第七章 血が覚えていたぬくもり
セイは、今夜も私の前に座っていた。
ランタンの光が揺れて、彼の睫毛に黄金を落とす。それがあまりに美しく、私は数秒息を忘れた。
あの日から、セイはなるべく私の側に居るようになった。私が逃げても必ず見つけ出してくる。
まったく、なんの因果だろうか?
「……ラグナ、今日も顔色が悪いよ」
心配げに覗き込むその瞳は、まっすぐで、濁りがない。そんな目を向けられるたび、私は罪悪感と救いが同時に押し寄せてくる。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょ。だって……ほら」
セイは私の指先に触れた。それだけでひどく胸が痛む。
「手、冷たいよ?ラグナ」
「吸血鬼はもとより、冷たい」
「それでも、今日は特に冷たく感じる」
そう言われて、私は気づいた。自分の指先が震えていることに。
(……限界が近いのか?)
セイの血を飲めば確かに症状は幾分和らぐ。だが呪いは容赦なく進行し、セイの血以外を受け付けなくなっている。
どれほど彼の血を求めても、それは延命でしかない。本当の意味で私が救われることはないのだ。
「ラグナ」
セイが私の名を呼んだ。それは柔らかく、痛いほど懐かしい響きだった。
「僕の血、飲んで」
そう言ってセイは、私に手首をそっと差し出す。
「その前に、ひとつだけ聞く」
「え、何?」
「セイ。お前は私を、怖くないのか?」
セイは少し考えるように視線を落とした後、ゆっくりと首を振った。
「ううん。怖くない」
「普通の人間は、吸血鬼を見れば逃げる」
「ラグナは何か違うよ、上手く言えないんだけど」
「私だって吸血鬼だぞ?」
「うん分かってるんだけどさ。ラグナは、いつも苦しそうで、寂しそうなんだよ。僕を 見るとき、少しだけ安心したみたいな顔をするから、なんかほっとけない」
心臓が、大きく脈打った。
そんな顔を、私はしていたのか。
それを見て、セイは私を怖がらず、むしろ近づいてくれていたらしい。
その言葉に、胸の奥がひどく軋んだ。
私はいつも、感情を隠してきたはずだった。苦しみも孤独も、誰にも見せぬように、血と一緒に呑み込んできた。
それなのに━━セイは、それを見ていたのか。
私がどれほど意識して平静を装っても、彼の前では、どこか気が緩んでいたらしい。
拒むべき理由はいくつもある。
危険だ!間違っている。このままだと彼を傷つける。
それでも、彼を遠ざける言葉だけが、どうしても浮かばなかった。
安心した顔をしていた、と言われた瞬間から、私はもう逃げ場を失っていたのだ。
「……。わかった。飲ませてもらう」
「うん」
唇を寄せる直前、私はほんの一瞬だけ躊躇した。彼の血は確かに私を救う。だが彼の身体を傷つけていることに変わりはない。
それでも……、気づけば牙を立てていた。
血が流れ込む。その瞬間、胸の苦しさがふっと軽くなった。血が喉を通るたび、心臓が温かくなる。ただの温度ではない。何か深いところに落ちていく熱だ。
私は血を吸う行為がこんなにも救いになるとは思っていなかった。与えてくれるのが、苦悶でも飢えでもなく、生きていると実感させるためのものだったなんて。
セイの血は、何かを思い出させようとしている。でも、まだ輪郭がはっきりしない。
胸の奥で、名前を呼ばれた気がした。
それは声ではなく、何かへの祈りのような感覚だった。失われるはずのものを、必死に繋ぎ止めようとする気配だ。
血の温もりと混じって、セイの存在そのものが、身体の深いところにじわりと染み込んでくる。
離れたくない、離してはいけない━━。
そんな衝動が、渇きとは別の形で私の奥深くの場所を脈打つ。
私は思わず、名残惜しむように唇を離すのを遅らせていた。
飲み終えた私は、ゆっくり顔を上げた。
「大丈夫?」
「ああ。少し、楽になった」
そう言うと、セイはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……、ほんとによかった」
その口調が、あまりにも安堵に満ちていて、私は思わず彼を見つめた。
「お前は……、どうしてそこまで私を……」
言葉に詰まる私に、セイは小さく笑った。
「理由は分からない。でもね、ラグナを見ると、なぜか守りたいって思うんだ」
「は?私を?」
「うん。なんでだか分からないんだけど」
「セイ……」
「なに?」
「お前、私とどこかで会ったことはないか?」
私の唐突な質問に、セイは目を丸くした。
血は命であり、記憶であり、祈りでもある。
この章では、そんな血の意味がラグナにとって少し変わった夜を描いています。
まだ何も思い出していない。
それでも確かに、覚えているものがある。
その曖昧さを楽しんでいただけたら嬉しいです。




