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『あの日、教会に埋められた私を掘り起こしたのは、私を殺した婚約者の弟でした』

作者: uta
掲載日:2026/05/29

「君のことは、最初から愛していなかった」


——え?


ウェディングドレスの裾を踏みそうになりながら、私は目の前の婚約者を見上げた。


今、なんて言った?


桐生隼人。名門桐生グループの御曹司にして、社交界の誰もが羨む完璧な紳士。柔らかな栗色の髪、温かみのある茶色の瞳。その瞳が今、まるで路傍の石を見るような冷たさで私を見下ろしている。


「隼人……さん?」


声が震えた。当然だ。だって今日は、私たちの結婚式の日なのだから。


純白のドレスに身を包み、控室で最後の身支度を整えていた私のもとに、彼はやってきた。『少し話がある』と。てっきり、緊張している私を気遣ってくれたのだと思った。


——馬鹿みたい。


「白峰の財産さえ手に入れば、君は用済みなんだよ」


微笑んでいた。あの優しい笑顔のまま、残酷な言葉を紡いでいる。


「え、ちょっと待っ……」


足元がふらついた。視界がぐにゃりと歪む。


おかしい。さっき飲んだシャンパン。彼が「花嫁に」と手渡してくれた——


「あ……」


膝から力が抜けていく。冷たい床に倒れ込む寸前、隼人さんの腕が私を支えた。


ああ、やっぱり優しいひと。


そう思いかけて、気づく。


この腕は、私を支えているんじゃない。


——運んでいるのだ。どこかへ。


「心配しなくていいよ、柚月」


耳元で囁く声は、どこまでも甘い。


「君の前にも二人いたけど、みんな静かに眠ってくれたから」


意識が、闇に沈んでいく。


最後に見えたのは、ステンドグラスの割れた——廃墟のような教会の天井だった。




◇




目を開けた瞬間、理解した。


——私は、土の中にいる。


口の中に入り込む土。鼻を塞ぐ湿った匂い。全身を押しつぶすような重さ。


息が、できない。


「っ——!」


叫ぼうとしたけれど、声にならない。手足を動かそうにも、わずかにしか動かせない。


嘘でしょう。


嘘でしょう嘘でしょう嘘でしょう——!


『生き埋め』という言葉が、脳裏をよぎる。


信じたくない。信じられない。でも現実として、私は今、土の中で窒息しかけている。


——死ぬの?


こんなところで?


結婚式の日に、婚約者の手で、生きたまま埋められて?


涙すら出なかった。だって出口がないのだ。この暗闘の中には。


隼人さんの顔が浮かぶ。


初めて出会った日の、あの優しい笑顔。


『柚月さん、貴方のような方が僕の婚約者になってくださるなんて光栄です』


嘘だったんだ。全部、全部。


私が必死に尽くしてきたことも。彼に愛されたくて頑張ったことも。母を早くに亡くして、父にも構われず、愛情に飢えていた私を——この人なら満たしてくれると信じたことも。


全部、利用されていただけ。


いやいやいや、おかしいでしょ。


内心でツッコむ癖が、こんな時にも出る。


人生二十四年間、良い子で生きてきたのに。言われたことは何でも従って、誰にも迷惑かけないように微笑んで。婚約者に尽くして尽くして尽くして——


——殺されるの、私?


意識が遠のいていく。


酸素が足りない。胸が苦しい。視界の端が暗くなる。


ああ、こうやって死ぬんだ。


誰にも知られず。誰にも見つけてもらえず。


名門令嬢・白峰柚月は、廃教会の地下で、ウェディングドレスのまま朽ちていく——




——ザッ。




……え?




——ザッ、ザッ、ザッ。




土を掻く音。


誰かが、私の上の土を掘っている。


「——っ」


声にならない声で、私は必死に手を伸ばした。動かないはずの指が、ほんの少しだけ動いた気がした。


お願い。


見つけて。


気づいて。


私はここにいる。まだ、生きてる——!




「見つけた」




光が差し込んだ。


土の隙間から、冷たい夜気が流れ込んでくる。


必死に息を吸った。咳き込みながら、泥だらけの顔を上げた。


月明かりを背にした人影。


切れ長の深い紺碧の瞳が、まっすぐに私を見ていた。


「やっと——見つけた」


知っている顔だ。


桐生蓮司。隼人さんの、異母弟。


家族の集まりで何度か顔を合わせたことがある。いつも黒い服を着て、壁際に立って、誰とも話さない人。冷たくて、無愛想で、正直ちょっと怖いと思っていた。


その人が今、泥だらけの手で、私を土の中から引きずり出そうとしている。


「なん、で……」


掠れた声で問いかける。


何故あなたがここにいるの?


何故私が埋められた場所を知っているの?


何故——


「喋るな。まだ肺に土が入ってる」


彼の手が、私の背中を支えた。驚くほど丁寧な手つきで、私の顔についた土を払う。


「……助けて、くれたの?」


「当然だ」


その声は、今まで聞いたどの言葉よりも確かだった。


「——俺は、お前を死なせるわけにはいかない」


月明かりの下、彼の瞳が異様な光を帯びる。


怖い、と思った。でも同時に、不思議なほどの安堵が胸に広がった。


「前世でも」


彼が、呟く。


「お前は兄に殺された。俺は——間に合わなかった」


……は?


「今度こそ、俺が守る」


泥と涙でぐちゃぐちゃの私を抱きしめながら、桐生蓮司は静かに宣言した。


「だから——二度目の人生を、俺にくれ」




いやいやいや、おかしいでしょ。


ツッコミたい。ツッコみたいのに、声が出ない。


生き埋めにされて、掘り起こされて、前世がどうとか言われて——


情報量が、多すぎる。


意識が再び遠のいていく中、私はひとつだけ確信していた。




この男も、たぶん——普通じゃない。




◇ ◇ ◇




「——っ!」


目が覚めた瞬間、私は自分の喉を掴んでいた。


息ができない。土の匂いがする。暗い。狭い。埋められる——


「大丈夫だ」


低い声が、耳元で響いた。


「ここに土はない。お前は生きてる」


視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。


白い天井。柔らかなベッド。窓から差し込む朝日。


——土の中じゃ、ない。


「……っ、は……」


震える息を吐き出した。心臓がまだばくばく言っている。


「水」


グラスを差し出されて、反射的に受け取った。冷たい水が、干からびた喉を潤す。


三口飲んで、ようやく状況を把握する余裕ができた。


ここは——どこだ?


清潔だけど殺風景な部屋。必要最低限の家具。本棚だけが異様に充実していて、古書がぎっしり詰まっている。


ベッドの横には、黒い服の男が椅子に座っていた。


桐生蓮司。


切れ長の紺碧の瞳が、じっと私を観察している。


「……あの」


「質問は後だ。まず状況を説明する」


遮られた。


「ここは俺の隠れ家だ。都内某所、住所は教えない。お前は三日間眠っていた。肺に入った土は吐き出させた。外傷はほぼない。ただし——」


彼の視線が、私の手首に落ちる。


「手首の痣は、縛られていた跡だ。爪の中の土は、お前が自力で掻き出そうとした証拠。覚えているか」


覚えている。


覚えている、というか——忘れられるわけがない。


暗闘の中で、必死に手を動かした感覚。指先で土を掻いて、どうにか這い出ようともがいた。爪が剥がれそうなほど、何度も何度も——


「あの、」


「あと、これ」


テーブルの上に、何かが置かれた。


私のスマートフォンだ。泥だらけだけど、かろうじて動いている。


画面には、大量の通知。


『白峰家令嬢、結婚式当日に失踪』

『婚約者の桐生隼人氏、悲痛の会見』

『婚約破棄か?駆け落ちか?謎深まる令嬢失踪事件』


……は?


「失踪、扱い……?」


思わず呟いた。


殺されかけたのに?生き埋めにされたのに?


「世間では、お前は結婚式から逃げ出した無責任な女ということになっている」


蓮司の声は、淡々としていた。


「兄は被害者面して同情を集めてる。『彼女を信じて待ちます』とか言ってな。マスコミは連日その『健気な婚約者』を持ち上げて、お前を叩いてる」


画面をスクロールする指が、止まった。


ネットニュースのコメント欄。


『こんな良い人を捨てるとか頭おかしい』

『どうせ浮気でもしてたんでしょ』

『白峰家の令嬢って昔から性格悪いって噂あったよね』

『被害者ヅラしてた男の方が可哀想』


私を殺そうとした男が、同情されている。


私は——加害者にされている。


「っ……」


スマートフォンを握る手が、震えた。


いやいやいや、おかしいでしょ。


おかしいでしょこれ。どう考えても。


私は被害者だ。殺されかけた被害者だ。なのに世間では、私が婚約者を傷つけた最低女ということになっている。


「隼人……さんは」


「兄を『さん』付けで呼ぶな」


初めて、蓮司の声に感情が混じった。低い、押し殺したような——怒り。


「あいつは殺人犯だ。お前の前にも二人殺してる」


「……え?」


「お前に薬を盛った手口と同じだ。邪魔になった女を消して、事故か失踪に見せかける。桐生の権力で揉み消して、何食わぬ顔で次のターゲットを探す。——お前は、三人目になるはずだった」


言葉が、出なかった。


三人目。


つまり私の前に、二人の女性が。


私と同じように騙されて、私と同じように殺されて——


「お前だけじゃない」


蓮司が、静かに続ける。


「お前の母親の死も、本当に病気だったのか怪しいと思ってる」


「——は?」


血の気が、引いた。


「お前の母親が死んだのは十五年前。その直後から、桐生と白峰の業務提携の話が急速に進んだ。お前の父親は妻を亡くして精神的に不安定になり、桐生の言いなりになった。——都合が良すぎると思わないか」


思わない。思いたくない。


でも——


母が亡くなったあの日のことを、思い出す。


病院のベッドで、痩せ細った母の手を握っていた。『柚月、幸せにね』と微笑んだ母。穏やかな最期だった——はずだ。


でも、あの頃から父はおかしくなった。母の死後、まるで何かに怯えるように仕事に逃げ込んで、私のことを見なくなった。


——もしかして、父は知っていた?


母の死に、桐生家が関わっていたことを?


「証拠は、あるの」


声が震えた。


「ある」


蓮司が頷く。


「俺はずっと兄を監視してきた。十年以上。証拠も証言も、全部揃えてある」


「十年……?」


なんで、そこまで。


蓮司は答えない。代わりに、じっと私を見つめる。


あの瞳だ。土の中から助け出された時に見た、異様な光を宿した瞳。


「お前に、選択肢をやる」


彼が、低く言った。


「一つ目。このまま姿を消して、別人として生きろ。身分証も逃走資金も用意してある。桐生に関わらず、静かに生きていける」


「……」


「二つ目。俺と一緒に、兄を告発しろ。証拠を公開して、あいつの仮面を剥がして、社会的に殺す。——ただし、お前は世間の前に出なきゃいけない。叩かれる覚悟がいる」


二つの選択肢。


逃げるか、戦うか。


「どっちを選んでも、俺はお前を守る」


蓮司の声は、静かだった。


「——前世で、守れなかった分も」




そう。


それだ。それが聞きたかった。


「……前世って、なに」


三日間、ずっと引っかかっていた言葉。


土の中から助け出された時、彼は確かに言った。『前世でもお前は兄に殺された』と。


「文字通りの意味だ」


蓮司は、表情を変えずに答えた。


「俺には前世の記憶がある。——いや、前世だけじゃない。何度も、何度も、繰り返してる」


「……繰り返し?」


「お前は毎回、兄に殺される。俺は毎回、間に合わない。それを何度繰り返したか、もう数えてない」


淡々とした声。でもその奥に、押し殺された何かがある。


「——今度こそ、間に合った」


彼が、わずかに目を伏せた。


「間に合ったんだ、やっと」




いやいやいや、おかしいでしょ。


前世?輪廻転生?何回も繰り返す?


信じられるわけがない。こんな話。


でも——


彼が私を見つけた。あの廃教会の、土の中から。誰にも知られていないはずの場所から。


偶然?そんなわけない。


「……信じろって言われても」


「信じなくていい」


蓮司は、あっさり言った。


「お前が覚えてないのは知ってる。お前は毎回、記憶を持たずに生まれてくるから」


「じゃあなんで、あなただけ——」


「罰だ」


即答だった。


「お前を救えなかった、罰」




——何、それ。




切れ長の瞳が、私を射抜く。


その奥にあるのは、狂気か。執着か。それとも——


「俺がどれだけお前を想ってるか、今は分からなくていい」


蓮司が、静かに立ち上がった。


「でも一つだけ覚えておけ」


長い指が、私の頬に触れた。


土を払ってくれた時と同じ、丁寧な手つき。


「——俺は、お前を離さない。二度と」




救世主か、それとも。


私を土の中から助け出したこの男の正体を、私はまだ知らない。




◇ ◇ ◇




『婚約者の失踪から一週間。桐生隼人さんの会見です』


テレビ画面の中で、隼人さんが——いや、桐生隼人が、悲痛な表情を浮かべていた。


『柚月のことを、ずっと待っています。どこにいても、必ず見つけ出しますから——』


涙ぐむ横顔。震える声。


完璧だった。


何も知らない人間が見たら、傷ついた婚約者にしか見えないだろう。


「——吐き気がする」


思わず呟いていた。


私を殺そうとした男が、テレビの前で被害者を演じている。『心配で夜も眠れない』と涙を流している。


その手で、私を土の中に埋めたくせに。


「消すか」


蓮司がリモコンに手を伸ばす。


「……いい。見る」


自分でも驚くほど、冷静な声が出た。


「見ておきたいの。この男の嘘を、全部」




あれから四日が経った。


蓮司の隠れ家に匿われながら、私は少しずつ体力を取り戻していた。肺に入った土のせいで咳は残っているけど、歩けるようにはなった。


——心の傷は、別として。


夜中に何度も目が覚める。土の中にいる夢を見る。息ができなくて、暗くて、冷たくて——


「また寝てない顔だな」


朝食を運んできた蓮司に、あっさり見抜かれた。


「……分かるの」


「目の下の隈を見ろ」


ぶっきらぼうな言葉。でも差し出されたのは、温かいミルクティーだった。


「甘いのは嫌いか」


「……ううん、好き」


カップを受け取る。湯気と一緒に、紅茶の香りが鼻をくすぐった。


——なんで知ってるんだろう、私がミルクティー好きなこと。


聞こうとして、やめた。『前世で知った』とか言われそうだから。




「証拠を見せる」


食後、蓮司がノートパソコンを開いた。


「心の準備はいいか」


「……たぶん」


「たぶんじゃ困る。お前が見たら確実にショックを受ける内容だ。——隠し撮りの映像がある」


指が、キーボードを叩く。


画面に映し出されたのは、見覚えのある部屋だった。


桐生家の書斎。何度か訪れたことがある。隼人さんと——桐生隼人と、将来のことを話した場所。


映像の中で、隼人が電話をしている。


『ああ、白峰の件は予定通りだ。結婚式当日に処理する。——遺産の相続人は俺になるよう、もう根回しは済んでる』




——処理。




私のことを、そう呼んでいる。


人間じゃなくて、処理すべき対象として。


『面倒な女だったよ、まったく。毎日毎日尽くしてきて、従順で、愛想良くて——反吐が出る』


笑っていた。


あの優しい笑顔で、私を嘲笑っていた。


『柚月さんのためなら何でもしますよ、だってさ。やりたいことも言えない女が一番扱いやすいんだよ。——は、本当に鬱陶しかった。でもまあ、金のためなら我慢できるさ』


映像が、止まった。


蓮司が、私の顔を見ている。


「……大丈夫か」


大丈夫なわけ、ない。


愛されたかっただけだ。


母を亡くして、父にも見てもらえなくて、ずっと孤独だった私は、ただ誰かに愛されたかっただけだ。


だから従順でいた。嫌われないように微笑んだ。相手が喜ぶことだけを考えて、自分を殺して——


それを『鬱陶しい』と。『反吐が出る』と。


「っ……」


爪が、手のひらに食い込む。


ストレスを感じると爪を噛む癖があるけど、今はそれすらできない。指が震えて、力が入らない。


「泣いていい」


蓮司の声が、遠くから聞こえた。


「怒っていい。叫んでもいい。——お前は被害者だ。傷ついていい」


許可されて、初めて気づいた。


私、ずっと我慢してた。


埋められた時も。助け出された時も。世間に叩かれていることを知った時も。


泣いちゃいけないと思ってた。弱音を吐いちゃいけないと思ってた。誰かに迷惑をかけたくなくて、ずっと——


「うっ……ぁ、」


声にならない声が、喉から漏れた。


涙が溢れた。止まらなかった。


「あ、あの人、私のこと、ずっと……っ」


「ああ」


「私、尽くして、頑張って、嫌われないように——」


「知ってる」


「なのに、殺されかけて、埋められて、今度は世間から叩かれて——っ」


「全部知ってる」


蓮司の手が、私の頭に置かれた。


不器用な手つきで、髪を撫でられる。


「だから、泣け」




どれくらい泣いたか分からない。


気づいたら、私は蓮司の胸に顔を埋めて嗚咽していた。


彼は何も言わず、ただ私の背中を撫でていた。




「……ごめん」


泣き止んでから、掠れた声で謝った。


「服、汚した」


「どうでもいい」


本当にどうでもよさそうに言われて、少しだけ笑えた。


「あなた、優しいね」


「——そんなわけないだろ」


蓮司が、わずかに目を逸らした。


耳の先が、赤い。


……え、照れてる?


いやいやいや、この状況で照れる?怖いのか可愛いのかどっちなのこの人。


「優しくない」


彼が、低い声で繰り返した。


「俺は——お前を守りたいだけだ。お前が泣いてると、俺が辛い。だから泣き止ませたいだけで、これは優しさじゃない」


……それを優しさって言うんじゃないの。


言わなかったけど。


代わりに、私は深呼吸した。


「決めた」


「何を」


「戦う」


蓮司の瞳が、わずかに見開かれた。


「……本気か」


「本気」


立ち上がる。足はまだ少し震えているけど、心は決まった。


「逃げない。隠れない。——あの男の仮面を、私が剥がす」


画面の中で、被害者面を続けている桐生隼人を見据える。


「殺されかけて、埋められて、世間から叩かれて——それでも黙って消えろって?」


違う。


もう、従順な令嬢でいる必要はない。


「私を殺そうとしたこと、後悔させてやる」




蓮司が、口元を歪めた。


笑った——のだと思う。今まで見たことのない表情だった。


「それでいい」


「協力、してくれる?」


「愚問だな」


彼が、私の手を取った。


長い指が、私の指に絡む。


「——俺はお前の味方だ。この世界で、誰よりも」




信じていいのか、まだ分からない。


前世がどうとか、輪廻転生がどうとか、正直まだ信じられない。


でも——


彼が土の中から私を助け出してくれたこと。


私のために泣くことを許してくれたこと。


私が戦うと言った時、嬉しそうに笑ったこと。


それだけは、本当だ。


「ありがとう、蓮司」


名前を呼んだら、彼の耳がまた赤くなった。


……やっぱり可愛いな、この人。


怖いけど。執着が重いけど。たぶん普通じゃないけど。


でも今は——この手を、離さないでいようと思った。




◇ ◇ ◇




「はあ?柚月が生きてる?」


スマートフォンの向こうで、沙耶の声が裏返った。


『いやいやいやいや待って待って待って、ちょっと待って!あんた今どこ!?何があったの!?マジで心配したんだからね!?』


怒涛の質問攻め。沙耶らしい。


「落ち着いて。順番に説明するから」


『落ち着けるわけないでしょーが!あんたが失踪してから、あたしどれだけ——』


声が、詰まった。


『……ほんとに、生きてるの?』


「生きてる。ちゃんと」


『……よかった』


沙耶が、泣いているのが分かった。


この子は昔からそうだ。私のために泣いてくれる。私が泣けない時に、代わりに泣いてくれる。


「沙耶、ごめん。心配かけた」


『謝んないでよバカ。——で、何があったの。言える範囲でいいから』


深呼吸して、私は話し始めた。


結婚式当日に薬を盛られたこと。生き埋めにされたこと。蓮司に助けられたこと。隼人が過去にも女性を殺害していた証拠があること。


沙耶は、黙って聞いていた。


『——あたしの勘、当たってたわけだ』


話し終わると、沙耶は低い声で言った。


「勘?」


『ずっと、おかしいと思ってたの。桐生隼人。完璧すぎるでしょ、あの男。パーフェクト御曹司すぎて逆に怪しいっていうか』


「……そうだったんだ」


『だから柚月が失踪した時、あいつが怪しいって思った。被害者面してたけど、あの会見——何か違和感あったんだよね。涙の流し方が、演技っぽいっていうか』


さすが沙耶。伊達にフリーライターやってない。


『で、どうするの。逃げる?それとも——』


「戦う」


『——いいね。その答え待ってた』


沙耶の声に、力がこもった。


『証拠があるなら、あたしも協力する。ライターの端くれだからね。情報拡散とか世論操作とか、できることあるでしょ』


「危険だよ。桐生家を敵に回すことになる」


『知ってる。でもあんたは、あたしの親友でしょ』


——ああ、本当に。


この子と友達になれて、よかった。


「ありがとう、沙耶」


『礼はあとで聞く。まずは生き延びなさい。——あと、その蓮司って人』


「うん?」


『信用していいの?』


即答できなかった。


正直、まだ分からない。前世の記憶がどうとか、輪廻転生がどうとか、普通じゃないことは確かだ。


でも——


「今のところ、信用してる。少なくとも、私を殺そうとはしてないから」


『ハードル低っ』


「殺されかけた人間の基準なんてそんなもんよ」


電話の向こうで、沙耶が笑った。


『——うん、大丈夫そうね。あんたがそうやって冗談言えるなら、まだ壊れてない』


「壊れかけてはいるけどね」


『それでいいの。壊れかけても立ってられるなら、それが強さだから』




電話を切って、振り返る。


蓮司が、壁に寄りかかって腕を組んでいた。会話の間中、ずっとそこにいた。


「盗み聞き?」


「お前の安全確認だ」


悪びれもしない。


「……まあいいけど。沙耶は信用できる。昔からの親友だから」


「知ってる」


「——前世で?」


「前世でも今世でも。あいつはずっとお前の味方だった」


淡々とした言葉。でもどこか、安心したような響きがあった。


「協力者は多い方がいい。——で、次はどうする」


「そうね」


私は、窓の外を見た。


「そろそろ、動き出す頃だと思うの」


「何が」


「向こうが」




◇




翌日、そのニュースは飛び込んできた。


『白峰財閥当主・白峰誠一郎氏、緊急入院』

『失踪した娘を探し続けたストレスか、心労による体調不良と発表』


「お父さん……」


思わず、呟いていた。


テレビ画面には、担架で運ばれる父の姿。痩せ細って、別人のようになっていた。


「——狙われてる」


蓮司が、低く言った。


「お前が死んだと思われてる今、白峰の財産を手に入れるには、お前の父親を排除するのが一番早い」


「え、まさか……」


「まさかじゃない。兄ならやる。——いや、もうやってるかもしれない。この『体調不良』が本当に心労だけか、俺は疑ってる」


毒殺。


その言葉が、脳裏をよぎった。


「お父さんを——」


「病院を特定する。見張りをつける。今すぐには動けないが——」


「待って」


私は、蓮司の言葉を遮った。


「私が行く」


「は?」


「お父さんのところに、私が行く。顔を見せれば、『娘は生きている』って分かる。そうすれば——」


「馬鹿か」


即座に否定された。


「今お前が表に出たら、兄に見つかる。今度こそ殺される」


「でも——」


「お前の父親を守る方法は他にもある。お前が死ぬ必要はない」


「死なないわよ」


「——は?」


「あなたがいるでしょう」


蓮司の目が、見開かれた。


「あなたが守ってくれるって言った。だったら、私が出て行っても大丈夫でしょ」


「……」


「違う?」


沈黙。


蓮司の眉間に、深いしわが刻まれていく。


「——お前な」


低い声。怒っているのか、呆れているのか。


「俺の言葉を、そういう使い方するか」


「だって、あなた嘘つかないでしょう」


蓮司が、言葉に詰まった。


「……つかない」


「じゃあ、守ってくれるのも本当」


「——ああ、本当だ。本当だが」


「なら問題ないじゃない」


私は、微笑んだ。


「お父さんに会いたいの。——私を見捨てたような人だけど、それでも、家族だから」


蓮司が、深くため息をついた。


「……分かった」


「え、いいの?」


「ダメだと言っても聞かないだろ」


「正解」


彼が、額を押さえた。


「——条件がある」


「何?」


「俺から離れるな。絶対に」


強い口調。


「いつでも俺の見える場所にいろ。俺の手の届く距離にいろ。約束しろ」


「……分かった」


「軽く言うな。約束だ」


蓮司の手が、私の手首を掴んだ。


強すぎず、でも逃がさない力。


「——お前を失うくらいなら、俺は何でもする」


紺碧の瞳が、私を射抜く。


「世界を敵に回しても。自分が壊れても。——お前だけは、絶対に」




怖い。


この人の感情は、怖いくらい重い。


でも——


「分かった。約束する」


私は、その手を握り返した。


「私も、あなたを一人にしない。——一緒に戦うんでしょう?」


蓮司の瞳が、揺れた。


「……お前は」


「何」


「——いや、何でもない」


彼が、わずかに唇を緩めた。


笑った——のだと思う。


「準備をしろ。明日、病院に行く」




物語は、動き出した。


私を殺そうとした男と、私を守ろうとする男。


その間で、私は——


今度こそ、自分の人生を取り戻す。




◇ ◇ ◇




「娘さんが面会に来られていますが」


病室の扉の前で、蓮司が看護師と交渉している。偽造した身分証と、どこから手に入れたのか正規の面会許可証。


用意周到すぎて逆に怖い。


「——どうぞ」


扉が開いた。


深呼吸して、私は病室に足を踏み入れた。




「……お父さん」


白いシーツの上に横たわる父は、想像以上に痩せていた。


最後に会ったのは結婚式の前日。あの時はまだ健康そうだったのに、今は骨と皮ばかりに見える。


「……柚月」


掠れた声が、私の名前を呼んだ。


「生きて……いたのか」


「うん。生きてる」


私は、ベッドの横に座った。


父の手を取る。冷たくて、細い。


「心配かけて、ごめんなさい」


「心配……」


父が、目を閉じた。


「心配する資格など、私にはない」


「……え?」


「知っていたんだ」


力のない声で、父は続けた。


「桐生隼人という男が、お前を狙っていることを。お前の母を——殺したことを」




——は?




「お父さん、今なんて——」


「お前の母の死は、病気じゃなかった」


父の目が、開いた。


濁った灰色の瞳に、涙が滲んでいる。


「桐生家に、殺されたんだ。白峰の財産を手に入れるために。——私は、それを知りながら、何も言えなかった」


「なんで……」


「脅されたんだ」


父の声が、震えた。


「お前を殺すと。黙っていれば、娘だけは助けてやると。——私は、臆病だったんだ。お前を守るためと言い訳をして、真実を隠して、お前を桐生に差し出して……」


「待って。待って、お父さん」


頭が、追いつかない。


「じゃあ私と隼人……桐生隼人の婚約って」


「桐生家の要求だった。断れば、お前を殺すと——」


「嘘でしょ」


私の声が、裏返った。


「お母さんを殺した相手に、私を差し出したってこと?」


「——すまない」


父が、顔を覆った。


「すまない、柚月。私は、最低の父親だ。お前の母を守れず、お前も守れず——」




怒りが、湧いてきた。


当然だ。十五年間、ずっと騙されていた。母を殺した相手と知らずに、婚約して、尽くして——


殺されかけた。


でも——


父の手が、震えている。


年老いて、痩せ細って、罪悪感で潰れそうになっている。


この人もまた、桐生に人生を壊された被害者なのだ。


「……お父さん」


私は、深呼吸した。


「許せないよ。許せるわけない。でも——」


父の手を、握りしめた。


「今からでも遅くないから。証言して」


「……証言?」


「桐生隼人を告発するの。お母さんの件も、私の件も、全部。——私、戦うって決めたから」


父が、私を見た。


濁った瞳に、微かな光が宿る。


「お前は……強くなったな」


「強くなったんじゃない。強くならざるを得なかったの」


生き埋めにされて。土の中で死を覚悟して。それでも生き残って——


もう、誰かの言いなりにはならない。


「だから、お父さん。最後に——父親らしいことして」




沈黙。


長い沈黙の後、父が頷いた。


「……分かった」


掠れた声。でも、確かな意志があった。


「証言する。全てを——」




その瞬間、病室の扉が開いた。


「あれ、お取り込み中でしたか」


聞き覚えのある声。


柔らかくて、優しくて——吐き気がするほど、偽りに満ちた声。


「柚月さん?——生きていたんですね」


桐生隼人が、そこに立っていた。




「お義父様のお見舞いに来たんですが……まさか、ここで再会できるとは」


温かみのある茶色の瞳が、私を捉える。


あの優しい笑顔。完璧な紳士の仮面。


——気持ち悪い。


「心配していたんですよ、柚月さん」


一歩、近づいてくる。


「どこに行っていたんです?僕、毎日探していたんですよ?」


嘘だ。全部嘘だ。


私を土の中に埋めたくせに。


「——それ以上近づくな」


低い声が、割り込んだ。


蓮司だ。いつの間にか私の前に立っている。


「蓮司?お前、こんなところで何を——」


「兄さん」


蓮司の声は、氷のように冷たかった。


「俺が、彼女を助けた」


「……は?」


「お前が埋めた土の中から。——掘り起こしたのは、俺だ」


隼人の表情が、凍りついた。


ほんの一瞬。でも確かに、仮面に亀裂が入った。


「何を言って——」


「とぼけるな」


蓮司が、スマートフォンを取り出した。


画面に映るのは、隼人の書斎での通話——あの隠し撮り映像。


「全部、記録してある。お前がやったこと。十年分」




病室の空気が、変わった。


隼人の表情から、優しさが消えていく。


「——なるほど」


温かみのある声が、低く、冷たく変質する。


「お前が裏切るとはね、蓮司」


「裏切る?最初から、お前の味方だったことはない」


「そう。——じゃあ、仕方ないな」


隼人が、微笑んだ。


今度は、仮面なしの笑顔。


残酷で、冷酷で、背筋が凍るような——本物の笑顔。


「僕のものは、僕が処分する。——当然だろう?」




ポケットから何かを取り出す動き。


蓮司が私を庇うように腕を広げた瞬間——


病室の扉が、再び開いた。


「警察です。桐生隼人さん、ご同行願います」


制服姿の警官が、二人。


そしてその後ろに——


「やっほー、柚月。——あたしの勘、今回も当たったよ」


沙耶が、スマートフォンを構えて立っていた。


「今の会話、全部録音させてもらったから。『僕のものは僕が処分する』——いい自白だったね、桐生さん?」




隼人の顔が、歪んだ。


「お前——」


「観念しなさい」


私は、蓮司の後ろから一歩前に出た。


「もう、逃げ場はないよ」




桐生隼人が、連行されていく。


最後に振り返った彼の目には、信じられないという驚愕と、純粋な憎悪があった。


——でも、もう怖くない。


私はもう、土の中にいないのだから。




◇ ◇ ◇




『桐生グループ御曹司・桐生隼人容疑者、殺人未遂および過去の殺人容疑で逮捕』

『白峰家令嬢は生きていた——衝撃の告発全文公開』

『名門の仮面の下に——連続殺人犯の素顔』


ニュースは、瞬く間に世間を駆け巡った。


私が「失踪した無責任な女」から「殺人未遂の被害者」に変わるのに、わずか数日しかかからなかった。


世論って、怖い。


数日前まで私を叩いていた人たちが、今度は「最初から怪しいと思っていた」「被害者を叩いた自分が恥ずかしい」と手のひらを返している。


いやいやいや、それ絶対嘘でしょ。


内心でツッコみながら、私はテレビ画面を見つめていた。




『桐生グループ現当主・桐生雅臣氏が緊急記者会見を行いました』


画面が切り替わる。


白髪交じりの髪をオールバックに整えた初老の男性。威厳のある佇まい。


桐生雅臣。蓮司と隼人の、父親。


『——桐生の名に傷をつけることは、許さん』


彼はそう言い切った。


『息子の罪は、息子自身が償うべきだ。桐生グループとして、被害者の方々に心よりお詫び申し上げる。だが——これはあくまで個人の犯罪であり、会社とは無関係である』


切り捨てた。


実の息子を、あっさりと。


『なお、後継者については改めて検討する。桐生の血を引く者として、蓮司に——』


「消せ」


蓮司の声で、我に返った。


振り返ると、彼は無表情でテレビを見つめていた。でもその拳は、白くなるほど握りしめられている。


「蓮司?」


「あの男の言葉は聞きたくない」


リモコンを取り、テレビを消した。


画面が暗くなる。蓮司の横顔が、その暗がりに溶けていく。


「……父親、嫌いなの?」


「嫌いも何も」


彼が、乾いた声で笑った。


「あの男にとって、俺は存在しないも同然だった。愛人の子だからな」


「……」


「兄は何をしても許された。俺は何をしても見向きもされなかった。——今さら後継者とか言われても、反吐が出る」




蓮司の過去。


断片的に聞いてはいた。正妻の子である隼人と比較され、日陰者として育ったこと。


前世の記憶がどうこう以前に、今世だけでも十分に傷ついているのだ。この人は。


「蓮司」


私は、彼の隣に座った。


「あなたは、どうしたいの」


「……どうしたい?」


「復讐は果たした。隼人は捕まった。——その後のこと、考えてる?」


蓮司が、私を見た。


紺碧の瞳が、微かに揺れている。


「考えてなかった」


「え?」


「俺の人生は——お前を守ることだけだった。お前を救えなかった罪を償うことだけ」


彼が、目を伏せた。


「その先のことなんて、考えたこともなかった」




——ああ、そうか。




この人は、私を守ることだけに人生を費やしてきたのだ。


前世から何度も。私を救うためだけに、輪廻転生を繰り返して。


自分の幸せなんて、最初から考えていない。


「じゃあ、これから考えよう」


私は、蓮司の手を取った。


「一緒に」


「……一緒に?」


「だって私、まだあなたに借りがあるでしょ。命を救われた借り。——返さないと気が済まないの」


「借りなんて——」


「あるの。私がそう決めたの」


蓮司の言葉を、遮った。


「だから、傍にいさせて。あなたが自分の幸せを見つけるまで」


彼の目が、大きく見開かれた。


「……本気か」


「本気」


「俺の傍にいるのは、危険だぞ。俺は——普通じゃない」


「知ってる」


「前世の記憶があって、お前に執着していて——」


「全部知ってる」


私は、微笑んだ。


「でも、あなたは私を助けてくれた。土の中から掘り起こして、泣くことを許してくれて、戦う勇気をくれた」


「それは——」


「それだけで、十分じゃない?」




蓮司が、黙った。


長い沈黙。


その瞳に、複雑な感情が渦巻いている。戸惑いと、驚きと、そして——


「……俺は」


掠れた声。


「お前を、愛してる」


「——うん」


「前世から、ずっと。何度生まれ変わっても、お前だけを」


「知ってる」


「重いぞ。——お前が思っているより、ずっと」


「それでも」


私は、彼の頬に手を伸ばした。


「受け止めるから」




蓮司の瞳が、潤んだ。


初めて見る表情だった。いつも無表情で、感情を見せない人が——


「——お前は、ずるい」


彼が、私の手を握った。


「そんな風に言われたら、離せなくなる」


「離さなくていいよ」


「後悔するぞ」


「しない」


「——本当に?」


「本当に」




彼の額が、私の額に触れた。


近い距離で、紺碧の瞳を見つめる。


「俺が関われなくても、お前が笑っていればそれでいいと——」


蓮司が、呟いた。


「ずっと、そう思ってた。でも、もう無理だ」


「うん」


「お前の傍にいたい。お前の笑顔を、俺だけが見ていたい。——独占欲の塊みたいな俺で、本当にいいのか」


「いいに決まってるでしょ」


私は、笑った。


「だって私、重い愛されるの——嫌いじゃないから」




蓮司の目が、見開かれた。


そして——


初めて、彼が声を出して笑った。


「……お前、本当に——」


「本当に?」


「本当に、強くなったな」


「でしょ?」


私は、胸を張った。


「殺されかけて生き返った女は強いのよ」




崩れゆく桐生の王国を背景に、私たちは——


初めて、対等な場所に立った。




◇ ◇ ◇




裁判の日程が決まり、証拠も証言も揃い、勝利は確実——のはずだった。


でも、物語はそう簡単に終わらない。




『桐生隼人容疑者、拘置所から逃走』




そのニュースが飛び込んできたのは、裁判の三日前だった。


「——嘘でしょ」


思わず、呟いていた。


「嘘じゃない」


蓮司の声は、氷のように冷たかった。


「父親の差し金だ。桐生の金と権力を使って、兄を逃がした」


「でも、そんなこと——」


「あの男は、息子を切り捨てたふりをしていただけだ。最初から逃がすつもりだった。——俺たちが油断するのを待っていた」


私の背筋に、冷たいものが走った。


逃げた隼人が、どこに向かうか。


考えなくても、分かる。




「——私を殺しに来る」




「ああ」


蓮司が、頷いた。


「だから、先手を打つ」


「先手?」


「兄が来る場所は分かってる。あいつには執着がある。——自分が失敗した場所で、もう一度お前を殺そうとするはずだ」




あの廃教会。


私が埋められた場所。




「そこで、待ち伏せる。——終わらせる」




◇




夜。


月明かりの下、私は廃教会の前に立っていた。


崩れかけた壁。割れたステンドグラス。雑草に覆われた入口。


あの日、私はここで意識を失った。ここで埋められた。


「……大丈夫か」


蓮司が、私の肩に手を置いた。


「正直、大丈夫じゃない」


足が震えている。土の匂いを思い出すだけで、吐き気がする。


「でも、逃げない」


私は、深呼吸した。


「ここで終わらせるって、決めたから」




教会の中に、足を踏み入れる。


月光が、壊れた天井から差し込んでいる。埃っぽい空気。腐った木の匂い。


そして——


「来たね、柚月さん」


影の中から、声がした。


桐生隼人が、壁に寄りかかって立っていた。


拘置所から逃げてきたとは思えない、きちんとした服装。でもその目は——


狂気に満ちていた。


「まさか自分から来てくれるとは思わなかったよ」


柔らかい声。でもその奥に、隠しきれない殺意がある。


「僕を捕まえに?——無駄だよ。ここから生きて出られるのは、僕だけだ」


「——そう思うか、兄さん」


蓮司が、一歩前に出た。


「お前が逃げることは分かっていた。ここに来ることも。——警察はもう、この教会を包囲している」


隼人の表情が、歪んだ。


「……お前、僕を売るのか。実の兄を」


「兄?」


蓮司の声が、嘲笑った。


「お前が俺を兄弟として扱ったことが、一度でもあったか」


「——」


「お前は俺を見下していた。愛人の子だと。汚い血だと。——それでいて、自分は人を殺しておいて」


「黙れ」


隼人の声が、低くなった。


「お前に何が分かる。僕がどれだけ——」


「分かりたくもない」


蓮司が、遮った。


「お前の言い訳なんて興味ない。俺が興味あるのは——」


彼が、私の手を握った。


「この人を守ることだけだ」




隼人の目が、私たちの繋いだ手に向けられた。


「——は」


笑い声が、漏れた。


「そういうこと。お前、柚月さんが好きなのか」


「……」


「なるほど。だから邪魔したのか。自分のものにしたくて」


「違う」


「違わないだろう」


隼人が、一歩踏み出した。


「僕とお前は同じだよ、蓮司。欲しいものを手に入れるために何でもする。——血は争えないね」


「同じにするな」


蓮司の声が、揺れた。


「俺は——」


「俺は何?人を殺してない?でも殺意はあっただろう。僕を殺したいと思ったことは、何度もあるだろう」


「……」


「ほら、同じだ。お前も僕も、壊れてるんだよ」




——違う。




私は、蓮司の手を強く握った。


「違う」


声を出した。


「蓮司は、あなたとは違う」


隼人の視線が、私に向いた。


「柚月さん?」


「蓮司は確かに——重い愛情を持ってる。執着もある。でも」


私は、まっすぐに隼人を見据えた。


「この人は、私を傷つけない。守ろうとしてくれる。私の幸せを願ってくれる」


「——」


「あなたは違う。あなたは最初から、私を道具としか見てなかった。愛してなんかいなかった」


「愛?」


隼人が、笑った。


「愛なんて、くだらない」


「くだらなくない」


私は、声を張った。


「愛されたかったの、私は。ずっと。母を亡くして、父にも見捨てられて、誰かに愛されたくて——あなたを信じた」


「……」


「裏切られた。殺されかけた。でも——」


私は、隣の蓮司を見た。


「この人に、救われた。愛されるってこういうことなんだって、初めて知った」




蓮司の瞳が、揺れた。


「柚月——」


「だから」


私は、隼人に向き直った。


「もう、あなたは怖くない。——あなたに、私の人生を壊させない」




沈黙。


風が、崩れた壁の隙間を吹き抜けていく。


隼人の表情が、変わった。


狂気と、怒りと、そして——


「——なら、死ね」


ポケットから、ナイフが閃いた。


「柚月!」


蓮司が、私を庇うように動いた。


刃が、蓮司の腕を掠める。


「っ——」


「蓮司!」


血が、飛び散った。


でも蓮司は止まらない。隼人の腕を掴み、ナイフを弾き飛ばす。


「——終わりだ、兄さん」


二人がもつれ合うように、床に倒れ込む。


同時に、教会の入口が破られた。


「警察だ!動くな!」


光。声。足音。


警官たちが、なだれ込んでくる。


隼人が、取り押さえられる。


「離せ……離せ!僕は桐生の——」


「黙れ」


蓮司の声が、静かに響いた。


「お前はもう、何者でもない」




◇




全てが終わった後。


私は、教会の外に座り込んでいた。


隣には、腕を応急処置された蓮司。


「……傷、大丈夫?」


「かすり傷だ」


「嘘つき。めっちゃ血出てたじゃない」


「これくらい、前世で何度も——」


「前世の話は今いいから」


私は、彼の腕にそっと触れた。


「ありがとう。庇ってくれて」


「……当然のことをしただけだ」


「当然じゃないよ」


私は、微笑んだ。


「あなたのおかげで、私は生きてる。——二度目の人生を、生きてる」


蓮司が、私を見た。


月明かりの下、紺碧の瞳が潤んでいる。


「俺は——」


「うん」


「やっと、守れた」


「うん」


「お前を、失わずに済んだ」


彼の声が、震えた。


「前世では、間に合わなかった。何度も、何度も。お前が死ぬのを見るしかなかった。——でも今度は」


「今度は、間に合った」


「ああ」


私は、彼の手を握った。


「だから——もう、自分を責めないで」


「……」


「前世のことは分からない。でも今世では、あなたは私を救ってくれた。それで十分じゃない」


蓮司が、目を閉じた。


「——十分だと、思っていいのか」


「いいに決まってる」


私は、彼の頬に触れた。


「だって私、幸せだから。——あなたのおかげで」




崩れかけた教会の前で、私たちは手を繋いでいた。


全てが終わった場所で。


全てが始まった場所で。


「——愛してる」


蓮司が、呟いた。


「ずっと。何度生まれ変わっても」


「知ってる」


私は、微笑んだ。


「——私も」




月が、私たちを照らしていた。




◇ ◇ ◇




一年後。


私は、かつて廃教会があった場所に立っていた。


崩れた建物は取り壊され、今は小さな花畑になっている。季節の花が、風に揺れていた。


「——綺麗になったね」


隣に立つ蓮司が、頷いた。


「お前が決めたんだろう。ここを花畑にするって」


「うん。だって——」


私は、花畑を見渡した。


白い花。黄色い花。ピンクの花。色とりどりの命が、土の中から芽吹いている。


「ここで終わったんじゃないから。ここから始まったの、私の人生」




桐生隼人は、複数の殺人罪で起訴され、裁判の結果、無期懲役が確定した。


桐生雅臣も、逃走幇助と証拠隠滅の罪で逮捕された。桐生グループは解体され、名門は崩壊した。


私の父は、証言の後、静かに息を引き取った。最後に「柚月を守れなくてすまなかった」と言って——


許せたかと聞かれれば、分からない。でも、憎んではいない。


彼もまた、桐生に人生を壊された被害者だったから。




「——白峰財閥は、どうするんだ」


蓮司が、尋ねた。


「私が継ぐわ。父が残してくれたものだから」


「一人で?」


「まさか」


私は、微笑んだ。


「沙耶が広報担当として入ってくれることになったし——」


蓮司を、見上げる。


「あなたも、手伝ってくれるでしょ?」


「……俺が?」


「嫌?」


「嫌なわけないだろう」


彼が、私の手を取った。


「お前の傍にいられるなら、何でもする」


「相変わらず重いね」


「今さらだろう」


「——うん。今さらね」




風が、花畑を渡っていく。


一年前、私はここで土の中に埋められた。


息ができなくて、暗くて、冷たくて——死を覚悟した。


でも——


「蓮司」


「何だ」


「ありがとう。あの日、私を見つけてくれて」


「……」


「土の中から、掘り起こしてくれて」


蓮司が、私の手を握りしめた。


「——俺の方こそ」


「え?」


「お前が生きていてくれて、よかった」


彼の声が、震えていた。


「お前が笑っていてくれて、よかった。俺の傍にいてくれて——」


「蓮司」


「何度も失敗した。何度もお前を失った。でも——」


紺碧の瞳が、私を見つめる。


「今度は、失わなかった。——ありがとう。生きていてくれて」




私は、彼の頬に手を伸ばした。


涙の跡に、そっと触れる。


「——私こそ」


「え?」


「前世で何度も、私を探してくれたんでしょ。間に合わなくても、諦めなかったんでしょ」


「……ああ」


「だったら——ありがとう。諦めないでくれて」




蓮司の瞳から、涙がこぼれた。


無表情で、感情を見せない人が——私の前でだけ、泣いている。


「……お前は、ずるい」


「知ってる」


「そんな風に言われたら——」


「うん」


「もう、一生離せなくなる」


「いいよ」


私は、微笑んだ。


「離さないで」




彼の腕が、私を包み込んだ。


強くて、優しくて、少し不器用な抱擁。


「——愛してる」


「知ってる」


「何度でも言う。何度生まれ変わっても」


「うん」


「お前だけを——」


「私も」


私は、彼の胸に顔を埋めた。


「愛してる、蓮司」




花畑の上を、風が渡っていく。


土の中から生還した私は、ようやく本当の愛を知った。


歪んでいるかもしれない。重いかもしれない。普通じゃないかもしれない。


でも——


「ねえ、蓮司」


「何だ」


「来世があるなら——また、会いに来てね」


蓮司が、微笑んだ。


初めて見る、穏やかな笑顔。


「——約束する」




◇




「……ねえ、蓮司」


「何だ」


「私たち、おかしいよね」


「……何がだ」


「だって、一年前は土の中にいたのに。今はこうして花畑の前で、普通に手を繋いでる」


「普通じゃないか」


「いやいやいや、普通じゃないでしょ。どう考えても」


「……お前のその内心ツッコミ、最近声に出てるぞ」


「えっ、嘘。恥ずかしい……」


「恥ずかしがるな。俺は好きだ」


「……そういうこと、さらっと言うよね」


「事実だからな」


「相変わらず不器用なんだか器用なんだか分からない」


「どっちでもいい。お前が笑っていれば」


「……ほら、また重い」


「今さらだろう」


「うん。……今さら、だね」




蓮司の手が、私の手を握りしめる。


温かい。確かな温度。


一年前は冷たい土の中にいた私の手が、今は——


「蓮司」


「何だ」


「来世は、土の中じゃないところで会いたいな」


「——ああ。約束する」


「できれば、花畑の上がいい」


「分かった。花畑の上で、最初から隣にいる」


「……それ、最高だね」


「ああ。——最高だ」




崩れた教会は取り壊され、跡地には小さな花畑が作られた。


そこで、二人は静かに手を繋いでいる。


「ここで終わったんじゃない」


私は、呟いた。


「ここから始まったの」




——土の中から掘り起こされた花は、空に向かって咲いていた。




【完】

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