第五章 その血に触れたら、もう戻れないと思った
森の奥で、私は木々に背を預け、蹲っていた。胸を爪で引き裂くような感覚が治まらない。
息を吸うたび、肺に熱い針が刺さるような痛みを感じていた。目を閉じれば、世界の音さえも遠のいていく。このまま暗闇の世界に沈んでいくなら、それも悪くはないと思えた。
「あの、大丈夫……?」
死を受け入れようとしたその時、私の元へ闇を切り裂くような、柔らかな声が落ちてきた。
その人間の持つ、小さなランタンの橙が、ふわりと震えて明かりを灯している。闇にふれた瞬間に消えてしまいそうな細い光だが、今の私にはとても大きな光に見えた。
私は力を振り絞って顔を上げた。
そこには、一人の青年が立っていた。
夜色の瞳と髪色。白く細い指、陶器のような肌。
セイだ。彼の前から俺は逃げ出したのに、また会ってしまった。
彼を見るとなぜか、彼からは懐かしい匂いがした。
だが、何度見ても知らない顔だ。記憶のどこを探しても名前の欠片すら浮かばない。
「私に、近寄るなと言ったはずだぞ」
声が掠れ、唇から血の味が滲む。本能が告げていた。これ以上この青年に近づけば、私はまた血を求め、自制を失ってしまうだろうと。
私がそうなってしまえば、それは人間にとって死を意味する事になる。
だが青年は、明らかにおかしい私を見ても怯えなかった。むしろ一歩、こちらへ近づいてくる。
「痛そう……。何があったんですか?こんなに苦しんでるのに、見捨てられないよ」
青年から向けられる純粋な心配。私なんかこんな心配をされるような立場ではない。彼が向けている表情は、狩られる側の生き物が向ける表情ではない。人間の敵であるはずの私を助けようとしているのか?
そのことが信じられず、胸が妙な鼓動を刻んだ。
「それ以上……来るなと言っている」
「ごめんね。でも、見ていられなくて」
優しい声に、胸がざわつく。こんな声を向けられる覚えはない。私は異端の吸血鬼なのだから。
ずっと、世界は冷たかった。人間も、同族の吸血鬼さえも、私を避けた。呪われた存在に近づく者はいない。
━━おかしいのは、私か?それとも彼か?
そんな疑問を抱いた瞬間だった。青年の手に小さな切り傷があることに気づいた。どこかで怪我をしたのかもしれない。甘い血の匂いがふわりと漂う。
その匂いに反応して喉が焼ける。ひどい乾きが一気に駆け上がり、身体を支配していく。
(……だめだ)
ここで彼の血を飲めば、私はまた激痛にのたうち回る事になる。私の呪いは、愛のない者の血を毒に変えるのだ。
だが吸血鬼としての私の身体が、その匂いに反応して勝手に動く。
甘い匂いに、喉の奥がひくりと鳴った。
それだけで、胸の奥に押し込めていた衝動が一斉に目を覚ます。
視線が、意思とは無関係に彼の首筋を追ってしまう。
セイがいつの間にか、とても近い。
呼吸のたびに伝わる体温が、やけに生々しく感じる。
セイを見ると、胸がざわつく。
血への渇きとは違うはずの感覚が、鈍い痛みを伴って広がっていく。
それが何なのか考えようとする前に、思考は甘い匂いに溶かされていった。
━━巻き込みたくない。壊したくない。
それでも、離れたいとは思えなかった。
もしこの距離を越えれば、私はもう戻れない。
吸血鬼としてではなく、一個の欲として彼を求めてしまう。
そんな予感だけが、やけに確かな重さを持って胸に沈んでいく。
セイが更に近づこうとしたその瞬間、私は彼の手首を掴んでいた……。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この話では、血への渇きと、人への執着が少しずつ混ざっていく瞬間を描いています。
吸血鬼としての本能と、それでも守ろうとしてしまう感情。
その境界が曖昧になるところを感じていただけたら嬉しいです。




