第九章 抱きしめたのは、光だった
遠い夜の記憶。
泣いていた少年。
凍える小さな手。
その少年が、誰だったのか━━あと少しのところで、どうしても掴めない。
セイの手が、私の髪をそっと撫でる。
その指先が髪に触れるたび、胸の奥が静かに満たされていく。
温かな血ではない。包まれる温もりでもない。
私の深いところで、欠けていた何かが埋まっていく感覚がした。
だが同時に、吸血鬼としての本能が低く警鐘を鳴らしていた。
この人間に近づくな。この人間に触れるな!
けたたましく警報は私のなかで鳴り続ける。それでも何故か離れられない。
この少年は私の救いであり、私の破滅そのものだと━━、身体だけが先に理解していた。
「ラグナ……。僕……」
セイがその続きを言おうとした時、森の奥の闇が不吉にざわめいた。
風もないはずなのに、木々が揺れ、黒い影が走り抜ける。そして感じる、吸血鬼特有の気配。
(誰だ)
その感触は、私と同じ夜の種族のものだ。だが、もっと陰湿な、死の匂いを纏っている。
この闇は、私を最も弱くするものを正確に嗅ぎ分けているのだ。
何故かそんな風に思えた。
私の弱点を奪えばいいと。壊せばいいと本能で分かっているのか。
私が血を欲するよりも深く、手放せなくなった存在を。
腕の中の温もりが、急に脆く感じられた。
触れられるのは、私だけでいい。
その思考が浮かんだ瞬間、闇の気配が愉しげに膨らんだ気がした。
抱きとめた腕の中のその温もりを、誰かに触れさせてはいけない。
そんな考えが浮かんだ瞬間、私は息を詰めた。
静かな衝動が私の中を巡っていく。
セイは私の傍にいるのが当然で、離れる理由など存在しないと、この身体だけが先に理解している。
この執着に気づかれぬよう、私はさらに強くセイを引き寄せた。
「ラグナ?」
「黙っていてくれ」
私はセイを庇うように引き寄せた。
黒い気配の影は、確実に近づいてきている。セイの血が、私の呪いを緩和する。それを嗅ぎつけたとすれば━━
(セイが確実に狙われる)
「セイ」
「なに?」
私は彼の手を強く握った。
「私が守る。何があっても……お前を離さない。だから、私から離れないでくれ」
セイが息を呑む。
「ラグナ」
「お前は━━」
そこまで言いかけたところで、闇の奥から、冷たい声が響いた。
「隠しても無駄だ。そこにいるのは、灯の血だろう」
その言葉は、私の記憶の鍵を強引にこじ開けるような響きだった。
「灯の、血……?」
私の胸の奥が激しく鼓動した。
その言葉が、私の奥底に沈んでいた、ひとつの記憶を暴き始めた。
━━血に染まった雪。泣いていた少年が、私を抱きしめて言った。
『僕が灯になるよ。だから、死なないで……』
その声が、セイの声と重なった。
(セイ……。まさか)
思い出したくない。
だが、後悔が呪いとなり、孤独となり、今も私を縛り続けているのを感じてしまっている。
闇は、私のその消えない傷を知っている。
だからこそ同じ順序で、同じ場所を抉ろうとしているのだろう。
守るという言葉は、あまりに綺麗すぎると思うのだ。
私がセイに抱いているのは、そんな高尚なものじゃない。
奪われるくらいなら、壊れてもここにいろ!
そう囁く声が、喉の奥で蠢いた。
━━この醜い執着を、愛と呼ばれたくはなかった。
少しずつ思い出される記憶の欠片。
私は震える手で、彼の頬に触れた。
闇が動いた。黒い影が、私たちのすぐ背後まで迫っていた。
闇の気配に身構えながらも、腕の中の体温だけが異様なほど私に安心感をもたらした。
セイは無意識に、私の胸元へと額を寄せてくる。
逃げ場を探すような仕草ではない。
そこが最も安全だと、身体が知っているかのような動きだった。
その重みに、甘く胸を締めつけられた。
血よりも深く、呪いよりも確かな何かが、私の中で静かに目を覚まし始めていた。
そして私は思い出すことになる。
セイはただの人間ではなく━━私の呪いを解き得る、灯の血を持つ唯一の存在だったことを。
この物語は夜の闇に隠された痛みと、決して手放せない想いの記録です。
二人の距離は一瞬で縮まるものの、誰も完全には救われない。
血と記憶、欲望と孤独が入り混じる世界で、互いに触れ合うたび、深い渇きと静かな恐怖が心を揺さぶります。
どうか読者の皆様も、その痺れるほどの甘美と、切なさを胸の奥で感じていただければ幸いです。




