『あの日、教会に埋められた私を掘り起こしたのは、私を殺した婚約者の弟でした』
「君のことは、最初から愛していなかった」
——え?
ウェディングドレスの裾を踏みそうになりながら、私は目の前の婚約者を見上げた。
今、なんて言った?
桐生隼人。名門桐生グループの御曹司にして、社交界の誰もが羨む完璧な紳士。柔らかな栗色の髪、温かみのある茶色の瞳。その瞳が今、まるで路傍の石を見るような冷たさで私を見下ろしている。
「隼人……さん?」
声が震えた。当然だ。だって今日は、私たちの結婚式の日なのだから。
純白のドレスに身を包み、控室で最後の身支度を整えていた私のもとに、彼はやってきた。『少し話がある』と。てっきり、緊張している私を気遣ってくれたのだと思った。
——馬鹿みたい。
「白峰の財産さえ手に入れば、君は用済みなんだよ」
微笑んでいた。あの優しい笑顔のまま、残酷な言葉を紡いでいる。
「え、ちょっと待っ……」
足元がふらついた。視界がぐにゃりと歪む。
おかしい。さっき飲んだシャンパン。彼が「花嫁に」と手渡してくれた——
「あ……」
膝から力が抜けていく。冷たい床に倒れ込む寸前、隼人さんの腕が私を支えた。
ああ、やっぱり優しいひと。
そう思いかけて、気づく。
この腕は、私を支えているんじゃない。
——運んでいるのだ。どこかへ。
「心配しなくていいよ、柚月」
耳元で囁く声は、どこまでも甘い。
「君の前にも二人いたけど、みんな静かに眠ってくれたから」
意識が、闇に沈んでいく。
最後に見えたのは、ステンドグラスの割れた——廃墟のような教会の天井だった。
◇
目を開けた瞬間、理解した。
——私は、土の中にいる。
口の中に入り込む土。鼻を塞ぐ湿った匂い。全身を押しつぶすような重さ。
息が、できない。
「っ——!」
叫ぼうとしたけれど、声にならない。手足を動かそうにも、わずかにしか動かせない。
嘘でしょう。
嘘でしょう嘘でしょう嘘でしょう——!
『生き埋め』という言葉が、脳裏をよぎる。
信じたくない。信じられない。でも現実として、私は今、土の中で窒息しかけている。
——死ぬの?
こんなところで?
結婚式の日に、婚約者の手で、生きたまま埋められて?
涙すら出なかった。だって出口がないのだ。この暗闘の中には。
隼人さんの顔が浮かぶ。
初めて出会った日の、あの優しい笑顔。
『柚月さん、貴方のような方が僕の婚約者になってくださるなんて光栄です』
嘘だったんだ。全部、全部。
私が必死に尽くしてきたことも。彼に愛されたくて頑張ったことも。母を早くに亡くして、父にも構われず、愛情に飢えていた私を——この人なら満たしてくれると信じたことも。
全部、利用されていただけ。
いやいやいや、おかしいでしょ。
内心でツッコむ癖が、こんな時にも出る。
人生二十四年間、良い子で生きてきたのに。言われたことは何でも従って、誰にも迷惑かけないように微笑んで。婚約者に尽くして尽くして尽くして——
——殺されるの、私?
意識が遠のいていく。
酸素が足りない。胸が苦しい。視界の端が暗くなる。
ああ、こうやって死ぬんだ。
誰にも知られず。誰にも見つけてもらえず。
名門令嬢・白峰柚月は、廃教会の地下で、ウェディングドレスのまま朽ちていく——
——ザッ。
……え?
——ザッ、ザッ、ザッ。
土を掻く音。
誰かが、私の上の土を掘っている。
「——っ」
声にならない声で、私は必死に手を伸ばした。動かないはずの指が、ほんの少しだけ動いた気がした。
お願い。
見つけて。
気づいて。
私はここにいる。まだ、生きてる——!
「見つけた」
光が差し込んだ。
土の隙間から、冷たい夜気が流れ込んでくる。
必死に息を吸った。咳き込みながら、泥だらけの顔を上げた。
月明かりを背にした人影。
切れ長の深い紺碧の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「やっと——見つけた」
知っている顔だ。
桐生蓮司。隼人さんの、異母弟。
家族の集まりで何度か顔を合わせたことがある。いつも黒い服を着て、壁際に立って、誰とも話さない人。冷たくて、無愛想で、正直ちょっと怖いと思っていた。
その人が今、泥だらけの手で、私を土の中から引きずり出そうとしている。
「なん、で……」
掠れた声で問いかける。
何故あなたがここにいるの?
何故私が埋められた場所を知っているの?
何故——
「喋るな。まだ肺に土が入ってる」
彼の手が、私の背中を支えた。驚くほど丁寧な手つきで、私の顔についた土を払う。
「……助けて、くれたの?」
「当然だ」
その声は、今まで聞いたどの言葉よりも確かだった。
「——俺は、お前を死なせるわけにはいかない」
月明かりの下、彼の瞳が異様な光を帯びる。
怖い、と思った。でも同時に、不思議なほどの安堵が胸に広がった。
「前世でも」
彼が、呟く。
「お前は兄に殺された。俺は——間に合わなかった」
……は?
「今度こそ、俺が守る」
泥と涙でぐちゃぐちゃの私を抱きしめながら、桐生蓮司は静かに宣言した。
「だから——二度目の人生を、俺にくれ」
いやいやいや、おかしいでしょ。
ツッコミたい。ツッコみたいのに、声が出ない。
生き埋めにされて、掘り起こされて、前世がどうとか言われて——
情報量が、多すぎる。
意識が再び遠のいていく中、私はひとつだけ確信していた。
この男も、たぶん——普通じゃない。
◇ ◇ ◇
「——っ!」
目が覚めた瞬間、私は自分の喉を掴んでいた。
息ができない。土の匂いがする。暗い。狭い。埋められる——
「大丈夫だ」
低い声が、耳元で響いた。
「ここに土はない。お前は生きてる」
視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
白い天井。柔らかなベッド。窓から差し込む朝日。
——土の中じゃ、ない。
「……っ、は……」
震える息を吐き出した。心臓がまだばくばく言っている。
「水」
グラスを差し出されて、反射的に受け取った。冷たい水が、干からびた喉を潤す。
三口飲んで、ようやく状況を把握する余裕ができた。
ここは——どこだ?
清潔だけど殺風景な部屋。必要最低限の家具。本棚だけが異様に充実していて、古書がぎっしり詰まっている。
ベッドの横には、黒い服の男が椅子に座っていた。
桐生蓮司。
切れ長の紺碧の瞳が、じっと私を観察している。
「……あの」
「質問は後だ。まず状況を説明する」
遮られた。
「ここは俺の隠れ家だ。都内某所、住所は教えない。お前は三日間眠っていた。肺に入った土は吐き出させた。外傷はほぼない。ただし——」
彼の視線が、私の手首に落ちる。
「手首の痣は、縛られていた跡だ。爪の中の土は、お前が自力で掻き出そうとした証拠。覚えているか」
覚えている。
覚えている、というか——忘れられるわけがない。
暗闘の中で、必死に手を動かした感覚。指先で土を掻いて、どうにか這い出ようともがいた。爪が剥がれそうなほど、何度も何度も——
「あの、」
「あと、これ」
テーブルの上に、何かが置かれた。
私のスマートフォンだ。泥だらけだけど、かろうじて動いている。
画面には、大量の通知。
『白峰家令嬢、結婚式当日に失踪』
『婚約者の桐生隼人氏、悲痛の会見』
『婚約破棄か?駆け落ちか?謎深まる令嬢失踪事件』
……は?
「失踪、扱い……?」
思わず呟いた。
殺されかけたのに?生き埋めにされたのに?
「世間では、お前は結婚式から逃げ出した無責任な女ということになっている」
蓮司の声は、淡々としていた。
「兄は被害者面して同情を集めてる。『彼女を信じて待ちます』とか言ってな。マスコミは連日その『健気な婚約者』を持ち上げて、お前を叩いてる」
画面をスクロールする指が、止まった。
ネットニュースのコメント欄。
『こんな良い人を捨てるとか頭おかしい』
『どうせ浮気でもしてたんでしょ』
『白峰家の令嬢って昔から性格悪いって噂あったよね』
『被害者ヅラしてた男の方が可哀想』
私を殺そうとした男が、同情されている。
私は——加害者にされている。
「っ……」
スマートフォンを握る手が、震えた。
いやいやいや、おかしいでしょ。
おかしいでしょこれ。どう考えても。
私は被害者だ。殺されかけた被害者だ。なのに世間では、私が婚約者を傷つけた最低女ということになっている。
「隼人……さんは」
「兄を『さん』付けで呼ぶな」
初めて、蓮司の声に感情が混じった。低い、押し殺したような——怒り。
「あいつは殺人犯だ。お前の前にも二人殺してる」
「……え?」
「お前に薬を盛った手口と同じだ。邪魔になった女を消して、事故か失踪に見せかける。桐生の権力で揉み消して、何食わぬ顔で次のターゲットを探す。——お前は、三人目になるはずだった」
言葉が、出なかった。
三人目。
つまり私の前に、二人の女性が。
私と同じように騙されて、私と同じように殺されて——
「お前だけじゃない」
蓮司が、静かに続ける。
「お前の母親の死も、本当に病気だったのか怪しいと思ってる」
「——は?」
血の気が、引いた。
「お前の母親が死んだのは十五年前。その直後から、桐生と白峰の業務提携の話が急速に進んだ。お前の父親は妻を亡くして精神的に不安定になり、桐生の言いなりになった。——都合が良すぎると思わないか」
思わない。思いたくない。
でも——
母が亡くなったあの日のことを、思い出す。
病院のベッドで、痩せ細った母の手を握っていた。『柚月、幸せにね』と微笑んだ母。穏やかな最期だった——はずだ。
でも、あの頃から父はおかしくなった。母の死後、まるで何かに怯えるように仕事に逃げ込んで、私のことを見なくなった。
——もしかして、父は知っていた?
母の死に、桐生家が関わっていたことを?
「証拠は、あるの」
声が震えた。
「ある」
蓮司が頷く。
「俺はずっと兄を監視してきた。十年以上。証拠も証言も、全部揃えてある」
「十年……?」
なんで、そこまで。
蓮司は答えない。代わりに、じっと私を見つめる。
あの瞳だ。土の中から助け出された時に見た、異様な光を宿した瞳。
「お前に、選択肢をやる」
彼が、低く言った。
「一つ目。このまま姿を消して、別人として生きろ。身分証も逃走資金も用意してある。桐生に関わらず、静かに生きていける」
「……」
「二つ目。俺と一緒に、兄を告発しろ。証拠を公開して、あいつの仮面を剥がして、社会的に殺す。——ただし、お前は世間の前に出なきゃいけない。叩かれる覚悟がいる」
二つの選択肢。
逃げるか、戦うか。
「どっちを選んでも、俺はお前を守る」
蓮司の声は、静かだった。
「——前世で、守れなかった分も」
そう。
それだ。それが聞きたかった。
「……前世って、なに」
三日間、ずっと引っかかっていた言葉。
土の中から助け出された時、彼は確かに言った。『前世でもお前は兄に殺された』と。
「文字通りの意味だ」
蓮司は、表情を変えずに答えた。
「俺には前世の記憶がある。——いや、前世だけじゃない。何度も、何度も、繰り返してる」
「……繰り返し?」
「お前は毎回、兄に殺される。俺は毎回、間に合わない。それを何度繰り返したか、もう数えてない」
淡々とした声。でもその奥に、押し殺された何かがある。
「——今度こそ、間に合った」
彼が、わずかに目を伏せた。
「間に合ったんだ、やっと」
いやいやいや、おかしいでしょ。
前世?輪廻転生?何回も繰り返す?
信じられるわけがない。こんな話。
でも——
彼が私を見つけた。あの廃教会の、土の中から。誰にも知られていないはずの場所から。
偶然?そんなわけない。
「……信じろって言われても」
「信じなくていい」
蓮司は、あっさり言った。
「お前が覚えてないのは知ってる。お前は毎回、記憶を持たずに生まれてくるから」
「じゃあなんで、あなただけ——」
「罰だ」
即答だった。
「お前を救えなかった、罰」
——何、それ。
切れ長の瞳が、私を射抜く。
その奥にあるのは、狂気か。執着か。それとも——
「俺がどれだけお前を想ってるか、今は分からなくていい」
蓮司が、静かに立ち上がった。
「でも一つだけ覚えておけ」
長い指が、私の頬に触れた。
土を払ってくれた時と同じ、丁寧な手つき。
「——俺は、お前を離さない。二度と」
救世主か、それとも。
私を土の中から助け出したこの男の正体を、私はまだ知らない。
◇ ◇ ◇
『婚約者の失踪から一週間。桐生隼人さんの会見です』
テレビ画面の中で、隼人さんが——いや、桐生隼人が、悲痛な表情を浮かべていた。
『柚月のことを、ずっと待っています。どこにいても、必ず見つけ出しますから——』
涙ぐむ横顔。震える声。
完璧だった。
何も知らない人間が見たら、傷ついた婚約者にしか見えないだろう。
「——吐き気がする」
思わず呟いていた。
私を殺そうとした男が、テレビの前で被害者を演じている。『心配で夜も眠れない』と涙を流している。
その手で、私を土の中に埋めたくせに。
「消すか」
蓮司がリモコンに手を伸ばす。
「……いい。見る」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
「見ておきたいの。この男の嘘を、全部」
あれから四日が経った。
蓮司の隠れ家に匿われながら、私は少しずつ体力を取り戻していた。肺に入った土のせいで咳は残っているけど、歩けるようにはなった。
——心の傷は、別として。
夜中に何度も目が覚める。土の中にいる夢を見る。息ができなくて、暗くて、冷たくて——
「また寝てない顔だな」
朝食を運んできた蓮司に、あっさり見抜かれた。
「……分かるの」
「目の下の隈を見ろ」
ぶっきらぼうな言葉。でも差し出されたのは、温かいミルクティーだった。
「甘いのは嫌いか」
「……ううん、好き」
カップを受け取る。湯気と一緒に、紅茶の香りが鼻をくすぐった。
——なんで知ってるんだろう、私がミルクティー好きなこと。
聞こうとして、やめた。『前世で知った』とか言われそうだから。
「証拠を見せる」
食後、蓮司がノートパソコンを開いた。
「心の準備はいいか」
「……たぶん」
「たぶんじゃ困る。お前が見たら確実にショックを受ける内容だ。——隠し撮りの映像がある」
指が、キーボードを叩く。
画面に映し出されたのは、見覚えのある部屋だった。
桐生家の書斎。何度か訪れたことがある。隼人さんと——桐生隼人と、将来のことを話した場所。
映像の中で、隼人が電話をしている。
『ああ、白峰の件は予定通りだ。結婚式当日に処理する。——遺産の相続人は俺になるよう、もう根回しは済んでる』
——処理。
私のことを、そう呼んでいる。
人間じゃなくて、処理すべき対象として。
『面倒な女だったよ、まったく。毎日毎日尽くしてきて、従順で、愛想良くて——反吐が出る』
笑っていた。
あの優しい笑顔で、私を嘲笑っていた。
『柚月さんのためなら何でもしますよ、だってさ。やりたいことも言えない女が一番扱いやすいんだよ。——は、本当に鬱陶しかった。でもまあ、金のためなら我慢できるさ』
映像が、止まった。
蓮司が、私の顔を見ている。
「……大丈夫か」
大丈夫なわけ、ない。
愛されたかっただけだ。
母を亡くして、父にも見てもらえなくて、ずっと孤独だった私は、ただ誰かに愛されたかっただけだ。
だから従順でいた。嫌われないように微笑んだ。相手が喜ぶことだけを考えて、自分を殺して——
それを『鬱陶しい』と。『反吐が出る』と。
「っ……」
爪が、手のひらに食い込む。
ストレスを感じると爪を噛む癖があるけど、今はそれすらできない。指が震えて、力が入らない。
「泣いていい」
蓮司の声が、遠くから聞こえた。
「怒っていい。叫んでもいい。——お前は被害者だ。傷ついていい」
許可されて、初めて気づいた。
私、ずっと我慢してた。
埋められた時も。助け出された時も。世間に叩かれていることを知った時も。
泣いちゃいけないと思ってた。弱音を吐いちゃいけないと思ってた。誰かに迷惑をかけたくなくて、ずっと——
「うっ……ぁ、」
声にならない声が、喉から漏れた。
涙が溢れた。止まらなかった。
「あ、あの人、私のこと、ずっと……っ」
「ああ」
「私、尽くして、頑張って、嫌われないように——」
「知ってる」
「なのに、殺されかけて、埋められて、今度は世間から叩かれて——っ」
「全部知ってる」
蓮司の手が、私の頭に置かれた。
不器用な手つきで、髪を撫でられる。
「だから、泣け」
どれくらい泣いたか分からない。
気づいたら、私は蓮司の胸に顔を埋めて嗚咽していた。
彼は何も言わず、ただ私の背中を撫でていた。
「……ごめん」
泣き止んでから、掠れた声で謝った。
「服、汚した」
「どうでもいい」
本当にどうでもよさそうに言われて、少しだけ笑えた。
「あなた、優しいね」
「——そんなわけないだろ」
蓮司が、わずかに目を逸らした。
耳の先が、赤い。
……え、照れてる?
いやいやいや、この状況で照れる?怖いのか可愛いのかどっちなのこの人。
「優しくない」
彼が、低い声で繰り返した。
「俺は——お前を守りたいだけだ。お前が泣いてると、俺が辛い。だから泣き止ませたいだけで、これは優しさじゃない」
……それを優しさって言うんじゃないの。
言わなかったけど。
代わりに、私は深呼吸した。
「決めた」
「何を」
「戦う」
蓮司の瞳が、わずかに見開かれた。
「……本気か」
「本気」
立ち上がる。足はまだ少し震えているけど、心は決まった。
「逃げない。隠れない。——あの男の仮面を、私が剥がす」
画面の中で、被害者面を続けている桐生隼人を見据える。
「殺されかけて、埋められて、世間から叩かれて——それでも黙って消えろって?」
違う。
もう、従順な令嬢でいる必要はない。
「私を殺そうとしたこと、後悔させてやる」
蓮司が、口元を歪めた。
笑った——のだと思う。今まで見たことのない表情だった。
「それでいい」
「協力、してくれる?」
「愚問だな」
彼が、私の手を取った。
長い指が、私の指に絡む。
「——俺はお前の味方だ。この世界で、誰よりも」
信じていいのか、まだ分からない。
前世がどうとか、輪廻転生がどうとか、正直まだ信じられない。
でも——
彼が土の中から私を助け出してくれたこと。
私のために泣くことを許してくれたこと。
私が戦うと言った時、嬉しそうに笑ったこと。
それだけは、本当だ。
「ありがとう、蓮司」
名前を呼んだら、彼の耳がまた赤くなった。
……やっぱり可愛いな、この人。
怖いけど。執着が重いけど。たぶん普通じゃないけど。
でも今は——この手を、離さないでいようと思った。
◇ ◇ ◇
「はあ?柚月が生きてる?」
スマートフォンの向こうで、沙耶の声が裏返った。
『いやいやいやいや待って待って待って、ちょっと待って!あんた今どこ!?何があったの!?マジで心配したんだからね!?』
怒涛の質問攻め。沙耶らしい。
「落ち着いて。順番に説明するから」
『落ち着けるわけないでしょーが!あんたが失踪してから、あたしどれだけ——』
声が、詰まった。
『……ほんとに、生きてるの?』
「生きてる。ちゃんと」
『……よかった』
沙耶が、泣いているのが分かった。
この子は昔からそうだ。私のために泣いてくれる。私が泣けない時に、代わりに泣いてくれる。
「沙耶、ごめん。心配かけた」
『謝んないでよバカ。——で、何があったの。言える範囲でいいから』
深呼吸して、私は話し始めた。
結婚式当日に薬を盛られたこと。生き埋めにされたこと。蓮司に助けられたこと。隼人が過去にも女性を殺害していた証拠があること。
沙耶は、黙って聞いていた。
『——あたしの勘、当たってたわけだ』
話し終わると、沙耶は低い声で言った。
「勘?」
『ずっと、おかしいと思ってたの。桐生隼人。完璧すぎるでしょ、あの男。パーフェクト御曹司すぎて逆に怪しいっていうか』
「……そうだったんだ」
『だから柚月が失踪した時、あいつが怪しいって思った。被害者面してたけど、あの会見——何か違和感あったんだよね。涙の流し方が、演技っぽいっていうか』
さすが沙耶。伊達にフリーライターやってない。
『で、どうするの。逃げる?それとも——』
「戦う」
『——いいね。その答え待ってた』
沙耶の声に、力がこもった。
『証拠があるなら、あたしも協力する。ライターの端くれだからね。情報拡散とか世論操作とか、できることあるでしょ』
「危険だよ。桐生家を敵に回すことになる」
『知ってる。でもあんたは、あたしの親友でしょ』
——ああ、本当に。
この子と友達になれて、よかった。
「ありがとう、沙耶」
『礼はあとで聞く。まずは生き延びなさい。——あと、その蓮司って人』
「うん?」
『信用していいの?』
即答できなかった。
正直、まだ分からない。前世の記憶がどうとか、輪廻転生がどうとか、普通じゃないことは確かだ。
でも——
「今のところ、信用してる。少なくとも、私を殺そうとはしてないから」
『ハードル低っ』
「殺されかけた人間の基準なんてそんなもんよ」
電話の向こうで、沙耶が笑った。
『——うん、大丈夫そうね。あんたがそうやって冗談言えるなら、まだ壊れてない』
「壊れかけてはいるけどね」
『それでいいの。壊れかけても立ってられるなら、それが強さだから』
電話を切って、振り返る。
蓮司が、壁に寄りかかって腕を組んでいた。会話の間中、ずっとそこにいた。
「盗み聞き?」
「お前の安全確認だ」
悪びれもしない。
「……まあいいけど。沙耶は信用できる。昔からの親友だから」
「知ってる」
「——前世で?」
「前世でも今世でも。あいつはずっとお前の味方だった」
淡々とした言葉。でもどこか、安心したような響きがあった。
「協力者は多い方がいい。——で、次はどうする」
「そうね」
私は、窓の外を見た。
「そろそろ、動き出す頃だと思うの」
「何が」
「向こうが」
◇
翌日、そのニュースは飛び込んできた。
『白峰財閥当主・白峰誠一郎氏、緊急入院』
『失踪した娘を探し続けたストレスか、心労による体調不良と発表』
「お父さん……」
思わず、呟いていた。
テレビ画面には、担架で運ばれる父の姿。痩せ細って、別人のようになっていた。
「——狙われてる」
蓮司が、低く言った。
「お前が死んだと思われてる今、白峰の財産を手に入れるには、お前の父親を排除するのが一番早い」
「え、まさか……」
「まさかじゃない。兄ならやる。——いや、もうやってるかもしれない。この『体調不良』が本当に心労だけか、俺は疑ってる」
毒殺。
その言葉が、脳裏をよぎった。
「お父さんを——」
「病院を特定する。見張りをつける。今すぐには動けないが——」
「待って」
私は、蓮司の言葉を遮った。
「私が行く」
「は?」
「お父さんのところに、私が行く。顔を見せれば、『娘は生きている』って分かる。そうすれば——」
「馬鹿か」
即座に否定された。
「今お前が表に出たら、兄に見つかる。今度こそ殺される」
「でも——」
「お前の父親を守る方法は他にもある。お前が死ぬ必要はない」
「死なないわよ」
「——は?」
「あなたがいるでしょう」
蓮司の目が、見開かれた。
「あなたが守ってくれるって言った。だったら、私が出て行っても大丈夫でしょ」
「……」
「違う?」
沈黙。
蓮司の眉間に、深いしわが刻まれていく。
「——お前な」
低い声。怒っているのか、呆れているのか。
「俺の言葉を、そういう使い方するか」
「だって、あなた嘘つかないでしょう」
蓮司が、言葉に詰まった。
「……つかない」
「じゃあ、守ってくれるのも本当」
「——ああ、本当だ。本当だが」
「なら問題ないじゃない」
私は、微笑んだ。
「お父さんに会いたいの。——私を見捨てたような人だけど、それでも、家族だから」
蓮司が、深くため息をついた。
「……分かった」
「え、いいの?」
「ダメだと言っても聞かないだろ」
「正解」
彼が、額を押さえた。
「——条件がある」
「何?」
「俺から離れるな。絶対に」
強い口調。
「いつでも俺の見える場所にいろ。俺の手の届く距離にいろ。約束しろ」
「……分かった」
「軽く言うな。約束だ」
蓮司の手が、私の手首を掴んだ。
強すぎず、でも逃がさない力。
「——お前を失うくらいなら、俺は何でもする」
紺碧の瞳が、私を射抜く。
「世界を敵に回しても。自分が壊れても。——お前だけは、絶対に」
怖い。
この人の感情は、怖いくらい重い。
でも——
「分かった。約束する」
私は、その手を握り返した。
「私も、あなたを一人にしない。——一緒に戦うんでしょう?」
蓮司の瞳が、揺れた。
「……お前は」
「何」
「——いや、何でもない」
彼が、わずかに唇を緩めた。
笑った——のだと思う。
「準備をしろ。明日、病院に行く」
物語は、動き出した。
私を殺そうとした男と、私を守ろうとする男。
その間で、私は——
今度こそ、自分の人生を取り戻す。
◇ ◇ ◇
「娘さんが面会に来られていますが」
病室の扉の前で、蓮司が看護師と交渉している。偽造した身分証と、どこから手に入れたのか正規の面会許可証。
用意周到すぎて逆に怖い。
「——どうぞ」
扉が開いた。
深呼吸して、私は病室に足を踏み入れた。
「……お父さん」
白いシーツの上に横たわる父は、想像以上に痩せていた。
最後に会ったのは結婚式の前日。あの時はまだ健康そうだったのに、今は骨と皮ばかりに見える。
「……柚月」
掠れた声が、私の名前を呼んだ。
「生きて……いたのか」
「うん。生きてる」
私は、ベッドの横に座った。
父の手を取る。冷たくて、細い。
「心配かけて、ごめんなさい」
「心配……」
父が、目を閉じた。
「心配する資格など、私にはない」
「……え?」
「知っていたんだ」
力のない声で、父は続けた。
「桐生隼人という男が、お前を狙っていることを。お前の母を——殺したことを」
——は?
「お父さん、今なんて——」
「お前の母の死は、病気じゃなかった」
父の目が、開いた。
濁った灰色の瞳に、涙が滲んでいる。
「桐生家に、殺されたんだ。白峰の財産を手に入れるために。——私は、それを知りながら、何も言えなかった」
「なんで……」
「脅されたんだ」
父の声が、震えた。
「お前を殺すと。黙っていれば、娘だけは助けてやると。——私は、臆病だったんだ。お前を守るためと言い訳をして、真実を隠して、お前を桐生に差し出して……」
「待って。待って、お父さん」
頭が、追いつかない。
「じゃあ私と隼人……桐生隼人の婚約って」
「桐生家の要求だった。断れば、お前を殺すと——」
「嘘でしょ」
私の声が、裏返った。
「お母さんを殺した相手に、私を差し出したってこと?」
「——すまない」
父が、顔を覆った。
「すまない、柚月。私は、最低の父親だ。お前の母を守れず、お前も守れず——」
怒りが、湧いてきた。
当然だ。十五年間、ずっと騙されていた。母を殺した相手と知らずに、婚約して、尽くして——
殺されかけた。
でも——
父の手が、震えている。
年老いて、痩せ細って、罪悪感で潰れそうになっている。
この人もまた、桐生に人生を壊された被害者なのだ。
「……お父さん」
私は、深呼吸した。
「許せないよ。許せるわけない。でも——」
父の手を、握りしめた。
「今からでも遅くないから。証言して」
「……証言?」
「桐生隼人を告発するの。お母さんの件も、私の件も、全部。——私、戦うって決めたから」
父が、私を見た。
濁った瞳に、微かな光が宿る。
「お前は……強くなったな」
「強くなったんじゃない。強くならざるを得なかったの」
生き埋めにされて。土の中で死を覚悟して。それでも生き残って——
もう、誰かの言いなりにはならない。
「だから、お父さん。最後に——父親らしいことして」
沈黙。
長い沈黙の後、父が頷いた。
「……分かった」
掠れた声。でも、確かな意志があった。
「証言する。全てを——」
その瞬間、病室の扉が開いた。
「あれ、お取り込み中でしたか」
聞き覚えのある声。
柔らかくて、優しくて——吐き気がするほど、偽りに満ちた声。
「柚月さん?——生きていたんですね」
桐生隼人が、そこに立っていた。
「お義父様のお見舞いに来たんですが……まさか、ここで再会できるとは」
温かみのある茶色の瞳が、私を捉える。
あの優しい笑顔。完璧な紳士の仮面。
——気持ち悪い。
「心配していたんですよ、柚月さん」
一歩、近づいてくる。
「どこに行っていたんです?僕、毎日探していたんですよ?」
嘘だ。全部嘘だ。
私を土の中に埋めたくせに。
「——それ以上近づくな」
低い声が、割り込んだ。
蓮司だ。いつの間にか私の前に立っている。
「蓮司?お前、こんなところで何を——」
「兄さん」
蓮司の声は、氷のように冷たかった。
「俺が、彼女を助けた」
「……は?」
「お前が埋めた土の中から。——掘り起こしたのは、俺だ」
隼人の表情が、凍りついた。
ほんの一瞬。でも確かに、仮面に亀裂が入った。
「何を言って——」
「とぼけるな」
蓮司が、スマートフォンを取り出した。
画面に映るのは、隼人の書斎での通話——あの隠し撮り映像。
「全部、記録してある。お前がやったこと。十年分」
病室の空気が、変わった。
隼人の表情から、優しさが消えていく。
「——なるほど」
温かみのある声が、低く、冷たく変質する。
「お前が裏切るとはね、蓮司」
「裏切る?最初から、お前の味方だったことはない」
「そう。——じゃあ、仕方ないな」
隼人が、微笑んだ。
今度は、仮面なしの笑顔。
残酷で、冷酷で、背筋が凍るような——本物の笑顔。
「僕のものは、僕が処分する。——当然だろう?」
ポケットから何かを取り出す動き。
蓮司が私を庇うように腕を広げた瞬間——
病室の扉が、再び開いた。
「警察です。桐生隼人さん、ご同行願います」
制服姿の警官が、二人。
そしてその後ろに——
「やっほー、柚月。——あたしの勘、今回も当たったよ」
沙耶が、スマートフォンを構えて立っていた。
「今の会話、全部録音させてもらったから。『僕のものは僕が処分する』——いい自白だったね、桐生さん?」
隼人の顔が、歪んだ。
「お前——」
「観念しなさい」
私は、蓮司の後ろから一歩前に出た。
「もう、逃げ場はないよ」
桐生隼人が、連行されていく。
最後に振り返った彼の目には、信じられないという驚愕と、純粋な憎悪があった。
——でも、もう怖くない。
私はもう、土の中にいないのだから。
◇ ◇ ◇
『桐生グループ御曹司・桐生隼人容疑者、殺人未遂および過去の殺人容疑で逮捕』
『白峰家令嬢は生きていた——衝撃の告発全文公開』
『名門の仮面の下に——連続殺人犯の素顔』
ニュースは、瞬く間に世間を駆け巡った。
私が「失踪した無責任な女」から「殺人未遂の被害者」に変わるのに、わずか数日しかかからなかった。
世論って、怖い。
数日前まで私を叩いていた人たちが、今度は「最初から怪しいと思っていた」「被害者を叩いた自分が恥ずかしい」と手のひらを返している。
いやいやいや、それ絶対嘘でしょ。
内心でツッコみながら、私はテレビ画面を見つめていた。
『桐生グループ現当主・桐生雅臣氏が緊急記者会見を行いました』
画面が切り替わる。
白髪交じりの髪をオールバックに整えた初老の男性。威厳のある佇まい。
桐生雅臣。蓮司と隼人の、父親。
『——桐生の名に傷をつけることは、許さん』
彼はそう言い切った。
『息子の罪は、息子自身が償うべきだ。桐生グループとして、被害者の方々に心よりお詫び申し上げる。だが——これはあくまで個人の犯罪であり、会社とは無関係である』
切り捨てた。
実の息子を、あっさりと。
『なお、後継者については改めて検討する。桐生の血を引く者として、蓮司に——』
「消せ」
蓮司の声で、我に返った。
振り返ると、彼は無表情でテレビを見つめていた。でもその拳は、白くなるほど握りしめられている。
「蓮司?」
「あの男の言葉は聞きたくない」
リモコンを取り、テレビを消した。
画面が暗くなる。蓮司の横顔が、その暗がりに溶けていく。
「……父親、嫌いなの?」
「嫌いも何も」
彼が、乾いた声で笑った。
「あの男にとって、俺は存在しないも同然だった。愛人の子だからな」
「……」
「兄は何をしても許された。俺は何をしても見向きもされなかった。——今さら後継者とか言われても、反吐が出る」
蓮司の過去。
断片的に聞いてはいた。正妻の子である隼人と比較され、日陰者として育ったこと。
前世の記憶がどうこう以前に、今世だけでも十分に傷ついているのだ。この人は。
「蓮司」
私は、彼の隣に座った。
「あなたは、どうしたいの」
「……どうしたい?」
「復讐は果たした。隼人は捕まった。——その後のこと、考えてる?」
蓮司が、私を見た。
紺碧の瞳が、微かに揺れている。
「考えてなかった」
「え?」
「俺の人生は——お前を守ることだけだった。お前を救えなかった罪を償うことだけ」
彼が、目を伏せた。
「その先のことなんて、考えたこともなかった」
——ああ、そうか。
この人は、私を守ることだけに人生を費やしてきたのだ。
前世から何度も。私を救うためだけに、輪廻転生を繰り返して。
自分の幸せなんて、最初から考えていない。
「じゃあ、これから考えよう」
私は、蓮司の手を取った。
「一緒に」
「……一緒に?」
「だって私、まだあなたに借りがあるでしょ。命を救われた借り。——返さないと気が済まないの」
「借りなんて——」
「あるの。私がそう決めたの」
蓮司の言葉を、遮った。
「だから、傍にいさせて。あなたが自分の幸せを見つけるまで」
彼の目が、大きく見開かれた。
「……本気か」
「本気」
「俺の傍にいるのは、危険だぞ。俺は——普通じゃない」
「知ってる」
「前世の記憶があって、お前に執着していて——」
「全部知ってる」
私は、微笑んだ。
「でも、あなたは私を助けてくれた。土の中から掘り起こして、泣くことを許してくれて、戦う勇気をくれた」
「それは——」
「それだけで、十分じゃない?」
蓮司が、黙った。
長い沈黙。
その瞳に、複雑な感情が渦巻いている。戸惑いと、驚きと、そして——
「……俺は」
掠れた声。
「お前を、愛してる」
「——うん」
「前世から、ずっと。何度生まれ変わっても、お前だけを」
「知ってる」
「重いぞ。——お前が思っているより、ずっと」
「それでも」
私は、彼の頬に手を伸ばした。
「受け止めるから」
蓮司の瞳が、潤んだ。
初めて見る表情だった。いつも無表情で、感情を見せない人が——
「——お前は、ずるい」
彼が、私の手を握った。
「そんな風に言われたら、離せなくなる」
「離さなくていいよ」
「後悔するぞ」
「しない」
「——本当に?」
「本当に」
彼の額が、私の額に触れた。
近い距離で、紺碧の瞳を見つめる。
「俺が関われなくても、お前が笑っていればそれでいいと——」
蓮司が、呟いた。
「ずっと、そう思ってた。でも、もう無理だ」
「うん」
「お前の傍にいたい。お前の笑顔を、俺だけが見ていたい。——独占欲の塊みたいな俺で、本当にいいのか」
「いいに決まってるでしょ」
私は、笑った。
「だって私、重い愛されるの——嫌いじゃないから」
蓮司の目が、見開かれた。
そして——
初めて、彼が声を出して笑った。
「……お前、本当に——」
「本当に?」
「本当に、強くなったな」
「でしょ?」
私は、胸を張った。
「殺されかけて生き返った女は強いのよ」
崩れゆく桐生の王国を背景に、私たちは——
初めて、対等な場所に立った。
◇ ◇ ◇
裁判の日程が決まり、証拠も証言も揃い、勝利は確実——のはずだった。
でも、物語はそう簡単に終わらない。
『桐生隼人容疑者、拘置所から逃走』
そのニュースが飛び込んできたのは、裁判の三日前だった。
「——嘘でしょ」
思わず、呟いていた。
「嘘じゃない」
蓮司の声は、氷のように冷たかった。
「父親の差し金だ。桐生の金と権力を使って、兄を逃がした」
「でも、そんなこと——」
「あの男は、息子を切り捨てたふりをしていただけだ。最初から逃がすつもりだった。——俺たちが油断するのを待っていた」
私の背筋に、冷たいものが走った。
逃げた隼人が、どこに向かうか。
考えなくても、分かる。
「——私を殺しに来る」
「ああ」
蓮司が、頷いた。
「だから、先手を打つ」
「先手?」
「兄が来る場所は分かってる。あいつには執着がある。——自分が失敗した場所で、もう一度お前を殺そうとするはずだ」
あの廃教会。
私が埋められた場所。
「そこで、待ち伏せる。——終わらせる」
◇
夜。
月明かりの下、私は廃教会の前に立っていた。
崩れかけた壁。割れたステンドグラス。雑草に覆われた入口。
あの日、私はここで意識を失った。ここで埋められた。
「……大丈夫か」
蓮司が、私の肩に手を置いた。
「正直、大丈夫じゃない」
足が震えている。土の匂いを思い出すだけで、吐き気がする。
「でも、逃げない」
私は、深呼吸した。
「ここで終わらせるって、決めたから」
教会の中に、足を踏み入れる。
月光が、壊れた天井から差し込んでいる。埃っぽい空気。腐った木の匂い。
そして——
「来たね、柚月さん」
影の中から、声がした。
桐生隼人が、壁に寄りかかって立っていた。
拘置所から逃げてきたとは思えない、きちんとした服装。でもその目は——
狂気に満ちていた。
「まさか自分から来てくれるとは思わなかったよ」
柔らかい声。でもその奥に、隠しきれない殺意がある。
「僕を捕まえに?——無駄だよ。ここから生きて出られるのは、僕だけだ」
「——そう思うか、兄さん」
蓮司が、一歩前に出た。
「お前が逃げることは分かっていた。ここに来ることも。——警察はもう、この教会を包囲している」
隼人の表情が、歪んだ。
「……お前、僕を売るのか。実の兄を」
「兄?」
蓮司の声が、嘲笑った。
「お前が俺を兄弟として扱ったことが、一度でもあったか」
「——」
「お前は俺を見下していた。愛人の子だと。汚い血だと。——それでいて、自分は人を殺しておいて」
「黙れ」
隼人の声が、低くなった。
「お前に何が分かる。僕がどれだけ——」
「分かりたくもない」
蓮司が、遮った。
「お前の言い訳なんて興味ない。俺が興味あるのは——」
彼が、私の手を握った。
「この人を守ることだけだ」
隼人の目が、私たちの繋いだ手に向けられた。
「——は」
笑い声が、漏れた。
「そういうこと。お前、柚月さんが好きなのか」
「……」
「なるほど。だから邪魔したのか。自分のものにしたくて」
「違う」
「違わないだろう」
隼人が、一歩踏み出した。
「僕とお前は同じだよ、蓮司。欲しいものを手に入れるために何でもする。——血は争えないね」
「同じにするな」
蓮司の声が、揺れた。
「俺は——」
「俺は何?人を殺してない?でも殺意はあっただろう。僕を殺したいと思ったことは、何度もあるだろう」
「……」
「ほら、同じだ。お前も僕も、壊れてるんだよ」
——違う。
私は、蓮司の手を強く握った。
「違う」
声を出した。
「蓮司は、あなたとは違う」
隼人の視線が、私に向いた。
「柚月さん?」
「蓮司は確かに——重い愛情を持ってる。執着もある。でも」
私は、まっすぐに隼人を見据えた。
「この人は、私を傷つけない。守ろうとしてくれる。私の幸せを願ってくれる」
「——」
「あなたは違う。あなたは最初から、私を道具としか見てなかった。愛してなんかいなかった」
「愛?」
隼人が、笑った。
「愛なんて、くだらない」
「くだらなくない」
私は、声を張った。
「愛されたかったの、私は。ずっと。母を亡くして、父にも見捨てられて、誰かに愛されたくて——あなたを信じた」
「……」
「裏切られた。殺されかけた。でも——」
私は、隣の蓮司を見た。
「この人に、救われた。愛されるってこういうことなんだって、初めて知った」
蓮司の瞳が、揺れた。
「柚月——」
「だから」
私は、隼人に向き直った。
「もう、あなたは怖くない。——あなたに、私の人生を壊させない」
沈黙。
風が、崩れた壁の隙間を吹き抜けていく。
隼人の表情が、変わった。
狂気と、怒りと、そして——
「——なら、死ね」
ポケットから、ナイフが閃いた。
「柚月!」
蓮司が、私を庇うように動いた。
刃が、蓮司の腕を掠める。
「っ——」
「蓮司!」
血が、飛び散った。
でも蓮司は止まらない。隼人の腕を掴み、ナイフを弾き飛ばす。
「——終わりだ、兄さん」
二人がもつれ合うように、床に倒れ込む。
同時に、教会の入口が破られた。
「警察だ!動くな!」
光。声。足音。
警官たちが、なだれ込んでくる。
隼人が、取り押さえられる。
「離せ……離せ!僕は桐生の——」
「黙れ」
蓮司の声が、静かに響いた。
「お前はもう、何者でもない」
◇
全てが終わった後。
私は、教会の外に座り込んでいた。
隣には、腕を応急処置された蓮司。
「……傷、大丈夫?」
「かすり傷だ」
「嘘つき。めっちゃ血出てたじゃない」
「これくらい、前世で何度も——」
「前世の話は今いいから」
私は、彼の腕にそっと触れた。
「ありがとう。庇ってくれて」
「……当然のことをしただけだ」
「当然じゃないよ」
私は、微笑んだ。
「あなたのおかげで、私は生きてる。——二度目の人生を、生きてる」
蓮司が、私を見た。
月明かりの下、紺碧の瞳が潤んでいる。
「俺は——」
「うん」
「やっと、守れた」
「うん」
「お前を、失わずに済んだ」
彼の声が、震えた。
「前世では、間に合わなかった。何度も、何度も。お前が死ぬのを見るしかなかった。——でも今度は」
「今度は、間に合った」
「ああ」
私は、彼の手を握った。
「だから——もう、自分を責めないで」
「……」
「前世のことは分からない。でも今世では、あなたは私を救ってくれた。それで十分じゃない」
蓮司が、目を閉じた。
「——十分だと、思っていいのか」
「いいに決まってる」
私は、彼の頬に触れた。
「だって私、幸せだから。——あなたのおかげで」
崩れかけた教会の前で、私たちは手を繋いでいた。
全てが終わった場所で。
全てが始まった場所で。
「——愛してる」
蓮司が、呟いた。
「ずっと。何度生まれ変わっても」
「知ってる」
私は、微笑んだ。
「——私も」
月が、私たちを照らしていた。
◇ ◇ ◇
一年後。
私は、かつて廃教会があった場所に立っていた。
崩れた建物は取り壊され、今は小さな花畑になっている。季節の花が、風に揺れていた。
「——綺麗になったね」
隣に立つ蓮司が、頷いた。
「お前が決めたんだろう。ここを花畑にするって」
「うん。だって——」
私は、花畑を見渡した。
白い花。黄色い花。ピンクの花。色とりどりの命が、土の中から芽吹いている。
「ここで終わったんじゃないから。ここから始まったの、私の人生」
桐生隼人は、複数の殺人罪で起訴され、裁判の結果、無期懲役が確定した。
桐生雅臣も、逃走幇助と証拠隠滅の罪で逮捕された。桐生グループは解体され、名門は崩壊した。
私の父は、証言の後、静かに息を引き取った。最後に「柚月を守れなくてすまなかった」と言って——
許せたかと聞かれれば、分からない。でも、憎んではいない。
彼もまた、桐生に人生を壊された被害者だったから。
「——白峰財閥は、どうするんだ」
蓮司が、尋ねた。
「私が継ぐわ。父が残してくれたものだから」
「一人で?」
「まさか」
私は、微笑んだ。
「沙耶が広報担当として入ってくれることになったし——」
蓮司を、見上げる。
「あなたも、手伝ってくれるでしょ?」
「……俺が?」
「嫌?」
「嫌なわけないだろう」
彼が、私の手を取った。
「お前の傍にいられるなら、何でもする」
「相変わらず重いね」
「今さらだろう」
「——うん。今さらね」
風が、花畑を渡っていく。
一年前、私はここで土の中に埋められた。
息ができなくて、暗くて、冷たくて——死を覚悟した。
でも——
「蓮司」
「何だ」
「ありがとう。あの日、私を見つけてくれて」
「……」
「土の中から、掘り起こしてくれて」
蓮司が、私の手を握りしめた。
「——俺の方こそ」
「え?」
「お前が生きていてくれて、よかった」
彼の声が、震えていた。
「お前が笑っていてくれて、よかった。俺の傍にいてくれて——」
「蓮司」
「何度も失敗した。何度もお前を失った。でも——」
紺碧の瞳が、私を見つめる。
「今度は、失わなかった。——ありがとう。生きていてくれて」
私は、彼の頬に手を伸ばした。
涙の跡に、そっと触れる。
「——私こそ」
「え?」
「前世で何度も、私を探してくれたんでしょ。間に合わなくても、諦めなかったんでしょ」
「……ああ」
「だったら——ありがとう。諦めないでくれて」
蓮司の瞳から、涙がこぼれた。
無表情で、感情を見せない人が——私の前でだけ、泣いている。
「……お前は、ずるい」
「知ってる」
「そんな風に言われたら——」
「うん」
「もう、一生離せなくなる」
「いいよ」
私は、微笑んだ。
「離さないで」
彼の腕が、私を包み込んだ。
強くて、優しくて、少し不器用な抱擁。
「——愛してる」
「知ってる」
「何度でも言う。何度生まれ変わっても」
「うん」
「お前だけを——」
「私も」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
「愛してる、蓮司」
花畑の上を、風が渡っていく。
土の中から生還した私は、ようやく本当の愛を知った。
歪んでいるかもしれない。重いかもしれない。普通じゃないかもしれない。
でも——
「ねえ、蓮司」
「何だ」
「来世があるなら——また、会いに来てね」
蓮司が、微笑んだ。
初めて見る、穏やかな笑顔。
「——約束する」
◇
「……ねえ、蓮司」
「何だ」
「私たち、おかしいよね」
「……何がだ」
「だって、一年前は土の中にいたのに。今はこうして花畑の前で、普通に手を繋いでる」
「普通じゃないか」
「いやいやいや、普通じゃないでしょ。どう考えても」
「……お前のその内心ツッコミ、最近声に出てるぞ」
「えっ、嘘。恥ずかしい……」
「恥ずかしがるな。俺は好きだ」
「……そういうこと、さらっと言うよね」
「事実だからな」
「相変わらず不器用なんだか器用なんだか分からない」
「どっちでもいい。お前が笑っていれば」
「……ほら、また重い」
「今さらだろう」
「うん。……今さら、だね」
蓮司の手が、私の手を握りしめる。
温かい。確かな温度。
一年前は冷たい土の中にいた私の手が、今は——
「蓮司」
「何だ」
「来世は、土の中じゃないところで会いたいな」
「——ああ。約束する」
「できれば、花畑の上がいい」
「分かった。花畑の上で、最初から隣にいる」
「……それ、最高だね」
「ああ。——最高だ」
崩れた教会は取り壊され、跡地には小さな花畑が作られた。
そこで、二人は静かに手を繋いでいる。
「ここで終わったんじゃない」
私は、呟いた。
「ここから始まったの」
——土の中から掘り起こされた花は、空に向かって咲いていた。
【完】




