続き 7
◆
木々の間から、月の光が射す。
ふらふらとした足取りで、深い森の中をレイアが歩いてくる。
家族も、友人も、帰るべき村も何もいらない。
ただ、会いたい、そばにいたい、ううん、いてほしい。
魅入られているのかもしれない、魔物でもいい。
死んじゃうかもしれないなんて、もうずっと昔に覚悟したことだもの。
彼女は、家族が寝静まったところをそっと出てきたのだった。
二度と戻らないつもりで。
大切な家族たちと、少しだけ心が通い始めた悪魔と。
選べなくて、迷い続けて、疲れ果てて、それでも、虚無感を抱いたその瞳が、一瞬だけ優しく見えた瞬間が忘れられなくて。
暗い森を彼女は歩く。
さよなら、母さん、父さん、おにいちゃん、村のみんな。
みんなは、あたしがいなくても大丈夫。
けど、悪魔は・・・あたしは、悪魔と一緒にいたい。
つかれきった顔に、置いてきたもの全ての重みをたたえた涙が光った。
ふわりと、花のような、なんだかいい香りがする。
そう感じた瞬間、体の自由が奪われた。
まだ呼んでもいないのに、悪魔が柔らかく彼女を抱いていた。
「泣くな。不快だ。」
冷たい言葉とは裏腹に、大きな薄い手のひらが、ぎこちなく彼女の髪をなでる。
「ぅ、ふっ、うえええええん!」
その、ほんの少しの優しさは、彼女の涙をとめどなくあふれさせた。
「うるさい。」
優しい声で、悪魔は腕の中の彼女にそう言った。
長い時間、彼女は泣き続けたが、深い森がその声をすべて呑み込んだ。
いつの間に眠り込んだのだろう、あれは夢だったのか、彼女は自分のベッドで目を覚ました。
悪魔は、見当たらない。
彼のいない、どんよりとした、よどみの中をただようような毎日。
ため息をついて身を起こした彼女は、あきらめと絶望に満ちたそこへ戻っていった。
◆
深い緑。
暗い森の奥、空気は重く沈み、動物たちさえそこにはいない。
その、森の奥にただよう空気そのものが彼だった。
昨晩、泣き疲れて眠ったレイアを家まで送り届けた彼は今、人の形をほどいて、霧のように森に漂いながら休んでいた。
人間であれば、眠っている状態。
けれど彼は、完璧には眠っていなかった。
まどろみの中で考え事をしているが、そうしたくてそうしているのでもない。
すべて忘れて、眠ってしまいたいのに、聞こえてくるのだ。
泣いているような、震える彼女の声、彼を呼ぶ声が。
だから、当然考えているのは、その彼女のこと。
腕の中で泣いていた彼女、彼女の涙が流れるたびに襲ってくる、氷よりも冷たい手ではらわたをかきまわされる不快感。
心は幾度もとがった爪をつきたてられ、いまにもバラバラになりそうだ。
その涙が、なぜこんなにも不快なのか。
彼女の笑っていた顔ばかりが、心によみがえってくるのはなぜなのだろう。
その涙をすべてこの胸にうけとめてやりたい、できるものならすぐにでも笑顔に変えてやりたいと、強く思った。
なぜ泣いているのか、あのとき彼は彼女の心を探った。
彼女が今考えていることも、記憶も、魔物である彼には目の前でおきたことのように理解できた。
そして、彼女が泣いているのは、ほかの何より自分のせいなのだと知った。
ならば、自分が消えれば、彼女はもう泣かずにすむ。
それは、彼女の心を探るのと同じく、魔物の彼にはなんでもないことだ。
彼女の記憶を消し、二度と姿をあらわさなければいいだけ。
意識しなくともその熱を肌で感じるほど、彼女が彼に寄せる想いは強かった。
けれど、その想いも、共にすごした短い日々の思い出も、初めから無かったように綺麗に消してしまうことが、彼にはできる。
できるはずだった。
そうしなければ、どうなるかは分かりきっている。
悪魔と人間の恋など、不毛だ。
何も生み出さない。
生み出すどころか、壊し続けるだけだろう。
彼女がどんなに求めていようと、悪魔は悪魔、人に害をなすもの。
ほかのなにかに変わることなどできない。
それゆえに、待っているのはきっと、想像もつかないくらいの悲劇。
それでもそうしなかった、いや、できなかった。
それが自分にとってのタブーであるかのように、彼女の中の自分を消してしまうことで、自分自身が消えてしまうとでも言うように。
それでも、そうしておくべきだった。
悪魔・・・ねえ悪魔。
彼女の声がきこえる。
やはりそうしておくべきだった、でもできなかった、それでも・・・。
思考は堂々巡りを繰り返す。
けれど、人は忘れることができるから。
きっと、今のこの時を、何ヶ月か、もしかしたら何年間か、やりすごしてしまえば、彼女は、レイアはいつか俺を忘れる。
そしてこの声もいつか聞こえなくなる。
この声を聞くことは、呼びかけを無視し続け、耐えることは自分に課せられた罰なのだと、彼は思う。
いつか聞こえなくなるであろう声。
彼女の意識がある間、絶え間なく聞こえてくるそれは彼を休ませてはくれなかったが、けれどそれは彼女の想いそのもの。
聞こえなくなるときを思うと、神経がすり減っていくこの責め苦さえ、なにか大切なもののような気がした。
ねえ、悪魔。
聞こえ続ける彼女の声は、今にも泣き出しそうで、いつかのような愉しげな響きは、どこにもない。
どこにも。
広い空間を霧のように漂っていた彼は、人の姿を取り一箇所にまとまると、みずからの肩を抱き、うずくまった。
泣いている小さな子供のように。
涙は、流れていない。
きつくつかんだその肩が震えることもない。
石のようにぴくりとも動かず、ただ、かすれた声で一度だけ、彼女の名を呼んだ。
「・・・レイア」
そうして自分自身を抱きしめていなければ、散り散りになったまま消えてしまう気がしていた。
(続)