第二章 終わるはずだった夜に、声がした
※本作はダーク寄りのファンタジーです。
孤独や痛みを抱えた吸血鬼の物語になります。
心理描写中心で、展開はゆっくりめです。
お時間のあるときに、そっと読んでいただけたら嬉しいです。
森へ向かった理由を、私はうまく思い出せない。
ただ、気づけば足が人里から離れる方向へ進んでいた。
人に会いたくなかった。
正確には人を……、これ以上傷つけたくなかった。
人の気配を感じるだけで、胸の奥がざわつく。
血の匂いが混じるたび喉の奥が乾き、同時に恐怖が込み上げる。
――血を飲まなければ、生きられない。
――血を飲めば、苦しむのだ。
その矛盾が……、私の存在そのものだった。
今夜も、最低限の量だけを奪った。
意識を失わせないよう、命を奪わないよう、細心の注意を払って。
それでも、血が喉を通った瞬間、世界が歪む。
肺が焼ける。心臓が内側から締め潰される。
骨の一本一本が軋み、身体が露骨な拒絶反応を起こした。
それ以上に苦しいのは、――また、生き延びてしまったという事実だった。
「……っ」
声にならない呻きが漏れ、私は森の奥へよろめいた。木々の影が揺れ、視界が滲む。
(……まただ)
いつも通りの痛み。
いつも通りの夜だろう。
それなのに、今夜は少しだけ違った。
身体の奥から、疲労が一気に噴き出してくる。
足がもつれ、膝が地面に落ちた。
そのまま、前のめりに倒れこむ。
湿った土の匂いが、やけに鮮明だった。
(……立たなきゃな)
そう思うのに、力が入らないのだ。
指先すら、言うことを聞かない。
呼吸が浅くなる。
鼓動が、遠ざかっていく。
(このまま……)
頭に浮かんだのは、恐怖ではなかった。
むしろ、奇妙な安堵だった。
――終わるのか。
これ以上、血を求めなくていい。
これ以上、誰かを傷つける心配もしなくていい。
生き続ける責任から、解放される。
夜の闇が、私を包み込もうとしている。
(……悪く、ない)
ここにはもう、私しかいない。
そう、思っていたのに。
「あの……大丈夫、ですか?」
優しい声がした。
幻聴だと思った。
こんな森の奥に、人がいるはずがないと。
けれど、闇の向こうで小さな光が揺れた。
橙色のランタン。
それを掲げて、誰かがこちらへ近づいてくる。
(……来るな)
本能が警告を鳴らす。
今の私は危険だ!
近づけば、きっと血を求めてしまう。
そう思うのに、伝えることも出来ない。
「怪我……してます?」
心配そうな声だった。
恐怖も、嫌悪も、感じられない。
こんな夜、この距離で向けられるものじゃない。
私が誰かも分からないのに、こんなに近づくなんてどうかしている。
私は、かろうじて顔を上げた。
ランタンの光の中に立っていたのは、
夜色の髪と瞳を持つ、細身の青年だった。
夜色を纏う彼を見て思う。
(……彼の方が、吸血鬼みたいだ)
そんな、どうでもいい考えが浮かんで消えた。
「……近づくな」
掠れた声で、そう言った。
それは彼のためでもあり、何より、自分のためだった。
「危ない……から、近寄るな」
私の警告を無視して、それでも青年は一歩近づいてきた。
「でも、倒れてるじゃないですか」
その距離で、はっきりと分かった。
――彼から甘く香る血の匂い。
血の匂いは、強くなかった。むしろ、驚くほど薄いくらいだ。だが私は彼の身体に流れる甘い血の匂いを嗅ぎ分ける。
胸の奥が、じくりと熱を持つ。
喉の奥が、ひくりと痙攣した。
(……違う)
欲しいわけじゃない。
吸いたいと、思っているわけでもない。
ただ、この距離に“人がいる”という事実が、私の身体に血を思い出させるだけだ。
――私は、吸血鬼だ。
どれほど拒んでも、どれほど自分を嫌っても、その事実だけは変わらない。
青年は、私を見下ろしていた。
怯えた様子はなく、警戒する素振りもない。
まるで、倒れている誰かを助けようとしているだけの人間のように、私に無防備に近づく。
じっと私を見つめてくる夜色のその視線が、ひどく居心地が悪かった。
(やめてくれ)
そんな目で、私を見るな。
私は、助けられる側に立つ資格なんてないんだ。
そう言いかけて、言葉が喉で詰まった。
もし、ここで彼が恐怖を見せたなら?
嫌悪を滲ませてくれたなら?
きっと、私はまだ楽でいられただろう。
それならきっと、諦めもついた。
(……まずい)
喉が、疼く。
それは飢えでも、欲望でもない。
――血を吸ってしまう自分を、想像してしまった恐怖だった。
甘く漂う香り……。
この距離は、もう逃げられる距離じゃないではなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
まだ何も始まっていないようで、少しだけ歯車が動き出した夜でした。
次話では、もう少し二人の距離が描けたらと思います。
よろしければ、引き続きお付き合いください。




