01/21 ハグの日 | きっかけ
目的地までの道のりは、公共交通機関を使うほど長くはない。ライトアップされた通路を、僕は妻と並んで歩いた。
「この辺の風景も、ずっと変わらないね」
「需要も少ないからね。改修予算は回ってこないだろうな」
他愛もない話をしながら、実のところ僕は少し緊張していた。妻もどこか上の空な様子だ。今更何かを恥ずかしがるような歳でも関係性でもないのだが、今日のようなイベントごとがあると、どうも落ち着かない。
通路の先に、施設の入口が見えてきた。
普段と違いところどころデコレーションされたドアに、大きく掲示が出ている。
『本日はハグの日!特別料金でご案内中!』
「商売っけが出てきたね」
妻が小声で言った。
「まあ、需要があるってことだろ」
僕は肩をすくめた。
でも、悪い気はしなかった。こういうきっかけを作ってくれるおかげで僕たちはハグができる。
扉を抜けると、ロビーにはたくさんのカップルや夫婦がいた。若い二人もいれば、僕たちと同じくらいの年代もいる。二人うつむいて押し黙っているもの、おしゃべりに花を咲かせているもの、既にハグをはじめているものと様々だったが、みな一様にそわそわしている。
自分たちを客観視しているようで、恥ずかしくなった。
受付を済ませ、案内されたのは奥のエリアだった。扉の向こうは無重力区画になっている。
「では、ごゆっくり」
スタッフが扉を開けた。
一歩踏み出した瞬間、足が床から離れた。
身体から重さが消えるこの感覚は、何度経験しても、慣れない。
隣で、妻が小さく「わっ」と声を上げた。
重心を崩して、ゆっくりと傾いていく。
「大丈夫」
僕は手を伸ばして、妻の手を取った。
妻の指が、僕の手を握り返す。その感触だけが、確かにそこにあった。
「ありがとう」
妻が少し照れたように笑う。僕も笑い返した。
手を繋いだまま、僕たちはゆっくりと部屋の中央へ進んだ。壁を蹴って移動する。
「じゃあ、その……」
僕が言いかけると、妻が頷いた。
「うん」
僕は妻の腰に、そっと手を回した。
妻も、僕の背中に手を添える。
ゆっくりと、抱きしめる。
力を入れすぎると離れてしまう。だから、優しく。
でも、どうもぎこちない。地球でのハグは、こうじゃなかった。そう思った瞬間、記憶が蘇る。
重力に引かれて、身体が密着する感覚。ずっしりとした重さ。相手の体温が、重力を通じて伝わってくる感じ。
いつ、どこで抱き合ったのか。細部は思い出せない。コールドスリープの影響で、地球での記憶の多くは混濁しているが、あの重さだけは、確かに覚えている。
でも、今は、重さがない。
僕が地球の記憶に引きずられて戸惑っていると、妻がくすっと笑った。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
妻の目が優しく笑っている。僕の不器用さが、面白いのだろう。でも、それを馬鹿にしているわけじゃない、愛おしいと思ってくれているのが、伝わってくる。
僕は少しだけ力を入れて、妻を引き寄せた。
二人の身体が、ゆっくりと回転し始める。作用と反作用。宇宙の法則が、僕たちをそっと回していく。
重力はない。でも、温もりはある。
妻の呼吸が、耳元で聞こえる。鼓動も、体温も、すべてそこにある。
ああ、そうだ。これが、ハグだ。
重力があってもなくても、変わらないものがある。相手をいとおしいと思うこの気持ち。その温もりを確かめたいという想い。
それは、何千年経っても変わらない。
しばらくそうしていた。どれくらいの時間だったのか、わからない。
やがて、僕たちはゆっくりと離れた。
「そろそろ、出ようか」
「うん」
扉を抜けて、重力のある通路に戻る。
足が、床に吸い付く。
ああ、この感覚。
隣で、妻が小さく息を吐いた。
「やっぱり、重力があると落ち着くね」
僕も頷いた。そして、妻の手を握った。
その重さを、確かに感じた。
帰り道、僕たちはまた他愛もない話をしながら歩いた。
「来週の予定、どうだっけ」
「確か、メンテナンスの日だったかな」
「ああ、そうだった」
しっかりと手を繋いで。もう、恥ずかしさはなかった。
「ねえ」と妻が言った。
「来年のこの日、今度は家から手を繋いで来られるといいね」
僕は少し驚いて、妻を見た。
妻が微笑んでいる。
「そうだな」
僕も笑った。
来年も、その次も。僕たちはこの日を迎える。手を繋いで、一緒に。
一月二十一日は、ハグの日。




