第四章 渇きは彼の名をしていた
本作には、男性同士の関係性(BL要素)と、少しダークで歪んだ感情描写が含まれます。
ご理解の上でお読みいただければ幸いです。
朝が来たことは、光ではなく寒さで分かった。
洞窟の奥、湿った岩肌に背を預けたまま、私は浅い呼吸を繰り返していた。夜が明けたのかどうかも分からない。ただ、身体の芯に、じわじわと冷えが溜まっていく。
(……一日だ)
セイに会わないと決めてから、まだ一日しか経っていない。
それなのに胸の奥に巣食う不快感は、数日分の空白を一気に埋めるように膨れ上がっていた。
(これでいい)
そう思わなければならなかった。
彼の血を飲めば、確かに楽にはなるのだろう。渇きは嘘のように静まり、身体も思考も、元の形を取り戻す━━そんな予感がした。
だがそれは同時に、彼を危険に晒すということだ。
それに――
(私は、依存してはいけない)
一人の人間に、生存を委ねるなど、あってはならない。それは吸血鬼としての矜持でも、理性でもない。ただの恐怖だろう。
彼の血を求めれば求めるほど、彼がいなければ生きられなくなる。その未来が、あまりにも鮮明に見えてしまったのだ。
だから、会わない。セイからなるべく距離を置くのがいいのだ。
そうすれば、この渇きも、この感情も、いずれ薄れていくはずだ。
――そう、信じたかった。
立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気づく。
重い……。身体が自分のものではないようだ。
喉がじくじくと、焼けていた。水を含んでも潤わない。空気を吸っても、息が浅い。
(……おかしい)
まだ血を吸わなくなって、一日だ。ここまで進行するはずがない。
森へ出て、動物の気配を探す。この際、人間の血ではなくてもいいだろう。
小さな獣を捕らえ、血を口に含んだ瞬間――胃が激しく痙攣した。
「……っ」
喉が血を拒絶する。反射的に吐き出した血が、地面を濡らす。
(……そうか)
理解した瞬間、背筋が冷えた。呪いが、進んでいる。
唯一の生命線である血さえ、身体が拒み始めているのか。
(まずい……)
視界が、わずかに揺れ、ガクッと膝をついた。
身体の輪郭が曖昧になり、どこまでが自分でどこからがこの世界なのか、境界が曖昧に溶けていく。
理性が、少しずつ削られていくのが分かった。
思考がぶつりと途切れる。一つの考えを、最後まで保てない。
(……セイ)
名前が、勝手に浮かぶ。
やめろ、違う、違う!考えるな!
これは血の渇きだ。彼の存在とは、関係ない。
そう言い聞かせるほど、逆に鮮明になる。
セイの声や視線。手首に触れたときの、あの温度。
あの夜。
吸わなかったはずなのに、確かに違いを感じてしまった。
他の血を飲んだときは、いつもそうだった。
喉を通るたびに痛みが走り、理性が軋み、罪悪感が積もっていく。
だが、セイの血を感じた時は━━
(……苦しく、なかったな)
寧ろ、その血が欲しいとまで思ってしまったのだ。
他者とセイの血……、何が違うのだろうか?
喉が、心が強く反応する。舌の奥が疼き、牙の存在を主張してくる。
セイの血が欲しい。セイの血を飲みたい、セイの存在を喰らってしまいたい。
そして、セイに、会いたい……。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が激しく軋んだ。
その感情が、あまりにも醜くて、吐き気がした。
(最低だな……)
血が欲しいのか、彼が欲しいのか━━。
もう、自分でも分からない。
とにかく限界が、近い。
身体が、はっきりと告げている。
このまま耐え続ければ、壊れるのは肉体ではなく理性のほうだと。
セイの血を飲めば、楽になれるのかもしれない。
あの痛みのない感覚。私の凍りついた内側が、静かにほどけていく感触。
それでも私は、彼には会わない。
――いや、会えない。
会えば、知ってしまうだろう、この違和感の正体を。
なぜ彼の血だけが、私に痛みを与えずに生かすのかを……。
そしてきっとその理由を知った瞬間、私達は戻れなくなるのだ。
冷え切った岩肌に額を押しつけ、私は目を閉じた。
ただ呼吸だけを繰り返し、意識を繋ぎ止める。
それなのに━━。
耳の奥で、風とは違う足音を探している自分に気づいてしまい、私は小さく、息を詰めた。
――思い出すな。
そう命じた瞬間、胸の奥であの血の温度が、かすかに脈打った気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語では血への渇きと、人への執着の境界を曖昧なまま描いています。
欲しているのは血なのか、それとも彼自身なのか。
その答えをはっきりさせないことが、この話の軸でした。
会わなければ壊れないはずだった関係が、それでも名前を思い出してしまう――
そんな矛盾を感じていただけたなら嬉しいです。




