桜姫日記
「はぁー…」
俺は小さな紙片をぼんやり眺めながら、深いため息をついた。
「なんだよ佐々木、そんな成績ヤバかったんか?」
宮田は立ち上がりながら聞いてきた。帰る前のホームルームで期末テストの結果票が手渡され、紙片を手にクラス中が一喜一憂している。
「いや、別に下がったわけじゃないんだけど。一高受けるには厳しいかな」
「ふーん、二高じゃダメなわけ? そっちのがバスケ強いだろ?」
「んー…、高校でバスケやるか分かんないし。親が『一高行け』って言うから」
「お前は本っ当につまんねぇ奴だな」
宮田はずけずけと言葉を浴びせてくる。この裏表の無さが潔くて、よくつるんでるわけなんだけど。と、思っていたら、肩越しに俺の結果票をのぞく奴がいた。
「佐々木くん、そんなに落ち込むほど悪くないじゃない」
「勝手に見んなよ、植村」
「うわ、出たよ。学年トップが」
余裕の表情の植村は、今回も学年トップだったのだろう。
「社会だけ2位だったんだけどね。1位は柳井さんかなぁ、3組の。今回日本史多かったから、かなわないんだよね」
この秀才・植村は、塾が一緒でよく話す。物腰柔らかで聡明で、決してそれを鼻にかけない。
「で、なんだ。佐々木が『つまらん男』だって話だっけか」
「いいよ、戻さなくて。宮田こそ成績大丈夫かよ。二高も危ないって言ってたじゃん」
「俺はいいんだよ、世界で生きることにしたから。高校受験なんて気にしてたら俺は駄目になる」
意味が分からないし何がしたいかさっぱりだけど、風呂敷だけはデカいらしい。このふたりと話してると話題が豊富で楽しいが、俺自身は空っぽで、たまに足元にポカンと穴が開くような感覚に陥る。
「今日は塾ないし図書室で勉強してくけど、宮田くんと佐々木くんは?」
「俺はTSUTAYA寄ってくかな。佐々木も来る?」
「いいよ。帰るよ、俺は」
「ん。じゃ明日な」
「うん」
「バイバイ」
俺はスクールバッグを肩にかけて教室をあとにした。
お前は本っ当につまんねぇ奴だな、か。宮田の声が耳の奥から何度も聞こえてくる。実際に俺はつまらない男だと思う。成績は中の上、部活は中途半端に補欠止まり、高校受験も親任せ、将来の夢とか興味のあることだってない。でも、俺とあいつらと何が違うんだろう。
何か目の覚めるもの、ないかな―――…。
道端に転がっていた空き缶を、何気なく蹴とばした。手ごたえのない軽い音をたてて、缶は十字路の電信柱にぶつかった。すると、十字路のかげから女の人が現れた。俺が蹴とばした缶を拾い、こちらを怪訝そうにうかがっている。恰好がかなり異様だった。時代劇に出てくる江戸時代のお姫様みたいに、髪を結って、着物を着ている。成人式で見るような派手な振袖ではなく、年期と由緒を感じさせる柄だ。なんだ、時代劇の撮影か? こんな街中で? あっけにとられていたが、この人が何者だとしても、俺が蹴とばした缶が危うくぶつかるところだったことは謝らなければ。
「すみません、当たるところでしたね」
「……」
「缶は、すみません、捨てときます」
別に俺がポイ捨てしたわけじゃないんだけど。
「……ここは、どこなのでございましょう?」
「は?」
予想外の言葉に間の抜けた返答をしてしまった。
「日本ではないのですか? 上総ではないのでしょうか?」
「え、ちょっとどうしたんすか? 日本でしょ」
カズサってなんだろうとは思ったが、というか、何に何を返答したらいいか分からない。
「……ここは…、何故…こんな……、日本…? 父上…母上……」
うわ言を言いながら頭を抱え、この妙な女の人は目に涙をためていき、ついにその場に座り込んでしまった。
「ただいまー」
我が家のドアを開けると、ちょうど姉ちゃんが通りがかった。
「……お帰り、どちら様? 彼女さん?」
結局、例の妙な女の人を連れてきてしまったのだ。
「あら信一、お友だち連れてきたの?」
キッチンからお母さんが顔を出した。そして俺の隣でしゃくりあげている、時代劇から出てきたようなこの人を見て、誰も言葉を発さなくなってしまった。
「いや、ちょっと…その、迷子みたいで」
「迷子? なんで連れてきてんの?」
姉ちゃんのツッコミはもっともだ。迷子なら警察に連れていけばいい。
「なんとなく警察とかは避けた方がいい感じがして、本当なんとなく…」
「信一、あんたねぇ」
「はい」
「たいがいにしときなさいよ」
「はい」
雲行きが怪しくなってきた。お父さんあたりが猫を拾って帰ってくると、決まってお母さんはこういう口調になる。
「まぁ、いろいろ拾ってくるのはお父さん譲りでしょ。お父さんが帰ってきたら相談しなさい」
そう、そして結局最終的にはお母さんが折れるんだ。
「上がって上がって、なんか飲む?」
姉ちゃんは早速馴れ馴れしく声をかけた。謎の女の人は丁寧に草履を脱ぎ、少し振り返って草履を自然に揃える。すり足で廊下を進む様は、茶道部の人の足さばきに似ていた。
「…で、連れてきたわけか」
お父さんの帰りを待って経緯を話してみたら案の定あきれられたが、やけにニヤニヤしている。ネクタイを外しながらお父さんは俺の頭を小突いた。
「お前もそのうち何か拾ってくると思ってたが、女性を拾ってくるとはな。やるな、信一」
「いや、そういうんじゃないから」
「今その人どうしてる?」
「姉ちゃんがなだめてる」
ちょうどその時、姉ちゃんが部屋に入ってきた。少し切迫した表情で、俺をにらんでいる。
「ちょっと信一、なんであんな子連れてきちゃったの?」
「なりゆきだってば」
「なりゆきじゃ済まないかもよ? あの子やっぱり変だって。微妙に古語混じってるし」
変だとは俺も思っていた。「カズサ」ってさっきネットで調べたら、この辺一帯の昔の県名みたいなものだった。そうだ、廃藩置県、この前のテストで出たよ。
「あの着物。去年あたし振袖着たけどさ、なんか着付けおかしいよ。ゆるいっていうんじゃないけど、ゆったり着てて。こなれてる感じ」
そうだ、普段から着物を着ている。いや、むしろ着物が普段着な様子だった。
「それにあの髪。地毛なんだよ、かつらじゃなくて。そんな人見たことある?」
やっぱりそうか。
「なんなの、あの子…? 頭がおかしいか、江戸時代かどっかからタイムスリップでもしてきたか、どっちにしてもヤバいって。警察行った方がいいんじゃないの…?」
お父さんは俺をジッと見据えている。判断を俺に迫っているんだ。
「…俺も最初からただの迷子じゃないって思ってたよ。言ってることがおかしいけど、嘘とか詐欺とかじゃないと思う。警察もいいんだけど、お父さん、あの人が何者か分かるまで、うちに置いとけないかな?」
「信一、あんた何言ってんの」
細く開いていたドアが勢いよく開く。お母さんと、その後ろに例の人がいた。聞いていたんだ。
「聞いてたのか。なら話が早い」
「ちょっと、お父さん…」
「とりあえず身元が割れるまで。いいかな、お嬢さん? 狭苦しい家ですが、お気に召すかな? お名前を教えてくださいますか?」
お父さんは急にうやうやしく話し、その人に頭を下げた。間を置いて、返答がある。
「はい、かたじけのうございます。わたくしは…、桜と申します」
あれから数日、話を聞けば聞くほど、様子を見れば見るほど、本当に江戸時代からタイムスリップしてきたんじゃないかと思えてきた。
一緒に何気なく歩いていて、決して俺の前を歩かないことに昨日気づいた。椅子が落ち着かないようで、リビングでもどこでも正座してしまう。テレビやらスマホやら、文明の利器にいちいち驚き、ガスコンロから出る火にはおびえてすらいた。
3日目くらいだったか、姉ちゃんが自分の服を着せて髪を下ろさせると、意外なことにこの人は俺と同い年ぐらいのようだった。着物で日本髪だったからまったく年齢が読めなかったわけだ。
「で? それなんてエロゲ?」
「…違うし」
だいたい“桜”の素性が本物のタイムトラベラーだと明らかになってきてはいたが、どう対応したものか進退極まっていたので、気紛れに宮田と植村にしゃべってみたらこの有り様だ。
「んー…、物体の移動速度が光速に近くなるにつれて時間の進み方が遅くなるわけだけど…」
「そういう話がしたいんでもないよ」
どうもこのふたりは話が斜めへ飛んでいく。まぁ、俺が切り出したこの話題の方がよっぽど斜め上だけど。江戸時代からタイムスリップしてきたっぽい人が家にいて、同い年ぐらいの大和撫子だって言ったら、確かにエロゲ状態だよな。
「そのお姫様とは普通にしゃべれるわけ?」
「うん、たまに単語がわからないけど、そんな困んない」
「ふーん…」
宮田がこんな風に考え出すときはろくなことがない。
「ちょっと今日お前んち行くから。んでお姫様にもっと話聞いてみようぜ」
この目の輝き。宮田は人生楽しいんだろうな。
あまり俺は友達を家に連れてこない。宮田を最後に呼んだのは去年の今ごろだったかな。
「お邪魔しまーす」
「はいはい」
桜はリビングにいた。ソファーの隣に正座し、お母さんの趣味の家庭菜園の本を読んでいた。下ろした髪はまさに緑の黒髪といった風情で、姉ちゃんの服が板についてきた。今日はうぐいす色のワンピースにチャコールグレーのカーディガンを着せられている。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、友だち連れてきたよ。その本読める?」
「難しゅうございますね。仮名が読みにくくて」
「そう。こいつ学校の友だちで宮田」
「初めまして、桜ちゃんだって? 肌きれいだね。休みの日とか何してんの?」
「ナンパすんなよ、お前」
嫌な予感は的中だけど、桜はクスクス笑いだした。
「お初にお目にかかります、宮田さま。桜にございます」
桜は心を開いたようだ。宮田と桜を俺の部屋に案内して、お母さんがいれてくれたお茶を持っていくと、すでに楽しげな声が聞こえてきた。
「へー、じゃあ源氏物語とか読むんだね」
「ええ、『玉の小櫛』もつぶさに読みました」
「…はい、お茶」
「サンキュ、なぁ、なんだっけ、『タマノオグシ』って。習ったよな?」
「本居宣長でしょ? 『源氏物語玉の小櫛』」
宮田を連れてきたのは正解だったな。桜は本居宣長より新しい時代の人間だって分かったわけだ。この屈託のなさにつられて誰でもペラペラしゃべっちゃうんだ。
「でさ、桜ちゃんは、気づいたらこの知らない日本に来てたわけ?」
核心。この話をしようとすると桜は決まって沈んだ顔になるから、避けてきてたんだ。でもこの雰囲気なら行けるかも知れない。
「…眠れない夜で、月が満ちていましたから、眺めようと縁側へ出たのでございます。ちょうど風も澄んでいて星も多く、しばらく見ほれておりました」
「うん、それで?」
桜は単語を選ぶようにゆっくり話す。俺と宮田はそんな桜から目を離さなかった。
「にわかに蛍のような灯りがひとつ、ふたつと、漂うように集うて参りました。見る間に嵩を増して、わたくしの背より大きくなり、辺りが灯りに包まれて、気がつきましたら信一さんがいらしたのです」
「結構分かったな、良かったじゃん」
「うん、助かった」
桜からいろいろ話を引き出してくれた宮田を、家の門まで送っていく。
「やっぱ、マジで江戸時代とかからタイムスリップしてきたんじゃねぇ?」
「やっぱそうかなぁ、どうしたら帰れるんだろう…」
帰るのがベストに決まってるけど、どうしたらいいか皆目見当もつかない。「タイムスリップ」でネット検索しても、植村が好きそうな話か、うさんくさいサイトしかでてこない。
「ま、あんまり気負うなよ。普通に来ちゃったもんは普通に帰るだろ」
「そんなもんかな」
「警察に突き出さなかったのは良かったと思うよ。変に騒がれたり、黒服の男とかにいいようにされたりするだろ」
「マンガじゃねぇんだから」
「お前、つまんねぇけど優しいとこあっから、桜ちゃんが安心できるようにしてあげなよ」
「うん、ありがとう」
「ホント素直だな、お前」
「なんだよ、気持ち悪ぃよ」
「じゃあな!」
高らかに笑って、宮田は帰っていった。本当、今日は宮田のコミュ力に助けられた。素直なのは宮田の方だ。
部屋に戻って着替えていると、桜がまたやってきた。
「どうしたの、桜?」
「先ほどのお話で、わたくしも伺いたいことがございまして…ようございますか?」
「いいよ、もちろん」
話がしたい気分になったのかもしれない。俺はベッドに腰かけて、桜には床の座布団を指差して座るように促した。
「わたくしが“ここ”に来てしまった因果を探っておいでなのですよね」
「そうだね、さっぱり分からないけど」
「“ここ”は、わたくしがおった日本から……、恐らく200年の後と」
本居宣長の「源氏物語玉の小櫛」が公刊されて、「源氏物語」が広く読まれるようになったのなら、およそ200年前からこっちであるはずで、江戸時代後期から幕末にかけての激動の世であったろう。さっき話を聞きながら植村にちょいちょい連絡して質問してたら、そんなふうに言われた。他にも植村は「無二念内払令って確か…」とか「富嶽三十六景はまだ世に出てないっぽいから…」とかブツブツ言っていて、結論、桜は1825年から30年頃の人間のようだった。桜本人は元号とかはよく知らず、「丁亥の年」とか言っていたけど、おおかたそれぐらいの時代だと俺も思う。
「200年、弱、だろうね」
「さようでございますか…」
見る間に表情が曇っていく。無理もない。
「大丈夫。桜が“ここ”に来てしまったということは、なんらかの方法があるんだ。それを見つければ必ず帰れる。帰してみせる」
「…“ここ”に来て、分からぬことは多うございますけれど、心安くいられるのは信一さまのお陰にございます」
柔らかに微笑む桜を見て、俺は思わず息を飲んだ。陽光が降り注がれた桜の花がほころんだかのようだ。
「わたくしも思いいづることがありましたら、お知らせいたします」
吸い込まれそうな瞳に茫然としていた。
「うん、なんでも言って」
「ありがとうございます。では、ごめんください」
何がなんでも江戸時代に帰す。余計なことを考えずに。桜が部屋を出ていくのを見送りながら、俺は軽く唇をかんでそう思った。
植村の協力のお陰で、タイムスリップについて様々な理論があることを知った。理解できたかというと、分かったような分からないような。それにタイムスリップが起こりうる(起こりうるのかどうかの判断もつかないけど)状況をどう再現するのかも、大きな問題だった。
「事実かどうかは怪しいけど、タイムスリップの起こる時は大きな光エネルギーが働いているようだね。強い光に包まれたりするのは典型的と言えるみたい」
「タイムスリップに『典型』を作れるほどの実例があるかな」
「確かに。まぁ、僕は今回の件で時間と空間の関係に興味を持ったよ。星を眺めても、その輝きは今の輝きではない。そのタイムラグは距離があり空間があるから生じるわけで、しかも『タイムラグである』と認知して初めてそう定義されるわけだね。つまり主観的な時間は常にタイムラグを伴うもので…ごめん、マニアックで」
「ホント勘弁してよ。でも、おもしろいね」
いくつかの理論を読んで、俺も主観的な時間とはなんなのか勉強してみたいと思った。バカみたいだけど、授業中は時間が長く感じるのも「主観的な時間」を論じる上で重要かも。そういえば、あれから桜と話していると時間があっという間に過ぎている。光の速さのように。
「じゃあ明日は9時半に西口ね」
「うん、悪いね」
「いいよ、おもしろくなってきたし」
明日、植村に付き合ってもらって県立中央図書館に行くことにした。何か活路が開かれるかもしれない。
「さようでございますか、明日大きな文庫に行かれるのですね」
「うん、何か分かるといいんだけど」
その夜、桜が俺の部屋を訪れたので、明日図書館に行くことを話した。
「数多の書物が見られるのでしょうね」
「そうだね。桜あんまり外に出ないけど、一緒に行く?」
「よろしいのですか?」
「本読むの好きなんでしょ?」
「…はい」
太陽みたいに、破顔する。最近いろんな顔を見せてくれる。
「桜からしたら変わった物が多いだろうし疲れるかもだけど、せっかくだから外出てみようよ」
「ありがとうございます。楽しみですね」
「良かった、お母さんにも言っておくよ」
少し、いや、かなり俺も楽しみだ。桜がどんな表情を見せてくれるだろうかと。まぁ、植村もいるんだけど。
最寄り駅から電車を乗り継いで1時間足らず。80万冊以上の蔵書を持つ県立中央図書館にやってきた。
桜は近所までお母さんや姉ちゃんと買い物に行くことはあったが電車に乗るのは初めてで、小さな子どものようにソワソワしっぱなしだった。それでも、図書館に入って、そびえ立つ本棚が列をなしているのを見て、今日で一番驚いた顔をしていた。
「…夢の中にいるみたいです」
「桜さんは本当に本が好きなんだね」
「植村、とりあえずどの棚見よっか?」
「物理学から探してみようか」
桜と植村も、気兼ねなく話せるようだ。しとやかな外見や仕草や言葉づかいと裏腹に、桜はよく笑うしよく話す。
「…信一さん、あちらの書物は?」
美術書のコーナーには浮世絵の画集があり、表紙がこちらに見えるように陳列してある。
「あぁ、浮世絵だね。見てみる?」
「佐々木くん、あんまり未来のことが分かる本は良くないと思うよ」
「そっかな」
「僕、物理学の本見てるね」
「うん」
桜は地方武士の娘のようで、あまり幕府がどうとか分からないらしいが、今の世で刀を差している人はいないことも、「お上」がなんか自分のイメージと違うということは分かっている。俺は割と桜に聞かれたことは答えてしまっているし、今さらじゃないかな。
「わたくしも、古き世の様を見とうございます。“ここ”の皆さまも、このような絵を好みになさるのですね」
たまに桜はサラッと自分が過去から来た人間だと言ってのける。ネタであるかのような言い方で、達観した感すらあり、ここ数日は憂いを表すことが少ない。帰るつもりでいるのか、帰れないつもりでいるのか、帰らないつもりでいるのか、なんともつかめない。
「佐々木くん、やっぱりかなりいい本があるよ」
植村が本棚の端から顔をのぞかせた。
「本当? 俺も見るよ」
「わたくしはこの辺りにいてようございますか?」
「うん、あんまり遠くに行かないでね」
子守りのようだ。
「ほら、佐々木くん、この本とか。かなり具体的だよ」
「そうだね」
内容がよく分からないので、何がどう具体的なのかさっぱりだけど、適当に相づちを打っておいた。
図書館で3冊の本を借りた。“時間”という概念を分かりやすく書いた本と、タイムスリップの実例がかなり集められている本。それから桜が熱心に読んでいた、日本の民族衣装の移り変わりの本だ。駅前からバスに乗るけど、俺らと植村は方向が違う。
「それじゃ、早速何か実践してみてもいいのかもね」
「ちょっと、うちでもみんなで考えてみるよ。今日はありがとう、植村」
「いいよ。素敵なお姫様と友だちになれたからね」
「宮田といいお前といい、ナンパ野郎ばっかだよ」
「家に連れて帰っちゃう佐々木くんが、一番大胆だと思うけど?」
桜がチラリと俺を見て、すぐに目をそらした。
「じゃあまた明日。何かあったら教えてね」
「うん、バイバイ」
「植村さま、ありがとうございました」
植村を見送って、俺と桜はどちらが言い出すでもなく、ブラブラ歩き始めた。
空はもうすぐ夕焼け色になる。どこを歩いているのか、何を話しているのか、桜がどんな声で笑うのか、鮮明に心に刻まれているのに、なぜか意識が遠くにある感じだ。時間は止まっているようで、光より早く進んでいるようにも感じる。いつの間にか家に着いていた。家に着いた、と意識してようやく、桜と手をつないで歩いていたことに気づいた。
平易な言葉で時間の概念を書いたその本は、俺が最近感じている「主観的な時間」の矛盾と、逆にその正当性を分かりやすく論じていた。物理学と心理学っぽいことが同じテーブルに並んでるわけだけど、なんでだか腑にストンと落ちる。
「信一さん、何かつまびらかになりましたか?」
居間のソファーで読んでいたら、桜が自然に隣に座った。余程気に入ったのか、民族衣装の本を小脇に抱えている。
「これは“時間”について説明してる本だから、帰れる方法とかは分からないね」
「さようでございますか」
桜は何を話すでもなく、ただ本のページをめくっていた。伏し目がちの目線の先に何を見ているのだろう。江戸時代のページはサラッと読んで、明治・大正時代の辺りでは、一字一句逃すまいとしている。さらにページをめくる。昭和・平成。戦時中の日本軍の軍服、太陽族の開放的な格好、背広姿のサラリーマン、一昔前のガングロギャル。
「この続きが信一さんですか?」
小首をかしげて俺に聞く桜は、自分がどんな存在なのかを正確に理解している。 桜はどうするつもりなのだろうか。いや、違う。俺はどうしたいのか。桜をどうするつもりなのか。もといた時代に帰す方法があることは、俺が借りてきたもう一冊の本の方で分かっている。桜も、俺がそれをつかんでいることを知ってるんじゃないか。やはり鍵は満月の夜、明日だ。
「ゴメンね桜ちゃん、あんまり着付け手伝えなくて」
「構いませんよ。平素はおのれで着ていますから」
そりゃ毎日着物を着ているのだから、自分で着付けくらいできて当然だ。でも、姉ちゃんは手伝いたかったようだ。
「桜ちゃん今夜、本当に江戸時代に帰れるのかな? さみしくなっちゃうね」
「さようですね」
「もう少しいれたらいいのに。ねえ、信一?」
姉ちゃんは無邪気に俺に振る。
「桜はここの人間じゃないから、帰るべきだよ」
「……あたし、お母さん手伝ってくる。今日は桜ちゃんの最後の晩餐だから、豪華にするってさ」
気を使ったつもりか、姉ちゃんは台所へ向かった。余計なお世話だ。ふたりきりにしないでほしい。
「桜、案外早く帰れるね」
「…帰るのですよね、わたくし……」
「……」
「……」
「…桜」
ずっとうちにいてくれないか? そう言いかけて、思いとどまる。
「信一さん、わたくし…」
桜も何か、言葉を喉に押しとどめている。そんな顔をしないでくれ。帰したくなくなる。ああ、帰したくなくなる。
「桜さん、そろそろ子の刻だ。外に出てみようか」
桜と一緒に家族で食卓を囲み、最後の時をかみしめていると、お父さんが声をかけた。
「はい」
みんなでリビングから庭に出て、桜は最後に草履を履いて降りてきた。澄んだ空に北極星がはっきり見え、真後ろには満月が重々しく輝いていた。
「…これ、何…?」
姉ちゃんが指し示す方に蛍のような淡い光が漂っている。それらが集まり、あっという間に直径2メートルくらいの球体になった。桜は吸い寄せられるように光の球に近づいていく。
「桜ちゃん!」
姉ちゃんが桜を呼び止めた。
「元気でね、桜ちゃん」
「また会えるといいわね」
「今度はこちらから行くかも知れないな」
みんな桜に別れのあいさつをする。桜は少し俺の言葉を待っていたが、何も言えない俺に業を煮やしたか、光の球に向き直った。俺は……。
「桜…!!」
再度振り返った桜は、涙を流していた。俺は反射的に桜を抱きしめた。細い肩が震えている。
「…信一さん……」
蚊が鳴くような声で、桜は俺の名を呼んでくれた。桜を抱く腕の力をさらにこめ、そしてゆるめた。
「桜、次は俺が会いに行くよ。絶対」
「…はい」
「信一、光が消えそう!」
姉ちゃんの一言を合図に、桜は光の球に向かって行き、その姿が光に包まれかすんできた。最後に静かに振り返る。
「信一さん、ありがたき幸せにございました」
そのまま光と一緒に桜の姿は消えた。
あれから半年、公立高校の入試を目前に控えている。結局、俺は一高を目指すことにした。植村に教わったりしてかなりがんばってる。
塾に向かう途中、ノートがなくなりそうだったのを思い出し、文具も揃ってる本屋に立ち寄ることにした。自然に入試対策のコーナーに足が向き、今さら新しい参考書を買ったって仕方ないと思い直し、レジを探して店内を見渡すと、ひっそりとある歴史書のコーナーが目に入った。
桜がいなくなってから江戸時代に興味を持った。本居宣長の「源氏物語玉の小櫛」も読んでみた。歴史書コーナーの江戸時代の列には、その「玉の小櫛」やら「東海道中膝栗毛」やら「白浪五人男」やらが並んでいる。
「お客様、後ろから失礼します」
店員が俺の背後から本を補充しに現れた。その店員の持っている本には、「桜姫日記」とタイトルがついていた。思わず手に取り、ページをめくってみる。
「佐々木じゃん、珍しい本読んでんな」
「勉強ばかりしてるより、息抜きに読書もいいよね」
レジの側に宮田と植村がいた。桜が姿を消したことは話していたが、何事もなかったかのように、その話題はあがってこない。
「ああ、たまたま目について」
本棚に戻そうとする。
「あ、佐々木くんそれ! 今話題になってる本だよ」
そういうのに疎い俺と宮田は、改めて本のタイトルを見た。
「なに植村、いわくありげだな」
「それね、最近この近所の旧家で見つかった日記でさ、間違いなくおよそ180年前に書かれた物なんだ。でも内容がまた不思議で、その著者が妙な世界にいつの間にか来てて、帰っていく話なんだ」
「…おい、佐々木…」
宮田が俺をにらむように見る。植村は微笑みながら話を続けた。
「その妙な世界というのが、現代にそっくりなんだ。車があったり、パソコンがあったり。歴史学者とか、物理学者とか、様々な分野の人が議論をしてるようだね。江戸時代の人が現代にタイムスリップして、なんらかの手段で江戸時代に戻って日記を書いたっていう説もあるみたい。実際、どうだろうねぇ…?」
俺はその「桜姫日記」を購入し、塾に向かって歩きながら読んでいた。宮田と植村は俺の先を歩いてどうでもいい話をしている。
これは間違いなく桜が書いた日記だ。俺たちの出会い、家での宮田との会話、植村と行った図書館からの帰り道、家族との食事、すべて桜しか知らないことだ。
わたくしは信一さんにお会いする日がくると信じ
それを心の頼りとし
日々を送りとうございます
「…でその時あいつがさ、なぁ佐々木?」
宮田が振り返り、俺の顔を見てギョッとした。俺が泣いていたからだ。
「はぁ? 何泣いてんだよ。桜ちゃん思い出しちゃったか?」
「うるせぇ、そんなんじゃねぇよ」
この日記の著者、つまり桜は、本の解説によると35歳まで独り身で、その後は出家しているらしい。当時嫁にも行かず、婿もとらず、頑固に独身を貫くのは相当な覚悟だったろう。もともと仏道を志していたのならもっと早く出家するはずだ。俺を待っていたのだろうか。桜の中で、どんなに長い時間であったろうか。
「植村、早く塾行こう!」
俺はふたりを追い越して走り出した。桜、俺は決めたよ。絶対に桜に会いに行く。桜の未来を変える。そのために学ぶことは山ほどありそうだ。物理学も心理学も日本史も古典も、俺が江戸時代に行くには不可欠になるはず。人間的にもデカい男にならなきゃ。宮田のように大胆に、植村のように理知的に、お父さんのように厳しく、お母さんのように優しく、姉ちゃんのように社交的に。そして俺らしく素直に。
「おい待てよ、佐々木!」
「佐々木くん、待ってー」
幸せにできるように。一緒に生きられるように。未来を変えられるように。桜、待ってて。