続き 10
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昼間であること、従って人の目がある、ということに油断していた。
彼女が姿を消したことに、家族はしばらくして気づいた。
が、同時に台所のナイフが一本消えたことまでは、誰も気がまわらなかった。
気づいたとしても、まず彼女を見つけなければどうにもできない。
彼女の母が、あわてた様子で走っていくのを見て、ラファエルは彼女が逃げたのか、とすぐに思い当たった。
なんとなく、いやな予感がした。
見つかりやすい昼間に逃げ出す、後のことを考えていないその行動。
そして、会いに行く相手は、悪魔。
ここで心配していても何にもならない。
とにかく森に行くしかない。
彼は仕事を放り出し、全速力で森へ走った。
前にレイアと悪魔が会っていたあたりをめざして。
◆
小さな彼女の肩に顔を押し付けていた。
抱きしめた彼女の呼吸が、耳元で聞こえる。
もう止まってしまいそうな、弱々しいその音。
とまる瞬間が、怖い。
目の前にある現実を、この世界すべてを拒絶するように目をきつく閉じて、彼は彼女を抱きしめ続ける。
まるで、そうしていれば彼女が死なないと、信じてでもいるように。
もうすぐきっと止まってしまうなら、本当は聞いていたくない。
けれど、生きている彼女の音を、最後まで聞いていたい。
血のニオイがする。
血のニオイしかしない。
まだあたたかい、やわらかなカラダは、もうだらんとしてほとんど動かない。
もうすぐ確実にやってくる、彼女が自分から永遠に奪われる瞬間。
かすかに、余韻のように残っていた呼吸が、完全になくなった。
彼は閉じていた目をあけ、顔をあげた。
ぼうぜんとした彼の表情は、見ようによっては無表情にもとれる。
彼女の命が、そのカラダを離れ、彼は唐突に幸せな気持ちが自分を満たすのを感じた。
苦痛だとか、悲しみだとか、言葉では言い表せない、彼を支配していたすべてを押しのけてしまう、大きな波。
一番近くで見た、あの瞳を、笑顔を思い出す。
これは、彼女だ。
彼女が自分の中に入ってくる。
これで、ずっと一緒にいられるんだ。
一つになる意識を通して、最後に彼女がそう思っていたのがわかる。
そして、彼女の命が完全に彼に吸収されてしまうと、幸せな気持ちは幻だったかのように消え、彼はまたもとのヌケガラに戻った。
本当はあのとき、俺はお前を綺麗だと感じていた。
一番幸せそうに見えた彼女の笑顔が、胸によみがえる。
そのときを再現してみるように、血でぬれた彼女の唇に、唇を重ねた。
なんだか別のもののように感じる。
なまぐさい血のニオイも、塩気をふくんだその味も気にならなかった。
ただ、笑顔がそこにない事だけが彼をさらに打ちのめした。
力なく、けれど手を放すこともできずに、だんだんと暖かさを失う彼女の体を抱いていた。
すがりついていた。
彼の耳に、遠い足音が聞こえる。
◆
うずくまる黒い影がみえた。
あれは、悪魔だ。
抱いているのは、レイアだろう。
怪我でもしたのだろうか。
苦しい息をガマンして、ラファエルはさらに走る。
近づくと、彼女は動いておらず、あたりは赤く。
血だらけの彼女を、無表情で悪魔が抱いていた。
ついに悪魔が彼女の命を奪った、だれが見てもそういうことだった。
「・・・!おまえは、レイアを!」
悪魔に対する恐れよりも、レイアを殺された怒りが先に立った。
悪魔が血の付いた顔をあげ、感情のない声で言う。
「食った」
口元にも血がついている。
彼女の血をすすってでもいたのか。
「返せ・・・レイアを返せ!」
その亡骸だけでもいいから。
その叫びは、悪魔を責めるように。
「いやだ」
悪魔が死体を抱く腕に、少し力をこめたように見える。
「なぜ、・・・殺した?!」
理由を聞いても彼女は生き返らない。
けれど、理由がなければ、彼女が哀れすぎた。
愛していたのに、殺されるだなんて。
「こいつが望んだ。」
うそだ、とすぐに言い返せない。
確かに、森に行けなくなってからのレイアの様子は、そんなことを考えかねないものだった。
それでも、言うことはまだある。
「だったら殺すのか!レイアはお前を、お前なんかを信じて、愛してたんだぞ!」
「あい?そんなものはない・・・どこにもだ!ありもしないものをふりかざすな、人間。」
レイアの死体を抱いたままの悪魔が、光る瞳でにらんでくる。
ラファエルは、負けじとにらみかえした。
「そうか・・・こいつが好きだったのか。ならお前も、俺に食われろ。俺のなかでこの女と結ばれる、幸せだろう?」
あの光る瞳で、心をのぞかれたらしかった。
悪魔の力を見せ付けられ、じわり、と恐怖がわいたが、すでにケンカを売ってしまっている。
どちらにしろ死ぬなら、ここで引き下がるのは馬鹿馬鹿しい。
死ぬのは言いたいことを言ってからだ、とラファエルは覚悟を決めた。
じゃなきゃレイアがかわいそうだ、と。
「お前は、・・・レイアを、どう思ってたんだ?」
無表情だった悪魔の顔が、ピクリと反応した気がした。
悪魔が何を思ったかはわからない。
けれど、少しは後悔すればいい、してほしい。
彼女の気持ちが届けば、とラファエルはたたみかける。
「なぜいままで食わなかった?僕は、見たんだぞ!あんなに親しそうにしてたじゃないか!僕は・・・僕は、だから・・・信じてたんだ!あの子はお前を悪魔と呼んだ、けどおかしくなることもなかった、すぐ殺されることもなかった、だから・・・お前は本当は悪魔じゃないんじゃないかって・・・お前もレイアを・・・」
かすかに、悪魔が眉を動かす。
「うるさい!・・・悪魔が、人を?愛・・・なんてない、ありもしないものをふりかざすなと、いっているだろう?!」
声を荒げた悪魔の顔は、怒りよりも、嘆きを感じさせた。
ラファエルはなおも言葉を続ける。
「じゃあ、なぜずっと彼女を抱いてるんだ?なぜそんなに苦しそうなんだ!なぜ・・・なぜ・・・泣いてるんだ・・・」
(続)




