第十章 夜霧に潜む、運命の影
森の空気が、一瞬で凍りついた。
風は吹いていない。枝葉の揺れも止まっている。ただ、音だけが消えていく。世界が耳を塞ぐように、ひどく静まり返る。
暗闇の奥から歩み出た影は、細長く、滑るように動き、まるで夜の霧が形を取ったかのようだった。
現れたその男は、私と同じ、吸血鬼だった。
「久しいな、ラグナ」
私はセイを背に庇い、低く唸った。
「……。何の用だ、ランバード」
「呪われた吸血鬼の匂いが、森の端まで届いていた。興味が湧いてな。どれだけ衰えたのか、確かめに来た」
ランバードは愉快そうに笑った。その笑みには感情がなく、ただ私が苦しむ姿を見たくてたまらない、と言わんばかりの残酷な光が宿っている。
「セイには近づくな」
私は静かに告げた。牙が自然と伸び、喉の奥で低い唸りが漏れる。
その瞬間、ランバードの視線がセイへと向けられた。
冷たく、値踏みするような目だ。
まるで獲物を品定めするかのように、じっくりとセイの姿を眺めている。
その視線に、私の中で何かが激しく反応した。
(見るな)
心の奥底から、黒い衝動が湧き上がる。
その目で、彼を見るな。
セイは——私のものだ。
そう叫びそうになる自分に、私は驚愕した。
これは所有欲?執着?庇護欲?
それとも、もっと別の、名前をつけてはいけない感情だろうか?
いやこんな事を言ってはいるが、答えは出ている。これは愛だ。愛情だ。
理性では否定しても、身体が先に理解していた。
セイを奪われることだけは、絶対に許せない。
背後でセイが小さく息を呑む気配がした。
その震えが、私の腕越しに伝わってくる。
怖がらせてしまっている。
「ほう?お前にとってその人間、よほど特別らしい」
ランバードの言葉が、図星を突く。
私は答えなかった。答えれば、それが真実になってしまう気がした。
セイは特別だ。
それは、灯の血を持つからではない。
彼といると、胸の奥が温かくなる。
彼の声を聞くと、孤独が薄れていく。
だが、その事実を認めることが、何よりも恐ろしかった。
執着すれば、失ったときの痛みは計り知れない。
千年前のあの絶望を、もう一度味わうことになるからだ。
握りしめたセイの手が、私の唯一の繋ぎ止めだった。
「関係ない。去れ」
言葉は冷たく放たれたが、その裏に隠された感情を、ランバードは見抜いているようだった。
彼は愉快そうに笑みを深める。
「関係ない、か。随分と必死に庇うものだな、関係のない相手を」
その嘲笑に、歯を食いしばる。
反論すれば、墓穴を掘る。
沈黙すれば、図星だと認めることになる。
ランバードは私の弱点を、正確に把握していた。
そして、その弱点は今——私の背後で震えている。
「関係あるともさ。まあ、お前の呪いを緩和する灯の血を持っているのだから、当たり前か」
背中越しにセイが震えた。
「ラグナ。灯の血ってなに?」
セイの声が、不安げに揺れている。
その声を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
説明しなければならない。
だが、どう言えば彼を傷つけずに済むのか分からない。
「お前は特別な存在だ」
そう言えば、彼は自分が道具のように思うかもしれない。
「お前でなければならない」
そう言えば、運命に縛られていると感じるかもしれない。
どちらも、真実であり、同時に真実ではない。
私がセイを求めるのは、灯の血を持つからだけではない。
だが、それを今ここで告げることはできなかった。
「後で話す。今は……絶対に離れるなよ?ランバードは危険だ」
私はセイの手を握りしめた。その細い指が私の手に絡み、ぎゅっと握り返してくる。
その感触だけで、少しだけ呼吸が楽になった。
不思議だった。
血を飲んでいるわけでもないのに、セイに触れているだけで、呪いの痛みが和らぐ。
まるで、彼の存在そのものが、私にとっての救いであるかのように。
(だからこそ、危険なのだ)
依存してしまえば、もう戻れない。
きっと私は、セイなしでは生きられなくなる。
それは、呪いよりも恐ろしい鎖だった。
ランバードは、セイの顔をじろりと舐めるように眺めた。
その視線に、再び黒い衝動が湧き上がる。
見るな!触れるな。
彼は——私の唯一無二の存在。
言葉にならない感情が、喉の奥で渦巻いた。
「お前は人間の顔色ばかり伺うほど落ちぶれたのか?」
「黙れ」
声が、予想以上に低く響いた。
それは威嚇ではなく、本能からの警告だった。
これ以上セイに近づけば、私は本気でランバードを殺しにかかるだろう。
呪いで弱った身体でも、セイを守るためなら全力で殺す——。
その覚悟が、既に決まっていることに気づいて、私は愕然とした。
(私は、もう……)
後戻りできないところまで来ていた。
「昔のお前なら、人間など一瞬で血袋に変えていただろうに。随分丸くなったものだ」
ランバードの言葉が、胸に刺さる。
確かに、昔の私はそうだった。
人間を、ただの餌としか見ていなかった。
だから——呪われた。
「……だから私は呪われたんだろう。違うか?」
その言葉にランバードは肩をすくめた。
「一体誰がお前に呪いをかけたんだろうなぁ?」
その問いに、セイが息を呑んだ。
背中越しに伝わる、その小さな反応。
セイは気づいているのだろうか?私の呪いの正体に。
いや、分かるはずないか。私だって分かっていないのだから……。
お読みみいただき、ありがとうございます。
この話を書いていて、一番描きたかったのは「必要とされること」と「愛されること」の違いです。
セイは、ラグナに必要とされている。
でもそれは、「灯の血」を持っているから?
それとも、「セイだから」?
ラグナもまた、その答えにまだ辿り着けていません。
執着なのか、依存なのか、それとも――愛なのか。
本人は分かっておりますが、セイの為にまだ認めるわけにはいかない。
二人が本当の答えを見つけるまで、まだ少し時間がかかります。
でも、その過程こそが、この物語の核心だと思っています。
次回も、どうぞお付き合いください。




