第10話:旅立ちの音
冬が過ぎ、校庭の雪が解ける頃、僕は再びピアノ室に座っていた。
鍵盤に触れる指先には、かつて感じた冷たさだけでなく、あの温もりの記憶も混ざっている。
あの日の雪の舞う午後、手を握り、旋律を重ねた瞬間が、まるで胸の奥で生き続けているようだった。
大学を卒業し、プロのピアニストとして世界を巡る日々。ステージの光、観客の息遣い、拍手の振動――どれも鮮やかに体感できる。
しかし、どれだけ華やかな舞台でも、指先に伝わるあの温もりと、心の旋律は唯一無二で、ミナと奏でた曲を超えることはできなかった。
ある日の公演の前、僕はステージ裏で鍵盤を触りながら静かに思う。
――君のために、もう一度、あの旋律を紡ごう。
舞台に立つと、観客の目が光り、呼吸が重なる。
右手でトリルを刻み、左手で低音を支え、ペダルの振動を意識しながら、心の中の旋律を奏でる。
音は空間を震わせ、観客の心にも届く。
しかし、僕の指先は常にミナの存在を探している。
鍵盤に触れるたびに、あの日の手の温もり、残響、呼吸が蘇る。
胸の奥の孤独と幸福が交差し、指先に力を込めるたびに涙がこぼれそうになる。
ステージの光が揺れるたび、雪の舞う午後が目の前に広がる。
微かな残響が、僕の心と観客の心をつなぐ。
曲が終わる瞬間、会場に静寂が訪れ、拍手がゆっくりと波のように広がる。
その拍手の中に、僕はミナの笑顔を見た気がした。
指先に残る残響を感じながら、僕は小さくつぶやく。
――君と紡いだ旋律は、永遠だ。
涙が頬を伝う。しかしそれは悲しみだけではなく、希望の涙だった。
僕は深呼吸をし、次の曲に向かう。
胸の奥に刻まれた旋律は、もう僕だけのものではない。世界中の人々に届けるための、旅立ちの音となった。




