第五話 信徒
(ふふっ、赤ちゃんみたい)
(別に良いじゃん……落ち着くんだから……)
(おやすみ、ユキ)
(おやすみ、フィオ姉)
そして、夜の微睡に私たちは溶けていく。
そして、朝の音で目を覚ます。
ミラとヴィル爺を起こして、私は厨房へ向かう。
今日の朝ごはんは目玉焼きだ。
慣れた手つきで、大量の卵をミスなく焼いていく、
それが焼き上がる頃に、子供たちがこう言うのだ。
“ねえ、ご飯まだ?”
もうできたよ、そう笑顔で返してミラと配膳する私。
そして、みんなで言うんだ、“いただきます”って。
——そんな未来が、あればよかったのに。あった、はずだったのに。
私は、夢を見ていたんだ。幸せな夢を、ずっと、ずっと。
それが壊れたなら——壊した相手の夢も、全部壊して仕舞えばいい。
* * *
胸の辺りに、何か冷たい感触を感じる。だが、“痛み”は全く感じない。
私は、心臓を貫かれた状態で信徒に抱きしめられていた。
嘴に貫かれた胸の方を見ると、どくどくと生ぬるい液体が溢れ出していた。それが真っ黒い液体だということに気づいた私は、自分がもう人間ではないんだと改めて実感する。
「サア……オトナシクソノ身体を明ケ渡スノダ……」
そう言いながらこちらを睨みつける、嘴から生えた六つの眼球。それに向かって、私は優しく微笑みかけ——そっと優しく抱きしめた。
ああ、可哀想に。
——お前はもう、私に殺されてしまうのだから。
「……エ?」
一瞬、何をされたのか理解できずに戸惑う信徒。
抱きしめた嘴を思い切り自分の方へ抱き寄せると、ぐっ、とさらに胸の傷が開く感触がした。
「ありがとう、教えてくれて」
私はそう言いながら、彼の身体を思い切り蹴り飛ばした。
「ちゃんと——“死なない”って、分かったから」
——ぽたり。
彼の首元から、一滴の赤い雫がこぼれ落ちる。
次の瞬間、切り落とされた肉の断面から、勢いよく血飛沫が吹き出した。
「……案外、脆いんだね……あっさり首が取れちゃった」
そう言いながら、私は嘴を胸から引き抜き、地面に投げ捨てる。
彼も、自分がどうなったかを理解したようで、数秒後には首なしの道を痙攣させてその場でのたうち回り始めた。
「あれ、もう終わっちゃうの?」
私は満面の笑みを浮かべながら、転げ落ちた嘴を思い切り踏みつける。
ぐしゃり、ぐしゃりと音を立てながら、卵の殻のように粉々になっていくそれは、数十回踏みつけた頃にはもう原型を留めていなかった。
粉々になった黒い破片が、砂のようにぱらぱらと地面に落ちていく——
「ァ、アアアァアァアア……ッ!」
その時、切り落とされた信徒の首の断面が泡立ち、赤黒い肉片が盛り上がり、絡まりながら形を作っていった。
「……あ、それ治るんだ」
数秒の間に、肉柱が伸びて骨が浮かび上がり、形をなして“頭”になっていく。
そして、再び這い出た六つの眼球が、ぎょろりとこちらを睨みつけた。
「ヨクモ……ヨクモオォ……!」
明らかに、さっきまでとは声質が違った。
怒鳴り声。怒気。
理性を削ぎ落とした獣の咆哮。
「キサマッ……調子ニ乗ルナァアアッ!」
怒ってる。
めちゃくちゃ、怒ってる。
「わぁ、元気になったね」
「黙レェェ!!」
信徒は三本の足で地面を掴み、こちらに向かって勢いよく突進してくる。
攻撃は——見切った。さっきと同じ、突進攻撃。
案の定、既に出した手札を使い、突っ込んでくる信徒。
だが、恐ろしく速い——さっきまでとは桁違いだ。
「死ネエェェ!!」
嘴による連撃が嵐のように襲いかかる。
後ろに後退しながら避けるたび、背後の地面、岩、瓦礫や木々が粉々に砕け散る。
普通の人間ならば、一撃喰らうだけで全身が吹き飛ぶような威力だ。
「そんなに怒らないで、遊んでるだけだよ?」
「フザケルナァ!! オレを……オレをコケにシヤガッテ!!」
嘴が私の身体を掠めるたびに、黒い液体が勢いよく飛び散る。
感覚はないまま。だからこそ、少しだけ怖い。
でも——少し余裕が出てきた気がする。攻撃の全てが、あまりにも単純だ。試しに、隙を見て一発、奴の首に蹴りを入れてみる。
脚に硬く変形させた触手を纏わせ、鋭く殺傷力を底上げした一発。
それを思い切り振り上げた瞬間、ずぶり、という何かがめり込むような音と共に、彼は血飛沫を撒き散らしながら悲鳴を上げた。
「クソガッ……コロス……ッ!」
「ああそっか、痛いんだっけ……ごめんね?」
「キサマに、謝ル資格ナンザ……ッ!」
私が微笑むと、それが挑発とも知らずに、馬鹿な信徒はさらに激昂した。
「ソノ面! 潰ス!! 殺スッ!!!」
怒りに任せた、連打、連打、連打。
嘴はキツツキのように高速で地面を突き、叩き、私を殺そうと襲いかかってくる。
——だが。
「……遅いよ?」
そう言いながら、私は目の前で暴れ狂う彼へ、もう一度蹴りを入れた。
再び噴き出す血飛沫。色は綺麗な赤だ、羨ましい。
「ウウ……アアッ……ッ!」
「……もう、諦めたら? いい加減分かったでしょ、“勝てない”って」
だが、私の声も届かず、彼は再び攻撃を仕掛けてくる。
今度は爪だ。流石に、嘴だけじゃ勝てないと学習したのだろうか。
「いいね……もっと楽しませてよッ!」
こちらに再び突進してきた信徒は、背中の黒翼を大きく広げた、そこに生えた巨大な爪が、月明かりをぎらりと反射する。
信徒は、胸から一本だけ伸びた後ろ足を地面に突き刺した。
爪先が地面にめり込み、まるで杭のように彼の身体が固定される。
「ハァアッ!」
次の瞬間、急激に加速した爪がこちらに向かって思い切り振り抜かれる。
咄嗟にしゃがんで躱す私。真後ろに生えていた大木が、五、六本まとめて斬り倒される。
「わぁ、今のちょっと速かった」
「ダマレッ!」
信徒は後ろ足を地面から抜き、今度は左右の翼を交互に地面へと突き刺して、三点を軸に竜巻のように回転を始めた。
私の顔の前で、黒い光の弧が無数に走っていく。
今まで後ろに後退し続けていたが、今回はかなり不規則で、それだけでは避けられない。度々衝撃が身体に伝わり、黒い飛沫が上がっていく。
だが、別に想定の範囲内だ。多分、死ぬことはない。攻撃が始まって数秒が経つ頃、私は既に腕を使って、難なく全ての攻撃を受け流していた。
「マダマダァッ!」
その時、突然彼は回転攻撃を止めて、両翼を地面に突き刺して後ろ足をこちらに向けた。突然のことに混乱する私。そうだ、これを求めていたんだ。
「喰ラエ……|《砲穿撃》ッ!」
次の瞬間、彼の足先から黒色の魔力弾が放たれた。
そして、超至近距離で私の胸に直撃。
「っ……!」
——痛い。
ほんの僅かに、ぴりっとした痛みが走る。
自分の身体を見ると、攻撃が当たったであろう場所には大きな穴が空いており、黒ずんだ骨や内臓が剥き出しになっていた。
その時、突然胸の奥がざわつき、全身が震え立つ。
そして、思わず涙がこぼれ出した。痛い、痛い。
——まだ、痛みが残ってる。
——私、まだ人間でいられるんだ!!
私は泣きながらその場で笑った。狂気ではなく、純粋な喜びから。心の底から。
「すごい! まだ痛いよ! もっと、もっとちょうだい!」
「……何ヲ言ッテイル?」
「いいから、早く!」
私はそう言い、頬を赤らめながら両腕を広げる。
「バカガァッ!」
信徒はそう叫び、連続で同じ攻撃——|《砲穿撃》を放った。
私はそれを全て無防備のまま受け止める。
一発、二発、三発。
衝撃が身体を揺らし、ひび割れるような痛みが再び。全身に広がる。
だが——
痛みは四発目からだんだんと薄れ始め、十発目を受ける時には完全に消えてしまっていた。
「あ……あれ……?」
さっきまで確かにあった“痛み”が、跡形もなく消失している。
身体がまた、適応してしまったのだ。
「嫌だ……嫌ダ……」
私は、必死に自分の体を掻きむしり始める。皮膚が破け、黒いものが飛び散り、骨が剥き出しになっていく。私はその骨を自分で身体から無理やり引き抜き、半分に追ってはその先端を身体中に突き刺していく。
全ては、痛みを消さないため。痛みを忘れないため。私が人間であることを、私自身が忘れないために。
だが、身体はそれを許してはくれない。致命傷の“痛み”すら無くなった私の身体に、そんな感覚は不要だからだ。みるみるうちに、先ほどのひび割れるような感覚が私から消えていってしまう。
「ダメ……ダメ! 消エナイデ、消エナイデッ!」
私は絶望に暮れ、目の前のオモチャのことすら忘れてその場で膝をついた。
嫌だ、嫌だ。私はまだ、人でいたい。まだ、たくさんやり残したことがある。
私は理性を失いかけていた——いや、本能が、“この力”が、私を支配しようとしているのか。
もう、意識を保てない。“身体”が、“私”を支配して——
「死ネェ、バケモノッ!」
その瞬間、私の頭が何かによって貫かれた。視界が暗転し、その場で動けなくなってしまう。
一体、何が起こったんだ——そう思いながら、瞬時に眼球を右手に生やして、私は辺りを見回した。
真上に見えたのは、黒光りする嘴。頭は、完全に潰されていた。両脚は信徒の翼によって完全に固定されており、脚は胸の辺りを掴んでいる——極限まで急所を破壊する作戦だろうか。
そして思考の最中、ふと私は気付いた——身体の主導権が、乗っ取られていない。まだだ。まだ、戦える。
唯一の視界だ、攻撃に右手は使えない。立ち上がって退くこともできない。
残った左腕で攻撃することは可能だが、その前に、彼の魔法が、私の心臓部に炸裂するだろう。
まだ、この身体がどうなっているのか、どこまで耐えられるのか、完全に理解したわけじゃない。できる限り、致命傷となり得る攻撃はもう避けておきたい。どうする、どうすればいい。考えろ、考えろ——
——その時、ある物体が私の視野に入った。そうだ、これを使えばいい。
私はふっと左腕を上げる。次の瞬間、彼が叫んだ。
「終ワリダ……|《砲穿撃》ッ!!」
私の胸の辺りが爆発する。辺りに黒い火花が散り、土煙が舞い上がった。
「ヤッタ、カ……?」
彼がそう呟く。土煙が開ける。
だが、そこにはもう——私はいない。
「ちょっと遅かったね……もっと早く撃てば、殺せてたかもしれないのに」
私は、彼を見下ろしながら呟いた。
「助けてくれてありがとう……名前、まだ分かんないけど」
私はそう言いながら、身体中にまとわりつく黒い触手にそう言う。
“それ”は地面から生えるようにして私の身体を支えていた。
爆発の直前、左腕伝いに“それ”で全身を覆い、威力を極限まで軽減してからの離脱——我ながら完璧な作戦だ。
「ナ、ゼ……」
目の前で信徒が唖然としながらそう呟く。
「なぜ、って……あなたが弱いから? それとも、私が強いだけなのかな?」
「……一ツ、聞カセテクレ」
「……何?」
彼は、鋭い眼光で私を睨みつける。
「今ノ貴様ニ……“死”トイウ概念ハ、残ッテイルノカ?」
私は、少し考えてから答えた。
「……“いいえ”と、そう答えたら?」
彼は何も答えぬまま。
その時、血濡れた嘴がゆっくりと、一度だけ、小さく開いた。
息が漏れただけ、声にはならない。
次の瞬間。
辺りの空気が、一変する。
冷たくて、禍々しくて、でもどこか、慈愛に満ちたような雰囲気。
そう、まるで、強者が弱者を見下すときのような——
「……神ノ獣ヨ、今ココニ降臨セヨ——|《聖骸降臨》」
その時、彼が静かにそう呟いた。
そして——爆発が起こる。




