01/20 コーヒーブレークの日 |透明な黒
区切りは気分の問題だ。
いまだ足のつま先が午前中に引っかかっている。そういうことはままある。午後の仕事で躓かないためにも、ここは一度、気分を切り替えなければならない。
コーヒーブレークだ。
昨今では、コーヒーはもう一部の店か、プライベートな空間でしか飲めない。わざわざ自宅で淹れる好事家も中にはいるが、いろいろと手間がかかるし、何より店の味とは雲泥の差だ。だから俺はうまいコーヒーを求めて、この店に来る。
ドアを開けて店の中に入った。少し薄暗い空間が落ち着く。
カウンターの向こうでマスターがこちらに目線だけ向けて軽く会釈した。
背中が厚い。言葉が少ない。客が多くても少なくても、その手つきは変わらない。そういう人が淹れる一杯は、こちらの背筋を正してくれる。
俺は奥のブースへ向かう。換気口の真下。天井の金具が近い席だ。コーヒーの香りは好きだが、飲み終わった後に服や手に残る匂いにすら、過敏に反応する人もいる。
だから、俺はこの席を選ぶ。
カウンターの端に貼り紙がある。
『追加抽出はお断りします』
今時珍しい手書きの文字はところどころ掠れていて、何度も貼り替えた跡があった。俺はそれを見て、少しだけ口の端を上げる。そうだ、ここはこういう店だ。
棚に手を伸ばしているマスターと目が合った。だが、彼は何も語らない。俺もそれに倣う。
彼が棚から取り出したのは、透明な管のカートリッジだ。黒い粒が詰まっている。マスターはそれを、言葉の代わりみたいに俺の目の前へ掲げた。
粒が立っている。
こういう豆を使ってくれる店は、今じゃ貴重だ。
マスターは粒を手慣れた手つきで受け皿に落とし、その上に石臼の円盤を載せた。取っ手を指先でつまみ、ゆっくりと回していく。
力任せじゃない。一定の圧だけを、指先で巧みにかけていく。摩擦で粉砕された粒は輪郭を失い、受け皿に黒色の粉が広がっていった。手挽きとは思えないその細やかさと均一さに、俺は舌を巻く。
挽き終わった粉をカートリッジに戻すと、マスターはずいぶんと年季の入った抽出槽にそれを差し込んだ。エアシリンダーをセットし、一気に圧力をかける。
瞬間、漂う薄く独特な香り。嫌う人がいるのもわかる。
しかし、こういう癖の強さが俺は好きだ。
抽出が完了したようだ。弁が開き、圧が抜けていく。
マスターは抽出槽の蛇口に透明なグラスを添えて、ハンドルを慎重にひねった。
霧が立って、すぐ消える。続いて落ちてくる液は透明だ。
だが、底を見ると、黒い何かが薄く溜まり始めている。
注がれる液が増えるほど、底の影が濃くなる。光がそこで止まって、沈んでいくみたいだ。目が勝手にそこへ吸い寄せられる。
透明な黒。これを、俺は他に表現できない。
マスターが、カップを俺の前に置いた。
まずは上澄みの透明な液体のまま一口飲む。
口の中に風が吹く。豊饒な酸味と甘みがすっと広がっていった。心が沸き立つようなフレーバーを、食前酒さながらに楽しむ。
次いで、マドラーでグラスの中を軽く攪拌した。澱が舞い上がったところで、ぐっと飲みこむ。
これだよ。
強烈な苦みが喉の奥で弾けた。俺という存在の焦点が合っていく。視界が広がり、凝り固まっていた肩の内側がほどけていった。澱んでいた頭の中がクリアになっていく。世間の目は、いまはいい。
もう一口。
喉の奥がまた弾ける。そうだ、これがコーヒーだ。
マスターの最高の仕事に目線で称賛を送ると、マスターは口の端を少しだけ持ち上げて目を細めた。
さあ、仕事に戻ろう。気分はすっかり切り替わった。
俺はグラスを置いて、短く息を吐いた。
一月二十日は、コーヒーブレークの日。




