第三章 救いに似た、破滅の気配
この物語は、
血を拒み続けてきた吸血鬼と、
その「拒み」を静かに揺らしてしまった人間の出会いから始まります。
※流血・吸血表現を含みますが、本章では実際の吸血行為はありません。
静かな闇と心理描写を重視しています。
「……私に、近寄るな」
それは、脅しではなかった。
本心からの警告だった。
「噛むぞ」
本能に正直に言い放つ。
そうすれば、普通は逃げると思ったからだ。
どうみても私は普通ではないだろう。こう言えば大抵は恐怖して、距離を取る。
それが、人間の正しい反応だ。私達を恐れる人間の反応なのだ。
だが青年は、目を見開いたまま動かなかった。
「え……?」
なぜか驚いているのは、むしろ彼のほうだった。
なぜそんな事を言われるのか理解できない、という顔。
「冗談……じゃない、ですよね」
「……本気だ」
喉の奥が、じり……と焼けた。
牙の根元が疼き、意識せずとも口が開きそうになる。
「だから、来るな」
言葉の端が格好悪くも掠れた。
それでも伝えなければいけないと思った。
ここから先に進んでしまえば、きっと私自身にも制御できない。
だが青年は視線を逸らさず、じっと私を見ていた。
「……でも」
そう言い放ち一拍、置いて──
「すごく、苦しそうです」
そう続けてきた。
その言葉に、なぜか胸の奥がざわついた。
(……苦しそうだと?)
そんなふうに言われた記憶はない。
恐れられることはあっても、心配されたことは一度もなかった。
理解できず言葉を返せない私に、青年は少し迷うようにしてから口を開いた。
「名前……聞いても、いいですか」
「……何の意味がある」
「呼ばないと……その、落ち着かなくて」
唐突な言葉に意味が分からなかった。
だが、なぜかその言葉を拒めなかった。
いまここで名前を伝えないと、後悔すると思ってしまったのだ。
「……ラグナだ」
名を告げた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
痛みとは違う──もっと、微かなもの。
「ラグナさん」
名を呼ばれる。
なぜかそれだけで、呼吸が一瞬楽になった気がする。
あり得ない。こんなに渇いているのに。まだ、血は飲んでいないのに。
「僕は、セイです」
そう言って、青年――セイは微笑んだ。
(……やめろ)
これ以上、私に近づくな。その笑顔を向けるな。
そう叫びたかった。怒鳴ってしまって、追い返そうかと思った。
だが、この青年を見ていると、なぜか落ち着くが落ち着かなくなる。
胸の奥から、何かが訴えかけてくるような感じがするのだ。
「本当に、近づかない方がいい」
私は、最後の警告を口にした。
「これ以上来れば……私は」
言葉を続ける前に、セイが、一歩踏み込んだ。
その瞬間──、理性が、揺らいだ。
次の瞬間には、私は彼の手首を掴んでいた。
とても細い、人間の骨の感触。
きっと私が思ったよりも、ずっと脆いのだろう。
「……っ」
小さく息を呑む音。
甘い血の匂いが、立ち上る。
その匂いは強くはない、それなのにはっきりと分かる。
とても甘い、静かで、綺麗な血だ。
喉の奥が、ひくりと痙攣した。
だが同時に胸の奥の締めつけが、ほんの一瞬だけ、緩む。
(……なぜ)
まだ、噛んでいない。
血も、飲んでいない。
それなのに、痛みが薄れるのは何故なんだ?
あり得ないはずの変化に、思考が追いつかない。
私の牙が、彼の皮膚に触れた。
薄い皮一枚隔てただけの、彼の細い手首。ほんの少し力を入れれば、貫ける距離。
(……だめだ)
吸えば生きられるし、この苦しみは、きっと消える。
だが、それは同時に、私が人として――いや、存在として、決定的に壊れる瞬間でもあった。
人間を生贄として存在し続ける吸血鬼。私が嫌うその存在として生きていかなければならない事をまた受け入れなければならないのだ。
手首に牙を押し付けられても、セイは逃げなかった。
怯えも抵抗もなく、ただ、不安そうに私を見つめていた。
「……大丈夫、ですか?」
その声に、胸が痛んだ。
私を恐れない……私を、化け物として扱わないセイの瞳。
そんな資格を、私は持ってはいないのに。
私は、化け物の中の化け物なのに。
「……離れろ」
絞り出すように言って、私は彼の手首を放した。
牙を引き、顔を背ける。
喉の焼けるような渇きが、ぶり返す。
胸の痛みも、再び強まるが、それでも構わなかった。
これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。
「……ごめんなさい」
セイは、そう言った。
なぜ彼が謝るのか、分からなかった。
謝るのなら、私の方だろうに。
かける言葉が見つからなくて、ここから去ろうと私は立ち上がろうとして再び膝をついた。
身体が、限界だった。それでも、セイがいるこの場所から逃げなければならない。
視界が揺れ、地面が遠のく。呼吸をするたび、胸の奥が重く軋んだ。
それでも――、セイがいるこの場所から、離れなければならない。
これ以上、彼の存在を近くに感じ続ければ、私は自分を保てなくなる。
優しさに、甘えてしまう。
恐怖ではなく、安堵を覚えてしまう。
それが、何よりも恐ろしかった。
セイの血を吸わなかった。
それでも――、心の底では吸いたかった。
それがどれほど致命的な事か、理解しているはずなのに、否定できない事実が胸に残っている。
軽く触れただけなのに、彼の血だけが何か違った。
痛みが、消えかけた。
苦しみが、和らいだ。
それは救いであり、同時にきっと、破滅への入口でもある。
(……次は)
そんな言葉が、意識の底から浮かび上がった瞬間、私は必死にそれを振り払った。
次など、あってはならないのだ、もうセイには会わない方がいい。
次があれば、きっと私はもう戻れなくなる。
血を拒み続けてきた理由も、誰も傷つけまいと足掻いてきた意味も、すべて、言い訳になってしまう。
それでも――心のどこかで、私はもう知っていた。
この夜は、終わりではない。
逃げ切れなかった。きっと忘れられなかったのだ。
また始まってしまったのだろう……。私と、セイの血の物語が。
三章は、
吸わなかった夜の話でした。
でも我慢できた夜ではありません。
ラグナは血を拒みました。
それはきっと正しい選択だったと思います。
ただその正しさが、彼自身を少しだけ、深い場所へ押してしまった気もしています。
よかったら、もう少しだけ
このふたりを見ていってください。




