第六章 運命は血の顔をして微笑む
掴んだ瞬間、セイの身体が小さく震えた。
その反応だけで、喉の奥がきつく締めつけられる。
離せ!今すぐ突き放せ!
頭では何度も命じているのに、指は絡め取るように力を増していく。
セイが近すぎる。
手首から立ち上る血の匂いと、微かに触れる体温。それらが混ざり合い、理性を覆っていく。
━━駄目だ。
この一歩を越えれば、私はまた呪いの痛みに沈む。血は毒となり、理性は焼かれる。
それを、何百年も繰り返してきたはずだった。
それなのに……。
この温度を失いたくないという感情が、血への渇きと区別できなくなった瞬間、最後の均衡が静かに崩れた。
唇が手首に触れ、息がかかる。
セイが小さく息を呑むのが分かった。
「あっ」
青年の震える驚きの声が辺りに小さく響いた。その直後、牙が皮膚を貫き、温かい血が私の口内に流れ込む。
血を吸った瞬間、胸の奥で固まっていた氷がひとひら、溶け落ちたような感覚があった。
そして何より、血が喉を伝うたび、身体の奥で確かに力が戻ってくるのが分かった。
息がしやすい。
━━生きられる。
その事実が、ひどく恐ろしかった。
楽になっているのに、胸の奥が冷えるのが分かる。この感覚は初めてだ。今までは血を飲めば必ず痛みが伴い、代償として理性を削られてきたはずだ。
それなのに今は、何も失っていない。
代わりに、満たされてしまっているのだ。
もしこの救いが、セイだからこそ与えられているのだとしたら?
私はもう、この温度なしでは生きられなくなる。
そう理解した瞬間、救われたはずの心が、ゆっくりと恐怖に染まっていった。
血の温度だけじゃない……。
抱き寄せた腕越しに伝わる、微かな鼓動と、確かな体温。それが血と同じ速さで、私の内側に流れ込んでくる。
おかしい。
私は血を欲しているはずなのに、今はそれだけじゃ足りないのだ。
セイと離れたくない。セイを逃がしたくない。
この温もりごと、抱き潰してしまいたい衝動が胸を満たす。
これは渇きじゃない。
もっと厄介で、もっと甘い━━、血と同じ顔をした感情だ。
その感情が、私の内側で静かに根を張っていくのを感じていた。
拒むべきだと分かっているのに、身体はそれを危険だとも、異常だとも告げてこない。
むしろ、長いあいだ失われていた何かが、正しい場所に戻っていくような錯覚すらあった。
だからこそ、恐ろしくて……。
だからこそ、目を背けたくなった。
(やはり……苦しく、ない……)
いつもなら、血を飲んだ瞬間に襲ってくる地獄のような苦痛がない。身体の芯がじわりと温まり、弱っていた力が少しずつ満ちていく。
こんなことは一度もなかった。何百年ものあいだ、ずっと。
(血を吸うと苦痛しか感じなかったのになぜだ?)
私は思わず青年の腕を抱きしめていた。これがどれほどの救いか、自分でも理解が追いつかないほどだった。
「だ、大丈夫……?」
吸血鬼に襲われていると言うのに、青年は怯えずただ私の事を心配していた。それが余計に胸を締め付けた。
「どうして……お前の血だけ」
その言葉を発した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
思い出せないはずの記憶が、形になる寸前で霧散していく感覚。
答えを知りたいのではない。知ってしまうのが、ひどく恐ろしかった。
「え?」
青年が首を傾げる。その仕草が、不意に胸を締めつけた。
理由は分からない。
ただ、その反応が━━懐かしい気がする。
初めて会ったはずなのに、そう断言するには確信が強すぎた。
「いや、なんでもない。それよりも、何故、私が吸血鬼だと分かった今でも逃げない?」
問いは理性的な形を取っていたが、内側では別の声が囁いていた。
もし逃げない理由があるのなら、それを聞いてはいけない。
それを知れば、この均衡は完全に崩れてしまう。
それでも視線は、無意識に青年の表情を追っていた。
まるで、答え次第で失われるものがあると知っているかのように。
青年は少し困ったように笑って答えた。
「理由なんて、わからないよ。ただ何故か、怖くないからかな?それよりもよかった。あなたが楽になったなら」
そう言って青年は嬉しそうに微笑んだ。馬鹿だなと思う、吸血鬼の心配などして。
だが、嬉しくもあった。私を心配してくれて。
「なんでだろう?僕はあなたを助けたいって強く思うんだ。変だよね?知り合ったばかりなのにさ」
助けたい━━その言葉は、私とは無縁だった。私を見てそう言う人間など、この世にはいないと思っていた。
(私を助けたいか?なぜだろう、私も何かやはりセイになにか感じているものがある)
私はまだ知らなかった。
セイが私の唯一の救いであると同時に、彼自身が私の忘れ去った過去そのものだということを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「救い」と「呪い」が表裏一体である関係を描いた、ダーク寄りのBL作品です。
吸血鬼であるラグナにとって、セイは安らぎであり、同時に抗えない因果そのものでもあります。
この先、二人の関係は甘さだけでは進めません。
それでもなお惹かれ合ってしまう理由と、忘れ去られた過去が、少しずつ明らかになっていきます。
続きも見届けていただけたら嬉しいです。




