続き 6
冗談じゃない、もう死にそうだ。
「ぐぅ、ひぐっ、はあひぇっ!」
苦しい、放せ、と言ったつもりだった。
手がジャマで、うまくしゃべるどころか、声を出すたび吐き気がする。
「ふ・・・ふふ。何言ってんのかわかんねえよ、ブタさん。それより喜べ、契約を断ってくれた勇気ある…騎士殿には、これからもっと、つらぁくてぇ、苦しくてぇ、めっちゃくちゃ痛い思いが待ってるぞ・・・く…くくく。」
騎士?
おれがひそかに自分を騎士と思っている事を、こいつは・・・。
考えることさえできなかった。
後ろのやつが、しゃべりながらぐりぐり手を動かしたからだ。
「ぶおうっ、…ぉぶ、ぐ…ぶっ!」
とうとう、おれは吐いた。
口に手を入れられたまま、胃の中のものを噴射した。
わずかなスキマから、吐しゃ物が部屋の中へ飛び散る。
後ろで、またあいつが笑った。
「くはははは!きったねえなあ!はははははは!」
大笑いしながらようやく手を抜くと、奴はおれの服のあちこちにソレをなすりつけ、ゲロをふいた。
「えあ…、はあ、はあ・・・」
おれは、あえぎながら床に倒れこんだ。
振り返ると、おれの後ろにいたのは天井すれすれにまで伸びる黒い影だった。
妙に細長い、長すぎるシルエット。
高すぎる位置から、白い顔がおれを見下ろしている。
大笑いしていたハズなのに、まるで表情が残っていない。
振り乱した黒髪からのぞく、色のない瞳から目が離せなくなっていた。
コイツがなんなのか、どこから来たのか、なぜこんな目にあうのか、ぜんぶ、全部もうどうでもいい。
ただ。
「た…たすけて・・・」
赤黒い線がうごめき、答える。
「い・や・だ。言っただろう。Dead…or die だ。」
「いやだ・・・いやだ!いやだっうわーっあーーーっ!!!」
おれは叫んだ。
声は、出ていなかった。
「しぃいっ、騒ぐなよ。」
唇の前に人差し指をたてて、白い顔が近づいてくる。
目の色が、おかしい。
光ってる。
悪魔だ・・・本当に、こいつは悪魔なんだ。
「この姿を維持するのも、お前の母親をテレビに集中させておくのも、今の俺にはそれなりの負担なんだ。この上近所の人間まで呼ばれたら、ゆっくり楽しめないだろう?お前と過ごす、夢みたいなひと時をさーぁ。・・・まあ、わかってるだろうがお前にとっちゃ悪夢だ。くっ、くくくっ。」
「・・・ひっ、はひっ、ひっ、ひ」
耳に音が届いて初めて、自分が息をしていることに気づく。
ひどく早い。
からだ全体に響く、鼓動も。
「ここに、この家の台所から失敬した包丁がある。イチバン痛そうなやつを選んでやった・・・はい、持って。」
おれの手に包丁を持たせると、奴はいやらしく、ただでさえ細い目をさらに細め、笑った。
「ひぃ、は・・・はぁあっ!」
今度は声が出た。
同時に俺は包丁を、横に思いっきり振っていた。
やられる前に、やってやる。
包丁は確かに、奴の体を切りつけた。
なのに手ごたえはなく、何もないところと同じようにそこを通り過ぎた。
「やると思った。くくくっ、そんな弱いんじゃ、レイを守れないぞ?悪魔から。」
叫びたいのに、また声が出ない。
「それは、そうやって使うんじゃない。こうだ。」
奴がしゃべると包丁を持った右手が、俺の意思と無関係に動き出した。
残された左手で、俺は右手を押さえた。
右手は自分の、おれの腹をめがけて包丁を突きたてようとしている。
奴は、面白そうにおれの右手と左手が戦うのを見ている。
「う・う・・・うぐっ!」
「遠慮するなよ、どうせ大きな声など出せない…と、いうより俺がもうガマンできないな、くくくっ。」
右手に、悪魔の白い骨ばった手が、添えられた。
衝撃に、一瞬視界が白くなる。
時間が、ひどくゆっくりと流れる、数秒間。
突き刺す感触と、食い込んでくる感触が、同時にある。
(続)