬだろう?」
「はい」
彼は再び小さく笑い声を立てた。
「当然だ。 わたしの名は消されてしまったのだから」
「何かあったんですか?」
「私のいた時代から、このような恐ろしい所業が繰り広げられていたのだよ」
そう言いながら彼は僕の体を掘った穴に投げ捨てた男を顎で指した。
「貴方も?」
すると高明が頷く。
「私も昔、この場所で。ここは京から程遠い場所だ。女のところに通おうとしていたところを襲われて、この近くの川に投げ捨てられたのだ」
そう語る高明の目は悲しげに上を見つめている。
何かを思い出したのか、目にはうっすらと涙がたまっているような気がした。
「それは、お気の毒に……」
「その点、お前はまだ幸運だぞ」
「殺されたのに?」
「私は川に投げ捨てられたのだ。何里も流され、傷だらけになった私の体を想像してみよ」
その時点で僕は高明の話を聞いていなかった。
そんなところ、想像したくもない。
「それで? お前はどうするのだ?」
「どうする? 何をですか」
高明はそれまで僕に向けていた暖かな眼差しを一瞬で冷たい視線に変え、穴を埋めはじめた黒い男に向けた。
「あの男を呪い殺すもよし。このままこの世に留まって思いを募らせるのもよし」
「呪い殺す?そんなことができるんですか?」
自分の人生を強制終了させた男が憎くないかと言えばうそになる。
しかし、その、呪い殺す、という響きが僕には恐ろしかった。
「ただし、用心せよ。呪い殺せばお前も人を殺したのと同じ。地獄行きだ」
「地獄には行きたくないな……」
高明がクスクスと笑う。
「お前はそう言うのではないかと思ったよ」
「何でわかるんですか?」
「私と似ているからだ。自分は非業の死を遂げたのだ。自分を殺した男が憎いのは当然だが、その男のために自分を地獄へと落とすような愚かな真似をするのもどこか悔しい」
僕にそんな深い考えがあったわけでもないけれど、僕は黙って話を聞くことにした。
なによりもおっとりとした高明の話し方と、彼の浮世離れした身なりが、今起こっていることが全て夢なのではないかと思わせてくれることに安心感を覚えていたのかもしれない。
「それに、あの男は我らが直接手を下さなくても地獄行きだ。放っておけば時期にあの男も死ぬ。どうせまともな人生を送れやしないさ。だったらこっちはこっちで、楽しんだ方がいい」
「死んでるのに?」
「何を言う。アフターライフ、と言うやつだろう?」
平安貴族みたいな男がそんな言葉を使うのがどこかおかしくて、僕は吹き出してしまった。
そんな僕に彼は気分を害したらしく、すこし口を尖らせた。
「何を笑うことがある」
「いや、すいません」
「言葉のことを言っているのならなんら不思議なことはないだろう。もう千年以上もこの世に留まって浮世を見続けているのだ。言葉くらい覚える」
「そうですよね、すいません」
「もし行く当てがないのなら、我らの仲間に加わらないか?」
「仲間?」
高明が顔を輝かせた。
「この近辺にどれだけの霊やあやかしがいると思っておるのだ?お前には見えていなかったかもしれないが、お前や私のように、あの世にも行けず、かといってこの世で呪い殺すような相手も無いようなはっきりとしない輩がわんさかいる。その中でも気のいいやつらが、この境内に集まって騒いでいるのだ。お前が毎晩この時間に来ておったのも、私は見ていたのだぞ」
今まで無数の妖怪に見られていたのかと思うとかなり虫唾が走る。
そんな不気味な場所に参拝に来ていたのか。
僕の顔が引きつったのを見たのか、高明が愉快そうに笑った。
「そう恐れるな。言っただろう、気のいい連中なんだ。どうだ、特にやることが無いのなら一緒に来い。歓迎してやるぞ」
「はぁ……」
別に行くと言ったわけではないのに、高明は嬉しそうな顔をして僕の腕を取った。
「さぁ、こっちだ」
手をひかれるがままに、僕は高明のあとをついていった。
こうして僕の、奇妙な幽霊生活が始まった。