01/27 モーツァルトの誕生日 | 涙の球を虚空に浮かべて
調律師がピアノの前に座った。
足元のストラップを締め、身体を固定する。
音叉を叩くと、澄んだA音が広がった。
対流のない空間で、音はまっすぐに進む。
ここは無重力のコンサートホール。
かつての地球のそれとは何もかもが違う。
調律師が目を閉じ、耳を澄ました。
鍵盤を叩くと、弦が振動する。
音叉の音と重ね合わせるも、微細なズレが耳に触った。
ハンマーをチューニングピンに噛ませ、手首をほんの少しだけ回す。
鍵盤を叩く。手首を回す。
何度も、何度も繰り返す。
音叉の音とピアノの音が、完全に重なるまで。
今日はモーツァルトの誕生日。
悠久の時を経ても残り続ける、偉大な音楽を生み出したアーティスト。
その誕生を記念した定例コンサートが、本日行われる。
しかも今回、コールドスリープから目覚めて間もない女性が一人、賓客として招かれている。
女性はピアニストだった。
コールドスリープによる身体的後遺症のリハビリが今も続く彼女は、医者に演奏を止められている。本来は病院の外に出ることもかなわない身だ。しかし、彼女自身のたっての強い希望とオーケストラ側の熱意により、特別に招待された。
客席に誰が座ろうとも、プロフェッショナルの所作は変わらない。やるべきことをやるだけだ。
しかし調律師の指先には、静かな情熱の火が灯っている。
千年前に彼女が奏でた音と異なるなど、歴史とプライドに賭けてあってはならない。
少しのずれも、許されなかった。
この仕事を始めて二十年。音叉の音は、既に身体に染み込んでいる。
淀みない手つきで次の鍵盤の調律に取り掛かった。
ピアノは古い。何百年分の演奏を木製のその身に浴びてきた。
弦は幾度となく張り替えられ、ハンマーも交換されている。
響板も、フレームも、少しずつ手を入れられてきた。
だが、音は変わらない。
変わらないように、ずっと守られてきた。
最後の鍵盤の調律が終わった。
調律師は立ち上がり、足元のストラップを外して、静かにホールを後にした。
客席に人が集まり始める。少し遅れて、賓客の女性も姿を見せた。
筋力補助のため、医療用アクチュエーターを全身に装着したその姿はか細くあったが、女性はニコニコと笑っていた。
シートベルトで体を座席に密着させて、演奏開始を待った。
定刻。開幕のベルが鳴った。
緞帳が上がっていく。
黒い衣装を纏った奏者が舞台に現れた。
会場がシンと静まりかえる。
客席に向かって一礼し、ピアノの前の椅子に腰かけた。
無重力のホールでピアノを演奏するのは難しい。
鍵盤を押す力の反動で、身体が後ろに飛ばされないよう、奏者は厳重に身体を椅子に結束する。
楽譜を開き、鍵盤に指を置く。
心地よい静寂に揺蕩うように、ゆったりと音が弾み始めた。
ピアノソナタ第11番 イ長調 K. 331 (300i) 、
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
ずっと受け継がれてきた旋律。
奏者の指が、鍵盤の上を優しく跳ねまわっている。
音は対流のない空間をまっすぐに進み、天井に届き、壁に反射し、そして客席を包んだ。
客席後方に座っている調律師は、その澄んだ音色に自分の仕事の成功を確信し、満足げな笑みを浮かべた。
女性は、じっと聴いていた。目を閉じてただ、じっと。
時折指先がわずかに動き、変わらないあの日の旋律に、音もなくセッションをする。
千年前、地球で奏でた音が、今も変わらずここにある。
地球から宇宙へ。重力から無重力へ。
取り巻く環境がどれほど変わっても、変わらないものがここにあるのだ。
そして、演奏が終わった。
静寂が余韻となって、ホールを支配する。
誰も動くことができなかった。
息をすることさえはばかられた。
静謐で、穏やかな、侵しがたいこの神聖な時間。
やがて女性の口から、押し出されるように小さく言葉が漏れた。
「ブラーヴィ」
囁くようなその声を合図に、会場に拍手の渦が巻き起こる。
身体の拘束を解いた奏者は、客席に向け今度は深く頭を下げる。
調律師も客席の後ろで、小さく頭を下げた。
変わらないものを守ることには努力がいる。
調律の技術。
演奏の技術。
楽譜の保存。
ピアノの維持。
千年の時を超えて、積み重ねられてきた文化の結晶がここにある。
ブラーヴィ。ブラーヴィ。女性は涙の球を虚空に浮かべて、かみしめるように何度もそう繰り返していた。
一月二十七日は、モーツァルトの誕生日。




