続き
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『桃苑』駅から、歩いて20分くらい。
便利でもなければ、特に不便でもない場所に立つ、小さいアパートがあった。
入り口には、金のプレートでできた鐘の絵を添えて、飾り文字で“Happy Bell Heights”とある。
そのハッピーベルハイツ、303号室にはイソウロウ(居候)がいた。
今日も留守を任されている彼は、まだ小学生くらいの幼い少年だ。
その彼は、イライラした口調で電話をしていた。
「だから、どうして断れない?兄貴と俺とどっちが大事なんだ?も・ち・ろ・ん、お前があいつを取るなら俺にも考えが・・・何?選べないだとぉ?いいだろう、覚悟しろ。・・・やだって、お前・・・仲良く?無理だ。・・・ ・・・しつこいな、わかったわかった、わーかーった!少しは合わせる!それでいいな?」
結局、相手の言うとおりにするハメになったようだ。
『やった、ありがと零さん!』
電話の向こうではしゃいだ若い女は、この部屋の主、レイこと鳴神鈴。
話の内容は、彼女の兄が今日これから泊まりに来るということ。
部屋の主であるハズの彼女が、わざわざ居候にその許可を求めているのだ。
そんな事をするのも、居候の態度がヤケにでかいのも、彼女が居候に惚れてしまっているせいだ。
とはいえ、決して彼女は危ないお姉さんではない。
今は小さなカラダで、女の子みたいにキレイな顔をして、欠点といえば少々顔色が悪いくらいのこの子供は、元からこうだったワケではない。
そもそも人間ですらない。
自称“悪魔”。
自称とはいえ、それらしい翼や芸当を過去にレイも目の当たりにしていて、ウソとはいいきれない。
レイと初めて出会ったとき、彼は異様にひょろ長いカラダと、長い黒髪とを持つ、黒ずくめの服を着た不気味な男だった。
青年というには落ち着きすぎていて、中年というには若く見える、その陰気な男にレイは何故か強くひかれた。
それからしばらくして、レイの方から押し切るようにして始まったこの同居生活を、初めのうち彼は受け入れていなかった。
ただ、逆らえなかったのだ。
レイに会うまで、名もないただの“悪魔”だった彼は、彼女の聞き違いで“零”という名をつけられていた。
二人はそのとき気づかなかったがそれは、つまり名前を与えることは“悪魔”にとって主従契約を意味していたらしく、それ以降 零はレイに逆らえなくなった。
交渉の余地はあっても、相手の言うことがまるでもう一人の自分の意思のように感じられるため、長い抵抗はできない。
あまりハッキリと彼女に逆らえば、体が動かなくなったり、ひどい時にはその力、魔力であり生命力を奪われた。
今まで零は、願いを叶える契約を通し、人間をエサにして生きてきた。
その自分が、人間の言いなりになる状況は、彼にとって受け入れがたかった。
よって彼は、ある時レイの使い魔という境遇から抜け出そうとする。
どれだけ自分が恐ろしいかをレイにわからせ、向こうから関係を断ち切ろうとするようしむけたのだ。
結果は失敗で、主人に逆らい、死を意識するほどの恐怖を与えた使い魔は、その力のほとんどを失い、小さな子供の姿に変わってしまった。
生きてはいられたが、悪魔らしいことは何一つできない。
そうなってしまっては、すさまじく無欲な主人の下で、ただの家政夫として生きるのもやむをえなかった。
そうこうするうちに、主人のささやかな協力もあり、零はほんのわずかずつ回復していく。
一方、彼から抜き取られた力は、空気にとけてみたり、あちこちで小さく固まってそれぞれ別の魔物となったりしていた。
零を本体とするなら、彼より生まれ、時に彼の姿を借りるそれらは“影”に似ているかもしれない。
その“影”たちは、時に自主的に零を探して戻ってきたり、己が本体だとばかりに敵対したりしながら、結局は零の元へ大なり小なり帰ってきた。
ある程度力が戻ると、それは零の外見にも反映した。
少し成長した今の彼なら、一時的になら元の(大人の)姿に戻ることも、人間を惑わせたり、魔物、たとえば“天使”や他の“悪魔”などと派手なバトルを繰り広げることもできた。
が、家政夫の日常生活にそんなものは必要なく、他の魔物や“影”にでも出会わない限り零はただただひたすらめちゃくちゃ態度の悪い家政夫に徹していた。
それというのも、だんだんと、この生活もそんなにイヤじゃない、と思い始めたせいだ。
(続)